• 締切済み

「神を見てしまった。」ということにどんな意味があるのか?

「私は神を見た。」という時、それは「私は、この存在のすばらしさの面をあまりにも奥深く垣間見た。 垣間見たにすぎないことも解る。私の感覚にとって神がいないということはあまりにも不自然で納得のできないことといつしかなってしまっていた。」といった神の存在の確かさを感じているという意味合いで使われることがよくあると思う。 私の場合、上記の感性と理性と良心との融合のようなものからの神の存在の発見のようなものが脳の中に いつしか定着してはいますが、 そのこととは別に、実際に神の臨在をあまりにも深く感じたことが、十数回ほどあります。 その時の迫力はすごいもので、思考停止状態となってしまうのですが、何しろ数秒のことですし、 2、3年置きに忘れた頃に、そういう状態がやってきていた(50歳まで)ので、 いったいこれは「何なんだ?!!」という疑問を考える時間はたっぷりありました。 60歳となった今、それは「あまりにもリアルな錯覚」であり、そういう錯覚も人間の脳には存在しうるという結論となり、むしろ病的症状(完全な意味で病気だとか精神の病という意味ではないですが)に近いとう考えとはなっています。 それでもなお、 もし再びその感覚がやってきたら そのような理性で必死に構えていたとしても、 すくなくともその数秒間の間はとてもでないですけど神の存在を実際に感じているというその状態を否定することなんか出来ないような感覚です。 形は無いです。  でもそれは こんな感覚です。 視覚の根拠は 現代の科学ではたぶん網膜に映るレンズの光と神経の作用ということしか解っていないのではないかと思うのですが、 神経があるとどうして「見える」のかは解っていないはずだと思うのです。 脳があり神経があってはじめて見えるのですが、 それはなぜだか解ってないわけです。   その脳と神経に、神を感じる何かが一瞬ですが開発されたのでは??? という感じです。 そうとしか考えようの無い感覚です。 神が私を選んで訪れたとかいった感覚や思考は、それが始まった20歳の未熟な時にも私にはまったくありませんでしたが(それは、たぶん私が子供の頃何度も重い肺炎で死の床をはいずったことがあるため、さすがに未熟な青二才ながらも神を物語的には考えることは卒業していたのだと思います。)、人間の脳には神をこんなふうにキャッチする能力が隠されていてやがては、それが誰の脳の中にも開花するのではないか? という考えはありました。 最初のうちは、けっこう無邪気に その驚愕状態を楽しめました。 ほんの数秒でも 印象はあまりにも強いですから忘れることなんかできないようなインプレッションの刻まれるそれを 「何なんだろう?」と思いつつもけっこう楽しんでもいたのです。  ともかく楽しい思い出ではあるなというふうにです。 でも そのうちに、その瞬間にある疑問を聞いてみようという考えが起こってきてからは、その時が完全に思考停止状態となることが気になりだしました。 あることとは「なぜこの世にこれほどまでの苦しみがあるのですか?」ということです。 そして、一番最後の50歳の時に、その感覚がやってきたときには、わたしは最大限の恐怖で ギャーーーっ叫んでいました。 苦の存在の因果を深く深く考えたら そうなります。 でも、やがて、神は「いっさい人間を助けたりはしない」ということがようりはっきり私の理性の中に訪れた時、 神が絶対だとかいう論理も消えた時、おそらく神から自立したとき、 恐怖は消えていました。 みなさんは、この体験に どんな意味(意義でもいいです。)があると思いますか? 私の考えも、書いてしまえば、 それは自立すれば、無神論も受け入れることが出来るような信仰が生まれますよ。ということだけです。 「けんかは、もう止めよう。」とうことだけ。 それ以外にたいした意味も意義も 私にとってはですが、残念ながら何もありませんでした。 私のは たぶん錯覚(病気状態)でしょう。 しかし、もし実際に錯覚で無く「神を見た」という能力が人間に開かれたとして、 あなたならどんな意味があると思いますか? へんな質問でごめんなさい。

みんなの回答

  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.3

失礼な物言いになってしまうことをご容赦ください。 神を見た、という人間が居たらまず薬物の使用やフラッシュバックを疑います。 神を見るという行為・感覚は人間の器官には無い能力ですから 普段使用されない神経回路への接続がされたのでしょう。 心理的ストレスも原因と考えられますが、もっと現実的に考えれば それを可能とするのは薬物の使用(化学反応)ではないでしょうか。 もし目の前にそういう方が現れたら、薬物の使用中止をまず勧めます。 あくまで哲学的に考えるのならば、神を見たという観測者の世界では 確かに存在しているのでしょう。(彼を仮に一次観測者と呼びます) ですが、他の観測者からは神は観測されていません。 つまり、神が何かを説いたとしてもそれが適用できるのは一次観測者の世界でのみです。 他の観測者の世界では神は居ないのですから、「けんかは、もう止めよう」という理屈の 論理的な根拠が何ら得られないこととなります。 と、すればけんかを止めるべきなのは一次観測者だけです。 他の観測者からしてみたら、とつぜん平和主義に目覚めた一次観測者に対して やはり薬物中毒を疑うことぐらいしかできません。

arayata333
質問者

お礼

ありがとうございました(^^)。

arayata333
質問者

補足

>失礼な物言いになってしまうことをご容赦ください。 いえ、とんでもないです。 思いやりのあるいちいちご配慮の感じられる言葉の選び用といい、 心の奥のほんとうに平和主義を希求していらっしゃる方なのだなあとすら感じます。 また、かつ「鋭い弁論」だと思いました。 ただ、経典(聖書とか)の解釈の世界と、哲学による神の概念の思索とか、それによる神の実在の発見とかはレベルが違うと、私は思っています。 私の 神の実在感の体験は、先に神の哲学があって、私の現在の考えでは、その概念が幻覚の形で神経回路に出てきたものと考えます。 聞いた話ですが、薬物の使用で見えたりするのはまさに 手が相手の体の中に入ってしまったりなどの、ありえないような映像物体の幻影のようなのですが、その時間に私が感じるのは物体ではないのに実在しているという感覚のものです。 薬物の使用以外にも 考えすぎとかで幻影を見たりするのはあるかと思いますが、 たぶん、似てはいるのだろうと思います。 薬物のように体に悪いとかあとで何らかの苦痛も伴うとか、脳に影響を及ぼすとかいったことが無いだけで、たぶんですが、それが神経の病状の一種だとしても、かるいかすり傷のような病状だと思います。 ただ内容自体は、かなりショッキングな 思索しないではいられないような強烈なんてものじゃない体験ではあったということだけです。 つまり、私自身の今の「その体験の解釈」自体は、ほんとうには神を見たのではなくて、“その実在の感覚というふうに定義づけることの出来る幻”を見たにすぎず、 それをもって、私が神を見たという観測者の世界にいるということでは、現在においては無くなっているということです。 しかし、仮に、人間の脳の中に眠っているまだあまり開発されていない感覚器官が一時的に開いた体験であったとして(つまり、実際に神を見たに等しい体験であったとしてです。)、私の哲学では、ほとんど最初から神は人間を助けたりはしない(つまり いないのと同じで、ただ単にあるがままの命の連鎖と何事か奥深く関わっている存在、あるいはこの存在の提供者でもあるような贈り主なだけだという考えですから) 神や経典のそのままの権威化とかが最初から頭の中に無いわけです。 経典の解釈とかによって、その抽象性レベルの思索で十字軍とかの戦争がなんと愛の宗教にも 愛なんてかなぐり捨てたみたいに最高度にまでつめたく残酷に行われてしまったとかいうそういう宗教の世界とは最初から別個のものだということです。 が、これほど強烈な幻想といもののがあるのだということは、 たとえば、それがかなり個人的な成功哲学と結びついた潜在意識こそ神の領域とかと唱える巧妙な第一次観測者であっても、 それだけ「ずるい」とかそれだけ「かしこい反平和主義者たち」とか、そう簡単には非難できないということも、この体験は意味しているかとは思います。 彼らだって このアイロニーの深さをわかってはいないのでしょう。 「けんかは、もう止めよう」という主張は、たったこれだけの質問内でそのすべてを語りかけようということではないのです。 ただ、質問者にしても、そうして意見は持っていますよということの表明でもあるつもりだということです。 私にしても 神のことよりも、ほんとうは、平和主義を語るような方とは、出来うることなら イソップの太陽と北風の物語の現実外交版を語りたいですね。 詳しく、もっともっともっと詳しくです。 なぜなら、私の哲学では、助けてくれと誰よりも願ってるのはすべてに偏在の神だけです。 神なんか実際に見えても見えなくても そのかぎり意味なんて無い世界だとその体験は教えてくれています。 それよりももってもっと、神の真実を存在の真実を痛みの真実を 希望のありかの真実を見つめようと訴えたい気持ちを質問者が ここに持ってることを隠したくありません。 wiz0621さんのような賢い方には、ここでは、あるわかりにくいアイロニーを返しておきましょう。 神が ご自分の権威を世界に示したいという存在であると思うことほど、神という存在の知性を馬鹿にしたちんけな観測は 他にありえない。? あなたになら わかるアイロニーだと思います。 そんなことより 北朝鮮に太陽を送るには、独裁の服を脱ぐほどの太陽を送るには、どのような手順が必要だろうかという現実的な質問がほんとはしたくなります。とだけ 最後に書いておきます。  あっ、薬物の疑いがまた出てきてしまいましたか(^^)。

noname#84191
noname#84191
回答No.2

神を見たなら、迷わずに神の教えを説くべきでしょう。 何を迷う事があるのでしょう。 神を見たこともない人に、見たことのある人が意見など求めても仕方が無い事です。本末転倒です。 神を見たことも無い人に、神を見た意味など分かるはずもありません。

arayata333
質問者

お礼

私が、迷っていない点は、 存在や神の概念とかについての深い思索とかもできうるかぎり解りやすい言葉のみで(抽象図とか記号とかに頼らないで)自分の考えも語りたいということと、 妥協とかではなくて、有神論も無神論も哲学を深めていけば「和」に出会うという直感です。 迷っている点は、まだまだ ほんの少ししか他の人の心の奥まで見えない人間なので、これじゃだめだなといつも思えてしまう点です。 無知の知と言えば かっこいいですし、それは人間の進歩に必須な自覚のひとつだと思いますが、 ほんとに自分の小ささには翻弄されています。 この質問も がゆえの質問のひとつです。 たぶん、そちらの言いたいことと同じでしょうが、 神の教えとしては、どこでも言われている「寛容」の精神は、 私が質問者でありつつ、ここでも言いたくなることのひとつです。 またはっきり自分のその意図は語っています。 哲学カテですので、迷うから、迷ってまようからそのはてに質問したりする場合も多いでしょうが、同時にそれだけより多く考えに考えた人が質問するのであれば、自分の考えもいつしかしっかり身についてもいるでしょう。 たぶん、このカテは、 車で言えば車輪と関わる 大地を動く直接の部分、歯車のゆとりも必要なのでしょう。ゆとりとは、寛容でもあるで笑。(^^)。 実は カメイドテンさんが、ほんとうに私の質問をよく読まないで直感で回答したのかどうかなんてほんとうには私に解りっこないことです。 あくまで ハンカチ取ってと言って頼んだのにライターをくれる人がいないようなそんな単純な地点の推理からともかく補足しておいただけです。 奥深い本質を問題とする哲学には、時にはお互いにほんとに歯車のゆとりが必要です。    武士道のような 直裁なご回答ありがとうございます。 また同時に惻隠の情を感じさせる、まさに寛容な精神のご回答 ほんとにありがとうございます。

arayata333
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 すばりきましたね。 一刀両断、袈裟切りという感じでしょうか(^^)。 kameidoten様のような人には、 私の質問は よく内容を読んで欲しくて、補足しました。  ニックネームからして友達みたいに感じるからかもしれません(^^)。 「見た!」かあるいは「錯覚した!」こと自体で、神の教え(たとえばキリストの言ったことの内容とか)がなんら解るわけじゃないですよね。 だから もしそれだけならば、この体験自体は無意味で馬鹿馬鹿しいだけです。 が、 カメイドテンさんは、さすがに 無知の知をしっかりとらえている知恵者のお一人だと思います。 その人でなければ、神ならぬ身、他の人の心の中の想いや思いに関わる深さとかは解るはずが無いという謙虚さは、 誰の知恵の進化にも必要なことだろうと、私も思っているからです。 そのへんを、なんなのだろう、この直撃パンチは(^^)という感じのご回答、 気持ちまでスキっとしました。 ありがとうございました。

  • daigo1013
  • ベストアンサー率17% (72/404)
回答No.1

この世に「神」など存在しないのでわかりませんが。単に病気だとおもいます。病院には行っていますか・・・?通ってないなら早めに受診することをお勧めします。 もし仮にあなたが言うとりに「神」がいたとしても、それに何の意味があるのでしょう・・・?「神」とは一人ですか・・・?何人も違う「神」でいるのですか・・・?なぜ他の人には見えなくて、あなたにだけ見えるのでしょう・・・?そんな風に考えると理由はひとつ。あなたの頭のなかだけで起こっているからです。「神」がもし、本当にいたとしても、私にはどうでもいいことですが、「神」の存在などありえませんので、安心してください。 どうしても「神がいる!」と思いたいなら、思っておいても構わないと思います。しかし、動揺する人も中にはいらっしゃると思いますので、あなたの心の中でだけ信じておいてください。他人には言わないことをお勧めします。

arayata333
質問者

お礼

神を信じての思いやりの場合、不自然な場合や さらには偽善的なものにまでそれがひそかに発展してしまう場合もあるかと思います。 そうでない場合も けっこうさまざまにあったりするから つぶさに思索すると複雑だと思うのですが、 ともかくdaigo1013さんの文面には、自然な思いやりそのものを感じます。 真心あるご回答ほんとにありがとうございます。 よりいっそうの精進を期待しております。

arayata333
質問者

補足

暖かい思いやりのあるご回答は 私にとってうれしいことです。 また、私へのお気遣いもありがとうございます。 しかし、病気にかんしては、質問自体にも触れていますように、多少のその気があったとしても何の苦痛も生活への差しさわりもないものですので、 「いや病気だ」ということであるにせよ、 小指をほんのすりむいた程度でしょうか。 そして、これがその「錯覚」という軽病だったとしても、それは神の概念が無い人には起こらないという理論は考えることができますので、その意味での動揺の必要性は皆無とも言えます。 たぶんですが、また私の感じでですが、 存在の謎を解きたくなった人が神の概念を発見したり考えたりしたりしてきたので、またそれによって勇気付けられてきた人も多いので「神の存在が否定される」ことのほうが、それによって動揺する人は多いのではと 思いますが。 その逆の人もいるのですよね。 特に宗教組織を信じている人は そこによりすがるようにして信じてる人も多く、そのへんは注意深く宗教と関わることを語っていく必要があるなと思っていましたが、  逆に信じないことをよりどころとしてたりする人もいるでしょうしね。 「これが正しい」という言い方は、そう確信していてもできるだけ注意深く語って必要をあらためて、感じました。 であって単なる妥協が哲学の対話ではないので、そのへんのバランスが難しいです。 補足しましたのは、 「神がいる!」と思うことを表明することで動揺する方にはどういう方がいるのかについて、 何か具体的に書ける場合、もうすこし説明していただければ、と思ったからですが、 神などいないのにめんどくさい!と思われるなら別に それはそれで個性ですのでご自由であってください。 たとえば、神が監視しているから良いことをしなければと思ってる人とか、その類の考えを持ってる人なら 信念を保つために、神の概念が役にたつところ、 そんなことを考えたりそんな概念無しにも 信念やしっかりした常識にも生きられる人ならば、 監視なんてばかばかしいし、そんなのいやだという気持ちにもなるでしょう。 「人間はもっと自由になれるし、そして」といった気持ちになったりもするでしょう。 そのほかにも神なんか信じたくない、そんなこと考えたくないという人やその理由とかもあるかと思います。 daigo1013さんは、そのへんどういう理解がおありですか?  思いやりのお心遣い自体はよく解るつもりです。 何かそのへん具体的に考えるところがありましたら、また何か よろしければ書いてください。 宜しくお願い致します。 ありがとうございました。