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はい上がるための動機
こんばんは、人生にいきづまっています。 今30代前半で男性です。仕事していません。 毎日悶々として引きこもっています。 幼少時代から今まで最低の環境と最低の心理状態で悪循環は止まりません。(詳しく書くと家族構成や私を取り巻く人々の有り様まで書かなければならないので省きます。) 特に http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BA%E9%81%94%E8%AA%B2%E9%A1%8C にあるエリクソンの発達課題にあるような課題失敗した状態の感情が 常にあることに気づきました。 人を避け、一人の状態になり何とかかんとか安心を獲得することにより物事に思いをはせたり、夢や復讐のことを考えて生きています。 長いこと引きこもっているので近所からも笑われる始末です。 小学生(もっといえば幼稚園児)から20代の若者まで、それらの人に対して自分を出すことが怖いです。特に若い女性は最も苦手としています。 それは自分の弱さが露呈するからだと思います。 著しくコミュニケーション能力がないようです。 (総じて喧嘩ができません) 月日がたつにつれて状況は悪くなり、自分に対する嫌悪感がどんどんふくらんでいっています。それに伴い自分のありたい理想像もどんどんふくらんでいっています。 外にでれば、人の目、人の評価が気になり自分のやるべき物事に集中できません。 今僕の心(体)を支配しているのは恐怖です。 (自分を虐げてきた同年代の人や先生、家族、親戚、それらが当たり前のように情報共有してふくらんでいっているだろう人の生け贄になッ手いることが怖い。(いじめの効用)) 恐怖の前には、私の生きる動機はあまりにも弱いように感じています。 しかし、死ぬことに対しても恐怖を感じるのです。 根っからの臆病のようです。 かなり私は萎縮して生きています。 1、これから社会的に上位になるにはどうしたらいいでしょうか。 (金、名誉、権力・・・・幸福感 etc) 2、敵の自己増殖(仲間が増える)を凌駕するにはどうしたらいいですか? 3、幸せの価値観について、日本のような世間体社会においてどんな可能性がありますか?(たとえばここは、価値観の押しつけがひどいと思うのですが) このカテに優秀な人がいることと、真実を話してくれることに期待したからです。私は頭はよくないので優しい言い回しでお願いします。 どうか多方面から見てもらい回答をしていただけたらと思います。 足りない情報などはできるだけ補足するつもりです。 よろしくお願いします。
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こんばんは。bragelone です。しばらく振りになりますね。 新しいお話をお聞きしました。まだ いい考えは 残念ながら 浮かんでいませんが とりあえず ご返事のごとく したためます。 たしかに 《特殊》だとおっしゃった意味が分かりました。 それほどまでに 《悪循環》に陥るのも 正直に言って 少ないと思われますし 今回 伝えてもらった隣近所の人たちの態度についても かなり特殊であるように感じました。 ★ たとえば玄関を私が開けた時点で前の家から「あの馬鹿こんな時間にでてきやがった」などと罵倒されます。帰ってくれば「もう帰ってきた」などと過干渉です。 ☆ これは はっきり聞こえるように言っているのですか? 何か言っていて だいたい こうだと判断できるということでしょうか? 聞こえよがしに言うにしても 陰口のように言うにしても いつも――五年間ですか――言うとすれば そうとう 変わった人たちであるように受け取るのですが? 何人か みな そろって そう言うのですか? 一人や二人くらいは そんな一方的な言い方はやめなさいというように言って 抑えようとしたりしていませんか? その人たちは あなたの小さかった頃から知っている人たちですか? つまり 以前には ふつうに あいさつをしたり 話をしたりした人たちではないのですか? 人が変わるということは 考えられないでもないでしょうが 一方的で 皆が皆という全体的だというのは たしかに 特殊ですね。 わたしの場合 二軒を除いて 町内では 村八分状態ですが ちょうど真向かいに 最近 引っ越しがあって わたしの家にあいさつに来られました。わたしは町内会に入っていないと そのとき はっきり 伝えました。その後 朝など ごみを出すときに よく 顔を合わせます。こちらから積極的に声をかけるのは控えようと思っているのですが いつも あちらから 声をかけて あいさつをなさいます。 考えてみれば ふつうのことですが もう一年近くになりますか ですから 町内でのわたしの位置づけは分かったのでしょうけれど あいさつを交わすことは つづいています。 ですから あなたの・近所との関係における悪循環は よほど 環境に悪い要素が重なっているのでしょうか とも思っています。 というわけで 今回は かんたんなごあいさつだけです。考えます。まだ いい案が浮かんで来ません。 運動は してくださいよ。食事も 或る意味で 義務としてでも 減らしてでも しっかりとってください。つまり 生活のリズムを ここは少し乱すという部分を持ちつつも 作っていってください。 ★ 孤独の質 ☆ ワオ。でも いい方向かも知れませんね。 ★ デーモン電磁波拡散 ☆ は しないに越したことはありません。悪です。意識の排泄です。アースをしているのだなと認識してやれば 少しは そのこころを相手も 感知するかも知れません。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ――・・・世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわた しを憎んでいたことを覚えなさい。 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内とし て愛したはずである。 だが、あなたがたは世に属していない。 わたしがあなたがたを世から選び出した。 だから、世はあなたがたを憎むのである。 (ヨハネ福音15:18~19) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ お気に召すかどうか。
一度投稿したことのある文章ですが そしてあらかじめ勧誘調ですとお断りしますが よろしかったら お読みください。 1. わたしは ルツ( Ruth )ともうします。 日本人論として知られた『菊と刀』を書いたルース・ベネディクト女史ですとか あの野球人ベーブ・ルース(ジョージ・H・ルース)など かなりわたしの名を 後世において 使ってもらっていますが 日本のみなさんには あまり馴染みがないかも知れません。でも フォークソングの本田ルツ子さんがいましたね。 わたしは 旧約聖書に 『ルツ記』としてちいさな短い一書をあてて 生涯のことを記してもらっています。その中で やもめのわたしは 落穂拾いをして暮らしていたのですが そのすがたを じつは あのミレーが 描いてくれました。その絵のことは よくご存知ではないかと思います。 聖書といっても わたしは じつは 必ずしもユダヤ人ではないのです。遠く血がつながっていますが 死海の東の地に住んでいたモアブ人です。ユダヤ人と結婚して そしてその夫は 早くに亡くなったのですが かれの母つまりわたしの義母に わたしは 一生ついていって ユダヤの歴史に名を残すこととなりました。 祖先のアブラハムから十代目にあたる者はボアズといいますが その ボアズは ルツ――この《ルツ》がわたしです――によって オベド を オベドはエッサイを エッサイはダヴィデ王を もうけた。 (『マタイによる福音書』1:5-6) と聖書に記してもらっています。そしてダヴィデ王のさらに子孫に イエスを生んだマリアの夫ヨセフがいるのです。わたしは そんな遠い昔に生きた一人の女です。いま生きていれば もう三千歳近くになっています。 2. わたしは ただ生きたというだけで歴史上の人物になっています。《なんでもないふつうの人生》でした。これは やはり信仰ということらしいのです。でも それは 目に見えません。ただ生きたというだけなのです。ですから むしろそのために 目には見えない信仰ということばで 人びとが翻訳してくださったのかとわたしは 思うのです。その点について もう少し自己紹介のようなことをお話ししたいと思います。 というよりも 先ほどの『マタイ福音書』の冒頭の記事の中で イエスの系譜が書かれていましたが そこには わたしのほかに もう二人だけ 女性が記されています。そのかのじょらのことについて 短くご紹介したいと思いました。 一人は ラハブといって わたしの後の夫となったボアズのお母さんです。じつは 何を隠そう ラハブも 異邦人で しかも エリコの街の城壁の上に家を構えていた遊女だったのです。 イスラエルの人たちがエリコの街を攻略したときのこと。かのじょは 先に忍び込んできた斥候(スパイ)を二人かくまいました。そのことが縁で サルマンというユダヤ人とのちに結ばれたのでした。これも 信仰ということらしいです。つまり 生活のなかで・人生のなかで なんでもないふつうのことの問題なのですが。 つまり 必ずしも説明のつかない出来事のことです。あるいは ひととおり合理的に説明がつくけれども さらにこの説明の範囲や理解を超えて 話しはどうも広がっていると思えるようなことがらの問題だとわたしも思います。 ちなみにラハブは エリコの人びとから見れば 裏切り者です。売国奴です。イエス・キリストは その子孫ということになります。そうなのです。 さらに五代ほどさかのぼると いま一人の女性 タマルがいます。 ユダはタマルによってペレツとゼラを・・・もうけた。(1:3) とあります。そしてこのペレツとゼラの双子の誕生について 少し込み入った話が伝えられています。 3. アブラハムの子がイサク その子がヤコブで このイスラエルとも呼ばれるヤコブには 十二人の子がいました。四男がユダです。このユダが《タマルによってペレツとゼラを・・・もうけた》のです。このユダも 地元カナンの異邦人を嫁に迎え まづ三人の息子を得ていました。 ユダは タマルを 長男エルの嫁として迎えました。ですから 結果から申せば 先ほどのペレツとゼラの双子は この舅(しゅうと)であるユダとタマルとの間に生まれた子どもです。 この場合は 決してどろどろした関係があるのではなく 必ずしも悪いおこないがあったということでもないと わたしは思います。 夫のエルが結婚後すぐに亡くなると その当時のおきてでは 長男の家系として子孫を残すために タマルは 夫の兄弟によって子をもうける義務を負いました。けれどもそこに生まれる子は 自分の子孫とならないと知っていた次男のオナンは 《兄嫁(タマル)のところに入る度に子種を地面に流した》(創世記38:9)そうです。のちに 自慰行為をあらわすオナニーという言葉は かれの名から来たといいます。このオナンも死にました。 三男のシェラは まだ幼く 成人するまで時を待つことになります。舅のユダは けれども このシェラまで失うのではないかと恐れ 成人しても かれをタマルのもとへ行かせなかったのでした。その結果 ちょっとした策を用いたのですが タマルは けっきょく舅ユダによって 双子の子孫を得ることになったのでした。 4. ちなみに 弟が兄の妻と結婚し 生まれた子を兄の子にして、父の家を相続させるこの風習は レヴィラート婚と呼ばれるもの(申命記25:5-6)で イスラエルに限らず 広く世界で知られています。 話は飛びますが 新約聖書にこのレヴィラート婚にちなんで 人びとがイエスと問答する場面が記されています。 七人の兄弟が 年上から次つぎに死んでいき 次つぎに年下が初めのひとりの兄嫁と結婚していったという場合 《復活の時 その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです》という問いです。復活はないと言う人びとからの質問でした。 イエスの答えは わたしには まだよくわかりません。 神は死んだ者の神ではなく 生きている者の神なのだ。あなたたちは 大変な思い違いをしている。(『マルコ福音書』12:27) という箇所が 大事ではないかと思うのですが もっと多くのことが記されています。皆さんも その段落全体を読んで考えてみてください。『マタイ』では第22章:第23-33節 『ルカ』では20:27-40です。つまりたとえば次のようにも書かれています。 復活の時には 娶ることも嫁ぐこともなく 天使のようになるのだ。 (『マタイ』22:30) 5. イエスの系譜に挙げられている二人の女性(女性は わたしを容れて三人だけです) すなわち 後夫をつうじてわたしの義母となったラハブ そして遠い祖先タマル この二人を紹介しました。 げんみつには夫の兄弟( levir )ではなかったのですが わたしの場合も このレヴィラート婚( levirate marriage )がからんでいます。後夫となったボアズは 亡夫の父つまり義父 の親戚でしたから。 わたしの初めの義母はナオミと言い わたしたちの地モアブにやって来て けっきょく 夫と二人の息子を次つぎと亡くしました。ですから そのとき もう自分は故郷イスラエルに帰るからと わたしを含めた嫁二人には それぞれの実家へ帰りなさいと説いて聞かせたのです。ですが わたしの方は 聞きいれず とうとうユダヤまでかのじょに付いて来てしまいました。なぜかは わかりません。そうしたかったのです。 義母は あまりにもの不幸に遭って帰ってきたので 故郷のベツレヘムの人たちが ナオミさんではありませんかと声をかけても こう言って歎きました。《どうか ナオミ(快い)などと呼ばないで マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです》と。 その後 大麦の刈り入れのときには 落穂拾いをして暮らしたことを述べましたが 親戚筋のボアズの妻となって 男の子オベドをわたしが生んだときからは ナオミも喜んでくれました。 わたしの人生は これだけのものですというのが あらためての自己紹介になります。
読み返していて 投稿したくなりました。 ★(No.12補足欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~ 弱さを誇ると言うことはどうすればできるのですか? 強さを誇ることならばできると思うのですが、弱さを誇るとはその弱さに相当の意味を見いださなければならないような気がします。どのような意味が思い当たりますか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《意味》も何も ないのですよ。《弱さ》のままです。がらの悪い表現を用いるなら 《弱くて悪かったな》です。 いまのままで 人間であるという意味です。ほかの人間と なんら変わりない存在だという意味です。 《自分が嫌いである》とおっしゃっていますが そのままで いいのだと思います。だれにでも そう言えばいいじゃないですか。去っていく人は 去るに任せましょう。 あと 《関係》という側面も 問題を孕む場合が あると思うのですが。つまり 簡単に率直に言えば あなたの周りの誰れかが ちょうどあなたの今の弱点を持っていて それを ことごとく あなたに 心理的に 感染させているという疑いです。 弱点の一つごとに それを あなたに なすりつけた誰れかが いるということかも知れません。つまり 嫌悪をもよおす要素ごとに 原因となる人物が 分散しているかも知れません。それらを あなたは 心理的に 受け止め 受け容れてしまっているという状態のことです。 《デーモン作用》と わたしは 呼んでいますが それほど奇異な現象ではないと思います。その何らかの弱点を持てあまして あたかもアースするのです。アースの対象が あなただったという場合です。まぁ あまり聞かない話だと言われるとは思いますが。ちょっと頭の隅に容れておいて 《敵》との応対のときに 分析してみては いかがでしょう。 今回は これら二点です。
補足
>去っていく人は猿に任せましょう… その通りですね。 そのデーモン作用を利用して、私がアースすることも可能だと考えますが、その場合いったいどうしたらアースすることができるのでしょうか? そうすることによって私はいくらか楽になれるのではないかと考えました。
- namahu
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こんにちは。brageloneさんの言われてる事やってますー? 私もあれはすごくいい方法だと思います。 強くなる方法・・・うーん。 「毎日こつこつ訓練する」しか思いつきません。 色々細かい目標を作って少しづつ克服していってはどうでしょう。 一日一日 目標作って、今日はこれが出来た、これは出来なかったけど明日もう一回チャレンジしてみようという感じです。 ひきこもってるならちょっと外でてみるとか、中で家事するとか、コンビニ行くとか、買い物にいくとか、ブックオフに立ち読みにいくとか、吉野家に食べに行くとか、なんとなくハロワに行ってみるとか(具体的に仕事探す必要無し)、バイト情報誌を貰いにいくとか、眺めてみるとか、人に道を尋ねてみるとか で、出来たらハードル上げる、出来たらハードル上げるの繰り返しです。
お礼
そうですね、namahuさんの仰る通り、こういう細かい目標の一つ一つの達成が必要なことは重々承知しています。 その行動を起こすこと自体がかなり困難な状態です。 たとえば家で行動していれば(我が家はかなりのぼろ屋です)周りの家から… もう書くのも疲れました。申し訳ありません。 今はできるだけ外の人の声が聞こえない部屋でじっとしています。 このパソコンを持って…
kayorinooさん こんにちは。わたしにとって 何も分からないので 再度 投稿致します。 とにかく 今何をしたいか 分からない / したいことがあるようだが はっきりと形を成して現われて来ないということでしたら いま現在の自分を知ることから 始めるのだと思います。 手っとり早くは たとえば 敵という人を 一人ひとり 挙げていってください。その特徴を 文章にして 把握してみるのが よいでしょう。 強いかどうか つまり 強いと見えているかどうかよりも どういう考えをしているかが 重要だと思います。早く言えば はったりで物事を言うのか 慎重に言葉を選んで言っているのか など 分かってきます。 さらにその内容をつかんだなら それが 自分の考えと 違うか同じか 違いは どう違うのか このように きちんと捉えていくのが いいのではないでしょうか。そうすれば敵と言っても どのような敵であるのか 分かって来ます。こちらの接し方も 変わってくるのではないですか。 取りあえず――地獄絵図だそうですが―― そこにいる人間たちを 知ろうとすることから始めては いかがですか。
お礼
brageloneさん回答ありがとうございます。 とても参考になりました。
補足
体力の衰えが激しいです。このままでは行動力は落ちる一方です。 筋トレくらいならばできるかもしれないと考えています。 自分についてはかなり考えましたが、でてくるのは悪い要素ばかりです。 そしてそれを改善するための行動を考えましたが、地域社会、隣近所などとの人的環境が悪い(今の私にとって)せいでどうしても行動に歯止めがかかります。 多数ある問題の中で軽いものをあげると、 たとえば玄関を私が開けた時点で前の家から「あの馬鹿こんな時間にでてきやがった」などと罵倒されます。帰ってくれば「もう帰ってきた」などと過干渉です。 地域社会でのいい話のネタにされているため、このような状態のことを、以前に 生け贄 と表現いたしました。 この一つの問題のみをとらえても、はったりではなく、私の弱さを把握した上でのことと考えました。すでに5年間続いています。つまり改善する能力がないことは周知の事実になります。家族にも相談はしましたが、事が陰湿なため(家などは、向こうから、こちらの様子がよく見える作りです。そのため私がでてきたときだけしか言いません) 考え方が同じか違うかについては、きっと同じなのだと思います。 だから辛いのだと思います。 はっきり言って、相手を知ろうとすること自体にかなりのストレスと能力と行動力が必要です。 こう話していると悪循環であることがおわかりかと存じます。 環境、地域住民、家族、私自身。 それらを変えていかなければ状況の変化はないと思います。 brageloneさんの、他人の話はよく聞きなさいと言う意見には私も同感なのですが。
何が出来るか出来ないかは、さて置き、何かしたいと云うことがなければ、無理して何かする必要は無いのではないでしょうか。 外部から見られることを気にして、藁をも掴む思いで足掻いているように感じられます。 勿論、難ラかをしなければ飢え死にする、と云った状況なら別ですが。 些かアイロニカルな回答になりますが、「現在自分自身をか客観的に知り、受け入れる」ことが肝要だと考えます。どうにも御自身のことを書かれる際に、毛嫌いしている表現があまりに見掛けられますから。 友達なんていなくたって死にませんよ。気力が無いぐらい大丈夫ですよ。私の経験上では。
- namahu
- ベストアンサー率25% (1/4)
こんばんは。そうですね現実を見るって難しいですね。でも >目も合わせたくない地獄を直視してもなお前向きに、エネルギッシュにというわけにはいかないのです。 これは嘘だと思います。だって >現実を直視できないことこそが私の弱さなのだと思います。 一つの問題(弱点)を直視出来てるじゃないですか。 >自分の化膿した大きなとてもグロテスクな傷を自分で治療してリハビリするには、何が必要でしょうか。 直視して尚、前向いて行こうとしてるじゃないですか。 現実を直視出来ないのが弱さで強化したい所であるなら、その解決方法はkayorinooさん自身もう気付いてらっしゃるのではないですか? 地獄で目隠ししてたら、苦しく無いなんてこと無い事は、ご自身が一番解っているはずです。 強くなりたいのですか?それとも弱いままでいいのですか?どっちですか?
お礼
強くなりたいです。 その方法を具体的に知りたくて、このカテゴリに質問しました。 回答ありがとうございました。
- namahu
- ベストアンサー率25% (1/4)
弱さが嫌いですか。自分は弱いと思ってるのですね。 強さが欲しいのですね。 人に負けない強さ、自分に負けない強さ。色々あります。 具体的に言うと何がしたくて、何が出来ていないのですか?
補足
namahuさん補足要求ありがとうございます。 >具体的に言うと何がしたくて、何が出来ていないのですか? こう問われますと、自分は何もできていないような気がします。 そして何もかもがしたいような気がします。 namahuさんに問い返されてはっきりと分かりました。 何もできていないこと、その現実を見ることができないのです。 だから、どうしたらいいのかの計画も立てられないのだと思います。 現実を直視できないことこそが私の弱さなのだと思います。 もちろんなぜ直視できないかは、私の現実そのものが地獄絵図であるからであり、それを直視し続け分析し行動計画を練ることは非常にエネルギーのいることだと思います。うまく説明できませんが、目も合わせたくない地獄を直視してもなお前向きに、エネルギッシュにというわけにはいかないのです。 自分の化膿した大きなとてもグロテスクな傷を自分で治療してリハビリするには、何が必要でしょうか。
No.6&9&10&12&13&15です。 学識や社会経験か あるいは 友情なり異性からの愛情なりかは分かりませんが そのような中身をもって いまのkayorinooさんのあふれ出る優越感が 少しくらいは 抑えられるならば あとは ご自分で 対処していかれることでしょう。 * (わたしが 名刺代わりとしていた文章です)。 1 太宰治ではないけれど わたしは萎縮していた。 わたしが萎縮していたのは 抵抗力の現われである。 萎縮という反応じたいが わたしに与えられたわが抵抗力である。 2 わが日本人は 勇敢にも不仕合わせに耐えている。 萎縮しない。 3 だが もしそうだとすれば わたしから見れば そこに抵抗力はない。 4 いや抵抗力があって強いからそうなのだと言うとすれば 互いの仕合わせは すでに諦め 放棄したからだ。自分自身のそれは 放棄していないかもしれない。 5 ここでいう仕合わせとは シンライカンケイのことだ。 6 だから実際には 自分自身の仕合わせ自体は放棄していないというのは ありえない。自己矛盾なり。カンケイなのだから。 7 そもそも〔根はいい人だからという理由で〕人を信じたことのないわたしは そもそも人間じたいについて〔信じてくれと言われて〕信用することはできないと考えているわたしは 信頼関係に入ることについては 諦めていない。 8 たとえば 約束を守ることだ。違えるならば 訳を説明し 詫びることだ。 9 生身の人間どうしの信頼関係にひびが入るのは 実際だ。だから 修復する。諦めない。 10 欺かれるならば 萎縮する。抵抗力があるからだ。諦めていないからだ。 欺かれたというその不仕合わせに勇敢にも耐えることはできない。 存在を放棄することができないからだ。 《欺かれるならば 我れ在り。Si fallor, sum. 》だったのだ。 11 嘘と演技とで 《勇敢にも抵抗する》ことはない。シンライカンケイの破綻なる不仕合わせに勇敢にも耐えて 萎縮はせずに 大胆にも嘘と演技なる虚構のうちに立ち向かうことは しない。そうすることは 抵抗ではないからだ。そうするのは すでに抵抗力がなくなったからで 信頼関係の修復を諦めたからで だからこそ 《果敢なる忍耐》が始まるのだ。萎縮という・存在としての抵抗は消える。 12 なぜって 虚構で破綻を修復しようというのは 修復をほんとうには諦めたからだ。 13 ましてや その破綻に輪をかけて いまのフィクションを二重・三重に膨らますことは出来ない。そうする人 そうできる人は 勇敢にもその不仕合わせに耐えようとしている。 14 破綻という事実は 取り返しのつかないことだと考えているのかもしれない。けれども その破綻の上に城を築こうという。相い対する別の人ごとに蜃気楼閣をふくらませる。 15 不仕合わせに耐える《勇気》は ストーリをこしらえる想像力の豊かさ その演技のうまさへと そこでは 《発展》する。これが 《世の中》であり 《大人の世界》だとなる。 16 不仕合わせに耐えることが出来ないという抵抗力 その能力 これが人間の能力であり この弱さを もし誇るのなら 誇ろう。 17 ぎゃくに言おう。萎縮せずに不仕合わせに耐えられるという理性のちから その強さ これは むしろ人間が人間を信じることができるという美学にもとづいている。 18 根はいい人なのだからというので 人その人については 信用することになっているという一大虚構の美学。日本人であることじたいのシュウキョウ。 19 欺かれて 欺かれるのは当然のことと受けとめたところで抵抗力をなくしたゆえ 幻想の構築に走った・・・。 20 欺かれて 人その人については信用しあっているが 信頼関係についてはその破綻をそれでよいと認めている。そこで 抵抗力を捨てた。いや そんな抵抗力など要らないと考えているのかもしれない。人自身を信用しあっているということについて 実は そのこと自体が虚構なのだから これの構築を絶えず要請される。その基盤には 社会共同のものがよい。古くは 自民党と巨人と太閤秀吉と。《強い》ものであることが要請される。 21 この強さは 死に基盤を置いている。どうせお互い いつかは死ぬ身だ。死ねば 神である。いい人であり 信用しあえる。だから 生きているうちは あるいは もし死にたくなければ えせ宗教でよいから 長いものに巻かれなさい 巻かれつつ 和を以って貴しと為せ。そうすれば 不仕合わせにも耐えられるのだよ・・・。 22 抵抗がなくなった。抵抗力が消えている。不仕合わせに耐えることが出来ないという能力が欠如している・・・状態。 この現実を見よ。
お礼
brageloneさん何度もありがとうございました。 ゆっくりと何度も見て理解したいと思います。
- masaji999
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1、これから社会的に上位になるにはどうしたらいいでしょうか。 (金、名誉、権力・・・・幸福感 etc) 幸福感を得るには欲を捨てなければいけないと思います。金、名誉、権力は欲しがらない自分を目指したほうが幸福になれます。欲望が無い状態や、少ない状態は、些細なことで幸福感を得れると私は信じています。たとえば、食事、寝るとき、誰かとしゃべる時、幸せになれるのです。 2、敵の自己増殖(仲間が増える)を凌駕するにはどうしたらいいですか? 私は他人について考えなければ敵は増えないと思いました。多くの人が他人や環境に思考を奪われ、他人や環境を改善しようとします (貴方も、そうなさいますか?) そういう人たちは、他人や環境のせいにしたいだけだと思います。そう、自分自身を改善すればいいとは思わないのです。改善する方法を知りたくありませんか? 他人について考えない、極論を言えば、他人を気にしないことです。気にしない方法は、まずは強い意志で自分は"他人を気にしない"と思うことです、そして実践です、いきなりは無理なので"他人を気にしない"振りをしてください。振りならできるはずです、実際は気にしててもいいのですから。ここまで読んで何を馬鹿なことを言ってるのだというかもしれません、ここからが大事です。 自分を改善するうえで大事なのは、嘘でもいいから行動する、振りや演技をすることです、実際に言葉で他人を騙す嘘はいけませんが、良い行いを続けて自分を騙す嘘はいい結果をもたらします。ちゃんとした理屈があります。 行動が変われば習慣が変わる 習慣が変われば人格が変わる 人格が変われば運命が変わる 演技でもいいから行動し、習慣にすれば自分の人格が変わり、やがて運命すらも変えるという素晴らしい言葉です。逆に言えば悪い習慣は悪い人格をつくり悪い運命をたどるということです。現状を変えるには、頭で考え、ここで議論するのではなく、行動することです。 恐らく習慣にするまでに挫折することもあるでしょう、すぐには無理です、ハードルを低くするのが肝心です、たとえば本が散らかった部屋の片づけをしたい人は、1冊だけ本棚にしまう、だけでも初めは十分なのです、明日は2冊というように、もちろん1冊を続けるのも構いません。頑張って行動するよりも、簡単な行動を長く続けることが大事です、習慣にするための行動です。 3、幸せの価値観について、日本のような世間体社会においてどんな可能性がありますか?(たとえばここは、価値観の押しつけがひどいと思うのですが) びっくりするかたもおられるでしょうが、私は今、貧乏になろうとしています、これは自分の欲を捨てる習慣として行っています。貧乏であろうと幸せになれると信じているからです。 そして、最近、私は入籍をしました。私は20万にも満たない給料で妻を養い生活しています。(妻は訳あって仕事をできないので) 私は今、幸せだと自分でハッキリいえます。そして、これからもこの生活は続きます、いえ続けます。 私は信じています、多くを欲しがることが無ければ人は苦しまずにすむのだと。人の苦しみは、自分自身の傲慢さ、欲望によって苦しんでいるのだと思っています。他人や環境のせいにしてはいけません。他人や環境はあなたの弱みに付け込んできます、今こそ、その弱さを克服すべきなのだと教えてくるのです、逃げないでください、逃げる習慣は、臆病な人格をつくります、立ち向かうのです、できることからでよいのです、できることがほんの些細なスタートだとしても。そして、最初は丁寧にゆっくりと始めてください。最初こそが一番勇気がいるのですから。 私は無神論者ですが、この言葉だけは好きなので最後の締めとしてつかわさせてください 「求めよ、さらば与えられん。 尋ねよ、さらば見出さん。 門を叩け、さらば開かれん」 あなたの一番大事なものがあったら、それを死ぬ気で守ってくださいね、そこから活路が見出せるかもしれません。 長文になりましたが、ここまで読んでくださってありがとうございました。 どうか幸せになってください。
お礼
masaji999さん、回答ありがとうございます。
お礼
ありがとうございます。 ないようについてはほとんど理解できませんが、ありがたいという気持ちがわいた後、孤独の質についてふと考えが巡りそうになりました。