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ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか
末法が 現実であるのではないでしょうか。 もう何も新しい思想は ブッディスムからは出て来ないのではないでしょうか。 あとは 広義の訓詁註釈のみではないでしょうか。 《慈悲》は 人間にとって おこなうことは出来ないと なぜ 明らかにしないのでしょう。出来るのなら ふつうの思いやりです。 《縁起=空観》――てっとり早くは 関係主義の思想――は 当たり前だと なぜ はっきりさせないのでしょう。そうでなければ ただその場の気をそらせるための想像物(エポケー)です。 《仏性》ほど 唱えていながら それにもかかわらず はっきりさせないものは ないのではないでしょうか。絶対普遍なら そう言うべきでしょう。そうでなければ ただのお慰みのおもちゃです。思いやりの問題です。 一たんきちんと 葬送をしておくときではないでしょうか。そうすれば ひょっとして 復活する恵みが起きるかも知れません。
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こんにちは 私はそうは思いません 仏舎利を拝見したことがありますが まだまだ魂は生きておられる。と思います
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- qsxdrfvgyh
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前回までの回答が、論理を尽くした虚妄でした。そして、これにて終了です。現実感覚に通じる部分もあるなあとか、かなり自己の信仰内容と反するなあとか、それは、それぞれの判断でいいのです。仏教哲学には、かなり高度な論理性があって、現代の哲学とも整合でき、利用し取り込むことで、さらに精緻化できそうな予感もあります。ただ、宗教としては、哲学よりも行動実践、行(ぎょう)に軸足があるのでしょう。そこは分かっているつもりです。この虚妄がなくても、どうということはないでしょう。でも、この虚妄物語を見た後の方が、見通しは良くなっていると思うのです。それも、錯覚かも知れませんけどね。では、さようなら。また、何時の日か・・・
お礼
qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。 ほんとうは こういうなんでもない生活の端々のことが 思想や信仰の真髄であるかも分かりません。また ほんとうは 論理を超えているところを 論理的に捉えておくのがよいのでしょう。 ただし 宗教となると 教義がうるさいですよ。教義にうるさい人が 影響を与える部分も あるでしょう。信仰は これらとも 何もしないたたかいを繰り広げなければなりません。自由が 至上命令なのです。 まぁ ただし 自由は ひととおりだけとは限らないでしょうから そこから ふたたび 出発するのでしょう。コミュニケーションということになります。 今回のようなコミュニケーションは なかなか得られない機会でありました。 それでは また お会いしましょう。
- qsxdrfvgyh
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後は、マナ識(第7識、ゼンマイ(染汚意))だけのようです。 つまり、自己執着です。「自分が、自分が、俺が、俺が」は、第2仮構相の「有為の世界」に限定できる特徴です。ですから、「逆転換」や「純粋持続」を経過した後では、消滅していると思ってください。自己のマナ識を超越するために、ワザワザ、「逆転換」や「純粋持続」というクッションを設定して、その迂回を経て、自己執着から離脱するという仕掛けです。これで、自己復活や永遠の現在からも自由になれるはずです。 >復活は その場としては 《あたらしい時空間》(《新しい天と新しい地》)のことであるとは 思います。 そうではなく、《あたらしい時空間》はないのです。元からある、悠久の1回の相転換が続いているだけなのです。新旧はないのです。絶対は唯一なのです。自己と隔絶している大元と一如になるだろう(未来形)ということだけです。 >この状態が 永遠につづくのではないか。 これが、マナ識(自己執着)の延長的な推定だと、今ならば、理解できるのではないでしょうか。 >《純粋持続》感は 《永遠の現在》という過程にも ありますねぇ。 これが、第2仮構相の「無為の絶対」・沈黙・無記の勝義諦だとするならば、やはり、有為世界の裏に過ぎないのです。示されるけれども、実体化(?)できないと今ならば、理解できるのではないでしょうか。ただ、ここは、表現しきれていないかもしれません。そこが、僕の限界でもあります。《永遠の現在》という錯覚は、マナ識(自己執着)に起因しているという指摘は、時間論でよく見かけます。時間は、過去視点で形成すると考えられているようです。ですから、「有為の世界」に過去を割り当てました。ここは、そういうものだと納得して下さい。説明は時間論に譲ります。ここでは、まだ、表現し切れないので、省略します。
お礼
質問を締めました。2008年9月5日。 qsxdrfvgyhさんとは 貴重な対話が持てましたが どうも 揺らいでおられるところが感じられます。敢えて ポイントを はずさせていただきました。あしからずご了承いただければ さいわいです。 (あとで わたしも 揺らいだものですから このように ひとこと お伝えいたします)。 みなさん ご投稿を寄せていただきありがとうございました。
補足
qsxdrfvgyhさん もしすべて経験合理性によって整合性を持たせようと思えば たぶん いま おこなっておられるような理論に行き着くかと思います。どうなのでしょうか。余韻のようなところのものを いまは 言葉にして わざわざ表現しているのですよ。 ご回答をありがとうございます。 つまり すべては 相対性の世界での出来事です。絶対にかかわっていても こちらの存在とその能力行為としては すべて 相対の出来事です。しかも その内でも 虚構にかかわる問題で さらにその虚構から派生するのではないかと空想する部分のことです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《あたらしい時空間》はないのです。元からある、悠久の1回の相転換が続いているだけなのです。新旧はないのです。絶対は唯一なのです。自己と隔絶している大元と一如になるだろう(未来形)ということだけです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしの知っていることは ★ 元からある、悠久の1回の相転換 ☆ これが 想定だということです。虚構です。 ★ 絶対は唯一なのです。 ☆ という想定は 妥当だと考えますが 《唯一》という理性による表象は 《絶対》のことではないのです。精神の中の想像物です。 ★ 自己と隔絶している大元と一如になるだろう(未来形)ということだけです。 ☆ そういうドグマだと受け取ります。自由に正当にも 持ち得た虚構です。聖書記者の伝えるところによると ★☆ 自己と大元とは 隔絶しているという基本と そして しかも同時に 隔絶しているままではなく つながったという空想とがある ☆ という想定です。《つながり》は 想定の限りで 《未来形》ではなく 《現在形》だというのです。バプテスマ以後の現在が そのまま 永続するという物語なのです。すべては 相対の世界での《うそ》です。 この《うそ》は 先に述べましたように 余韻のようなものです。そのことに執着してはいませんし 執着から離脱すべきだというふうにも 捉えていません。 じゃあ 自己に執着したから そういう虚構が 生まれたのではないかと言えば どうなんでしょう。 分かっていることは あたかも何らかの意味での十字架上のはりつけという状態に遭って そのあとに 虚構が現われたということです。世間からも神からも 見放されたそのあと あたらしい自己を得たということです。(その自己は 自己還帰と言ってもいいほどに 見失っていたもともとの自己であったとも 言い得ます)。 あとは その虚構が 与えられたものですから それに甘えている それだけのことなのです。 それにさらに尾ひれをつければ 《自己が 死を通ったあとにも 復活する》というまでになっているということです。そうだというのであれば やはり 甘えますよ。ふつうは。 けれども すべては 余韻の世界ですよ。
- qsxdrfvgyh
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結論から書きますと、輪廻転生はありません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 死(逆転換)は、隔絶した「究極の他者」という未来に移行すると同時に、未来から現在への「ベルクソンの純粋持続」を経て、「アラヤ識」に降り積もるように移行して過去になっていくイメージです。そして、個々の夢の中に現れるようになって、夢の中で復活を果たすというイメージを持っています。これが、僕の復活観です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ まず、自己の死が、究極の他者になるのですから、すでの他者の系列になっています。他者のアラヤ識に降り積もるのです。他者の夢や記憶として現れる想念上の復活です。自己として復活するのではありませんし、物体(空間)系の移行でもありません。時間系の視点なのです。悠久の「純粋持続」感を表現したつもりです。 >復活したわたしが 死を含み持つといった印象です。 ここが、違ってしまっています。 >不死の境地というのは解脱(成仏)の境地 自己の不死という視点なのでしょうが、自己の死から他者系列ですから、自己はありません。また、生存中の解脱(成仏)もありません。「究極の他者」・「未来」・「絶対領域」に逆転換するので、その時ことごとく一如化し、解脱(成仏)し、他者のアラヤ識(第8識、無意識)に降り積もるだけとなります。この流れが、経典では正確に表現できていないのではないでしょうか、あるいは、誤魔化しているため、分かりずらくなっていると推察します。論理上の整合性を追求しただけです。ただ、実感に近いと僕は納得しているのです。でも、論理的な妄想です。正確には、信仰ではないと思います。本来、語りえない領域を含んでいますので、妄想に近い物語・フィクションです。 自己の復活(《不死の境地》)に執着しないように、仏陀は諭すと思うのです。地獄も年忌供養も違った意味に変質せざるを得ないでしょう。 「地獄」とは、憎しみ感とともに他者のアラヤ識に降り積もることであり、「年忌供養」は、遺族・知人などのアラヤ識的なケアであるのかもしれません。「自己中」悟りからは、脱するべきと思うのです。社会と関わった悟り観(衆生救済)が、大乗のいいところだとは思います。
補足
いやあ qsxdrfvgyhさん そこまで 科学の目で 考えておられるとは 気づかなかったです。ご回答をありがとうございます。 信教の自由・良心の自由という領域にかんしては その外枠としての類型を その自由という公理に背かないような内容=形式として 決めておけば あとは ほんとうに自由だと思っていました。もちろん 説明しうるように 言葉による表現も 用意するにはしますが 要するに あとは ドグマだと思っていました。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (1) 自己の死が、究極の他者になるのですから、すでの他者の系列になっています。他者のアラヤ識に降り積もるのです。 (2) 他者の夢や記憶として現れる想念上の復活です。 (3) 自己として復活するのではありませんし、 (4) 物体(空間)系の移行でもありません。 (5) 時間系の視点なのです。 (6) 悠久の「純粋持続」感を表現したつもりです。 (7) 生存中の解脱(成仏)もありません。 / 自己の復活(《不死の境地》)に執着しないように、仏陀は諭すと思うのです。 (8) 「地獄」とは、憎しみ感とともに他者のアラヤ識に降り積もることであり、「年忌供養」は、遺族・知人などのアラヤ識的なケアであるのかもしれません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (2)と(8)は ほとんどまったく現実に相即的で 誰もが 納得すると思います。 そのほかで もし 感覚的に反応するところでもいいから述べよと言われたならという条件で お応えします。 (6)の《純粋持続》感は 《永遠の現在》という過程にも ありますねぇ。 〔ちなみに 相続した身分や 一代で築き上げた地位を守るという意味での 《現在の永遠》ではないですから 《純粋な時空間の持続 もしくは 〈わたし〉の持続》が 永遠の現在なる過程です〕。 でも いま・ここなる存在は 《時空間》にあるしかないですから 単純に考えるなら 復活は その場としては 《あたらしい時空間》(《新しい天と新しい地》)のことであるとは 思います。(4)と(5)との関係では 異同があるようですが これは おそらく 詰めるようなものでもないと思うのですが。 つまり 共通認識と言いましたが 異同が明らかになれば それを 互いに認め合えばいいのだとも思うのですが。 (3)は なんとも 分からないと思うんですが 決めたほうが いいですか。いま・ここなるわたしは 《自己の復活》であると思っていると思いますよ。だって ほかには 考えられないのではありませんか。 いや ということは (1)の問題があるのですね。 ★ 自己の死が、究極の他者になる ☆ これに対しては たぶん わたしたちは 《死が どうにかなる》という発想はなくて そうではなく 《この朽ちるべき心と体のわたしが どうなるか》というふうに 捉えると思います。《朽ちる》こと自体は 自然史の過程です。それを超えて どうなるかです。 一方で 《どうにもならない。 / 死んだらおしまい》という答えも あると思います。しかも 他方で と言っても これを 別に否定するためではなく 否定しようと思って 夢見るのでもなく ただ 現在が 純粋持続になったのなら その後も おそらく この状態が 永遠につづくのではないか。と ここまでは 思うはづです。死が途中にあろうがなかろうが です。 要するに 《論理的に言って 甘い》ですよ。たぶん 復活は それを説明することを追究しますが そうなることを わたしたち人間が追求することだとは思っていないからだと思います。むしろ 甘えるだけだと思っていると思います。 (7)は こうです。《わたしが完全だということではありません》とパウロも言っていますが アウグスティヌスによれば(ただし 出典をいま覚えていません。思い出せません) 《永遠の現在なる過程でも とうぜんのごとく 〈あやまつならば わたしは有る〉ということなのだけれど その過程が 過程じたいとしては あやまちを修正して進む生として あやまちから自由になっていれば すでに 完全である》 こういう言い方もしています。 ★ 輪廻転生はありません。 ☆ とわたしも書きたかったのですが そう書くと わざわざ否定していることになると思って 止めました。その観念から自由であると言いたかったのです。この点は 論理的ですね。
- qsxdrfvgyh
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復活の考察では、いよいよ時間を導入せざるを得ないようです。その前に仮構の整理をしておきます。 第1仮構相(絶対・相対の相) 絶対領域 究極の他者 神の国 非空観 虚数時間 未来(隔絶感) 相対領域 時空世界 全宇宙 空観縁起 実数時間 現在と過去(親近感) 第2仮構相(相対内の有為・無為の相) 無為の世界 無為なる絶対 沈黙・無記の勝義諦 現在 有為の世界 有為なる相対 世俗諦 アラヤ識 過去 相転換(時間視点では、ベルクソンの純粋持続) 絶対領域→無為なる絶対 無限に持続する1回の相転換中と見る。相転換は時間の視点では未了である。 逆転換(死) 有為の世界→絶対領域(究極の他者)、隔絶の未来 死(逆転換)は、隔絶した「究極の他者」という未来に移行すると同時に、未来から現在への「ベルクソンの純粋持続」を経て、「アラヤ識」に降り積もるように移行して過去になっていくイメージです。そして、個々の夢の中に現れるようになって、夢の中で復活を果たすというイメージを持っています。これが、僕の復活観です。これも妄想です。
お礼
☆ ちがいとなる特徴として。 ○ わたし=brag. は 信仰が始まってからあとは すべてを通り超えて 復活(《不死の境地》)だけの心境になる。 ◆ bonb.さんは 現実において 《生命と生命との関わりの中で・・・の営為の積み重ねの過程》が必要と言う。 ○ brag は 経験的な思想や行為に 信仰(つまり 無根拠のもの)が 先行すると思っている。(この《先行》は 時間的なそれではなく 考え方の上でのそれである。言いかえると 両者が 同等だとも思っていない)。 ◆ ただし 仏教徒の中では珍しいと思われることに bonbさんは 《不死の境地というのは・・・何生かかるかはわかりませんが実現できる境地であると私は信じています》。すなわち 無神論という信仰の立ち場である。 ○ ただし brag は 過去を問わない。輪廻転生には かかわらない。 ☆ そこで これらに照らし合わしてでも qsxdrfvgyhさんは 理論と現実〔および 信仰〕とが どのように かかわっているのでしょうか。にも わたしは 関心があります。どうでしょうか。
補足
qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。 仮構の中においてではありながら さらに死生をめぐる基本的な仮構を 共通の認識としておくべきだとわたしも 思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 死(逆転換)は、隔絶した「究極の他者」という未来に移行すると同時に、未来から現在への「ベルクソンの純粋持続」を経て、「アラヤ識」に降り積もるように移行して過去になっていくイメージです。そして、個々の夢の中に現れるようになって、夢の中で復活を果たすというイメージを持っています。これが、僕の復活観です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん 第一文を飛び越えて 第二文の内容が わたしにも 結論に近いと考えます。 ○ 死は 訪れる。訪れるのですが 死が わたしを蔽うのではなく そうではなく 復活したわたしが 死を含み持つといった印象です。 以前に(昨年の秋ですが) 仏教を勉強しなおそうと おしえを乞うたとき こういう回答を得ています。 ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《QNo.3454478: 〈我れ〉はある?ない? どちらですか(仏教) = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html 》そのANo.47。 ☆(= bragelone )《問題は 因果関係が 人間にすべて 理解できるかどうかです。理解できないはづです。ブッダを除いて。ブッダの知恵は あらゆる縁起関係を知っているとすれば つまりその不死の境地は わたしたちにとって 信の中にあります。あると信じています。》 ◆ 不死の境地というのは解脱(成仏)の境地ですので、自分の仏教徒の立場からいわせていただければ、何生かかるかはわかりませんが実現できる境地であると私は信じています。縁起の法とは、不死の境地(空性)における仏の智慧により覚知したものですが、この智慧は人により様々ではないかと思います。〔* ・・・シャーリプトラの例などによる説明がある・・・〕。 宇宙法界を貫く縁起の法の覚知と「不死の境地」の実現は、必ずしも不二であるとはいえないのではないかと思います。もし、そうであるならば〔* =不二だと言えるのなら〕、釈尊以外に解脱したものの存在がありえないことになり、釈尊の法を説いた意味が全くなくなってしまいます。シャーリプトラの実践修行も全く意味のないものとなり、六道を輪廻していることになってしまいます。 私たちの無明に対する仏道修行の実践の段階において、縁起というものが、実践者にどのように覚知されるかはわかりませんが、さしあたっては今まで、自分中心に生きてきた人が、自分の身近にいる他者のこころの痛みを、我がことのように感じられるようになるといった程度かもしれません。かりに、そうだとしても、その人の生命のベクトルの方向は、輪廻的生存の原因である自己と他者を対立的に捉える無明の働きの消滅化→生死への自由を獲得する境地に近づいているということはいえると思います。中道の境地を目指す仏道修行の中で、だんだんと他者のこころの痛みが分かち合える人が増えてきたとき、そこにのみ縁起共生の世界が現出するのではないでしょうか。 《信のなかに「不死の境地」がある》ということは、信によってのみでも無明が消滅することができるということでもありますが、果たしてそうでしょうか。自分の身近な人に困っている人がいれば、親身になってその人の苦を除こうと努力するとき、このふたつの、生命と生命との関わりの中で、無明の働き、自己執着の働きが生命の具体的な現実相の中で、具体的出来事として徐々に消滅化していき、この営為の積み重ねの過程に、「不死の境地」も実現できると思います。( =以上bonbonnier さんのご回答) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- littlekiss
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こんばんは、brageloneさん。 息子は父の遺志を引き継いだ。「人の命は地球よりおもい」と。辞意表明は、意思表示。辞意を表明をしたのは9月1日。9月1日といえば…関東大震災の惨事を教訓として、防災意識を高める日。9月といえば…数年前、9.11同時多発テロが起こった月。辞意表明はいわば、「テロには屈しない」との表明。いいかえれば、「人の命を守る」との人権宣言。突然の辞意表明に、人々は戸惑い。口々に「無責任だ」と野次を飛ばす。そして、人は人を人としてみなくなる。「無責任だ」と言い募る言葉は過激に熱を増す。。人の道を踏み外す、気づかぬうちに。言い募る者自身が、いつしかモンスターペアレントへと変化する。「無責任だ」と野次を飛ばす者に問う。「無責任とは?」何だろうか? モラルハザードへの警鐘を 辞意表明というかたちで 鐘を打ち鳴らしたのではなかろうか。 ―責任により注意義務を果たす― QNo.3843320 -ANo.26 【《われはブッダなり》と宣言する人は】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3843320.html 【企業の会計処理】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%97%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3 原価即事実説、原価即価値説、という二つの相対する考え方が根底にある。 http://www.hi-ho.ne.jp/yokoyama-a/ias&jgaap.htm
お礼
littlekissさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 【《われはブッダなり》と宣言する人は】 ☆ というような質問もしていましたね。イエスの答えについても 評言を書いていましたね。 一般的にみれば まだまだ やはり いまのこちらの質問には 回答が寄せられないでしょうかね。 ★ モラルハザードへの警鐘を / 辞意表明というかたちで / 鐘を打ち鳴らしたのではなかろうか。 ☆ ううーん。どうなんでしょう。洞爺湖サミットの前から あった辞任説のようにも思いますし 逆に なんとか 持って来たようでもあったと思えますし。・・・ 公明党が 噛んでいませんか。 時代が 変わりつつあるようにも 思いますが。 インド洋上の原油供給を止めても 評価される世界への貢献を 考えなくてはいけないですね。 せっかくインタネットがあるので それを通じて 世界中で井戸端会議が起こされていくといいですね。ペシャワール会の人さえ 狙われましたし。若い人 張り切ってやぁ。
- qsxdrfvgyh
- ベストアンサー率22% (17/76)
No.51の「死」に関して、どうも見解の相違が、縮まらないようです。 >A(生)にB(死)がない(無効にしつつ取り込んでいる)が、終末時には、B(死)にA(生)がない(消滅している)。 ・・・ >死は飛んで行きません。必ず訪れます。ただ、生有る限りは、無効となって飛んでいますが・・・ 生者に死はないが、死を無効にしたまま隣合わせているイメージです。 ところが、生から死に移行する時、死とは、絶対領域への逆転換ですから、相対領域の私には、観察視点がないのです。ウィットゲンシュタインも「死は人生の出来事ではない。人は死を体験しない。」と『論考』6・4311で書いています。古代ギリシアのエピクロスも同じです。普通の他者の死という事実は、いくらでも見ている気がしているのですけれども、自分のは、だめなのだと思うのです。 ▲▲ 《コリント前書》15:42-44 ~~~~~~~~~ 死者の復活もこれと同じです。 蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、 ・・・ つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。 自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これが、私たちの相対領域から隔絶した絶対領域の話ならば、納得ですが、私たちの相対領域の話だとすると、詰めが甘いと言わざるを得ないのです。死(逆転換)とは、隔絶した「究極の他者」になるという理解を僕は、結構、気に入っているのです。シックリ来るのです。ここは、そういう信仰と言えます。 最後に、死の直前までの、この相対領域の中で、自利利他行の実践と共に一如を成す沈黙・無記の勝義諦(別名 無為の絶対)は、見事な透明感で示されていると思いませんか。この感じを無理に言語化すれば、これこそ、悟るという体験ではないかと思うのです。透明で、静寂で、無味無臭で、捕まえられないのだけれど、ひっそりと隠れているのでした。絶対と相対の相転換・逆転換は、創造と破壊の御伽話ですが、結構楽しめたと思うのです。絶対が、相転換後、相対の背後で、無為の絶対として存続しているという想定は、結構、奇想天外ですが、相対世界の有為・無為の構造と整合させる上では、論理的に不可欠で、また、仏教哲学の欠点(沈黙・無記の勝義諦の理解)を補充する重要な着眼点にもなっているはずです。また、死を逆転換と捉えれば、絶対への復帰は「復活」であり、絶対=究極の他者、神の国というこの時空との完全な隔絶感も表現できると思いました。ただ、このあたりは、妄想になってますけどね。キリスト教とは、異質なのでしょうね。異端思想なのかなと思いました。
補足
qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。 たしかに 命題として提出したり さも理論ふうに 説明したりしましたが わたしのほうの死生観は 特殊であるかも知れません。 ○ わたしの朽ちるべき旧き人が すでに 死んだ。あとは わたしの〔霊の体につながる〕新しき人として 生きるだけだ。 ☆ これだけの むしろ 生きる実態があるに過ぎません。ですから これから迎える死は どうでもよいのです。そう思っているという意味です。 さぞ 理論として対抗するかのように 書いてしまいましたが ほんとうに 上のようなのです。ほかのキリスト者のことは知りませんが 天国にしても どうでもいいのです。あとは 思う存分 死ぬまで生きる これだけです。 参照しうると思う箇所です。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 * わたし( bragelone )は 水による洗礼は受けていません。霊に よるバプテスマを受けました。 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。 死んだ者は、罪から解放されています。 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。 (パウロ:ローマ書簡 6:3-11) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですので 生物学的な死の時点は どうでもよくて 問題は バプテスマを受けたその瞬間です。それを境に 旧と新 そして あたかも 死(つまり 死に行き着く生)と生(復活につながる生)とに 分けられています。 つまり ごめんなさいということにもなるのですが もしこうであるならば 逆転換も もう あまり 関係なくなって来ます。もちろん その箇所では 一生懸命 そういうふうに考えをまとめて 書いたのですが 今回 こういうふうに問われて たしかに 上に述べた内容が 実際のわたしです。それに間違いありません。 《永遠の現在》 これは すでに出していましたね。そのことで 救われたかも知れません。そういう認識ですから。 * 神の国などについての神学 これは また それとして 探究されます。 * あと 《創造と破壊》 これは 表象していますので その点では ちがうように いま 思いました。 * キリスト者のあいだにも ちがいがあると言うべきかも知れません。――これは これで けっこう 重要な論点になってきたように思います。他人事のようですが。
- qsxdrfvgyh
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★ 思考実験継続宣言 ☆ は 大事だと思います。それまでの方針を 推測としてでも 全部 展開してこそ 新しい出発が――もしあるとすれば―― 訪れるのだと思います。 ありがとうございます。そこで、三性説解釈を少し追加します。認識論から行動論への繋がりになっていたようです。有為即無為の仮構イメージに留まっている場合ではないようです。信仰、無信仰、自由、不自由という決めつけ言語ゲームからの脱出の時かもしれません。 1.遍計所執性(へんげしょしゅうしょう):仮構執着(固定的・静態的)からの離脱・・・非有・非無(中道)へ向かうこと・・・無常へ 2.依他起性(えたきしょう):無常(流動的・動態的)・・・千変万化の縁起関係に突入・・・無我へ 3.円成実性(えんじょうじっしょう):無我(動作をしている時のみ私が出現する・あらゆる動作を除いた私なんてない)・・・自利利他円満の行動実践重視・・・こころのままの行動こそ「生」である。
お礼
qsxdrfvgyhさん このあたりで わたしのいぢわる魂が 起きて来ました。対抗命題をぶつけてみます。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・今は決してあり得ないこと つまり 人間が欲するままに生きること が真実となるであろう。 なぜなら かれはあの祝福〔* しかも これは 何と あの《生めよ ふえよ 地に満ちよ・・・》(創世記1:26-31)のことであるらしい〕において 悪しく生きることを欲しないし また欠如するであろうものを欲しないし さらに欲するものは欠如しないであろうからである。 愛されるであろうものはすべて現在するであろう。 現在しないものは欲求されないであろう。 (アウグスティヌス:三位一体論13・7〔10〕) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ しかも このような物語の更新は ▲ 神から人間の中へ到来し 人間に近づくのでなければ ☆ 叶わないという趣旨で言っています。 つねに 終わりから始めるというずるいやり方ですよね。ただ わたしとしては このやり方が 与えられてしまった。・・・ あぁ なんじ 過程のとうとさを知らずや。 一足飛びにて歩むとは いかに 横着なる者ぞ。・・・
- qsxdrfvgyh
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結局、無信仰と信仰との差異が、厳然と隔絶した在り方で、仮構しているということのようです。どちらの仮構も、一方が他方を無効にして、一如観を証明しているのでしょうが・・・。信仰は受け入れた途端に遵守に転じる(不自由になる)ように、昨夜、思いました。無信仰で探究を続ける方針で暫らく歩もうと思いました。ただ、先は見えないのです。そんな心境です。以上、思考実験継続宣言でした。
お礼
qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。 ★ 思考実験継続宣言 ☆ は 大事だと思います。それまでの方針を 推測としてでも 全部 展開してこそ 新しい出発が――もしあるとすれば―― 訪れるのだと思います。 ★ 信仰は受け入れた途端に遵守に転じる(不自由になる)ように、昨夜、思いました。 ☆ これにも 一応 応答しておきます。大雑把に言って ○ 信仰に入ると つねに 自由であれという 至上命令を受けるようなもの ☆ です。まったくの自由です。完全な自由です。一点の不自由や妥協も 許さないぞという雁字搦めの命令です。 あと 無神論は 信仰を拒絶するという信仰(=非思考)体験〔からの出発〕だと思います。うんぬんでした。
- qsxdrfvgyh
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No.34の回答で 「空」とは、「AにBがない」の論理形式をしています。「A(現象界の事象)にB(自性)がない」ことです。「B(自性)がない」ことは、「B(自性)が欠けている」ことです。そして、「非B(無自性)である」ことに変換でき、すべて類似表現です。 と書きました。 つまり、「B(自性)がない」、「B(自性)が欠けている」、「非B(無自性)である」を強調して、空観縁起、無主体・無実体を説いて、執着からの離脱・解脱に視点が集中していたわけですが、「AにBがない」の論理形式全体を生かすと、有為即無為の一如観であることに気付くわけです。 「有るという概念」に「無いという概念」はない(含んでいない)。 「有限という概念」に「無限という概念」はない(含んでいない)。 「有為の現実時空世界(全宇宙)」に「無為なる絶対」はない(裏に隠れている・有っても無効だ)。 このような形態でA(有為)がB(無為)を無効にしつつ取り込んでいるわけです。 生の世界、有為の世界、現実の時空世界(全宇宙)、相対領域の存在感・認識感を充分反映できていて、自然な言語ゲームになっています。 >《死》なんかは 簡単に 吹っ飛んでしまいます。 これには、反対です。 有から有が生じている。無から有は生じない。 生から生が引き継がれている。 個々において、生は不連続的に連続してきた。 有がその有限性のゆえに消滅するとき、無が出現させられる。 個々の生は、必ず死に転じてしまう(死が出現させられる・自ら出現するのではない)。 A(生)にB(死)がない(無効にしつつ取り込んでいる)が、終末時には、B(死)にA(生)がない(消滅している)。 と考察しました。 有為即無為の一如観は、論理的かつ常識的な認識です。死は飛んで行きません。必ず訪れます。ただ、生有る限りは、無効となって飛んでいますが・・・
補足
qsxdrfvgyhさん 《〈死〉よ おまえの棘は どこにあるのか?》という宣言は もう 趣味の域に近いと思います。遊びではないのですが 有神論のそういう特徴です。 ご回答をありがとうございます。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >《死》なんかは 簡単に 吹っ飛んでしまいます。 これには、反対です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ まづ 無神論として そういう立ち場は 成り立つかと考えます。そうして 有神論にしたところで 次の引用文のように 《〈死〉は 必ず 訪れる》 この前提(事実)は 動きません。その上での物語の新たな更新です。 ▲▲ 《コリント前書》15:42-44 ~~~~~~~~~ 死者の復活もこれと同じです。 蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、 ・・・ つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。 自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いわば 絶対が 相対の世界に介入したときからは そのような有神論ふうの《一如》のもとに 物語が書き替えられたと考えます。死を迎えることじたいは 変わりありません。 言いかえると いま生きているときに その時空間が 永遠の現在になる。それゆえ 死が 来ようが 虚構としては 永遠の現在が そのまま つづいていくという妄想のことです。それ以上のことは 分かりません。 ★ 有がその有限性のゆえに消滅するとき、無が出現させられる。 / 個々の生は、必ず死に転じてしまう(死が出現させられる・自ら出現するのではない)。 ☆ という事態を へのかっぱだと思っているという意味です。その意味で 《死が 吹っ飛んでしまいます》。むろん 事実問題としては ★ 死は飛んで行きません。必ず訪れます。 ☆ です。したがって そうであるからこそ 信仰世界が 充実していくのだとも思います。つまり 錯覚が もう要らないというほど 豊かなものになっていくのだと思います。 つまり これは あくまで 有神論の世界観です。 なぜなら ★☆ 無自性の《大いなる欠如》 ☆ は 《〈わたしは有る〉 それが わたしである》と名乗ったというのですから。これが 有神論です。遊びではありませんが 趣味の域に近いと言わなければならないでしょう。 簡単にいえば ○ 死は来ますが 死に蔽われるわけではない。 ☆ こういう死生観です。もっと簡単には 生老病死を苦とは見ない(つまり 見ないように 転換が成る)のだと思います。信仰が与えられてからは 信仰世界のことがらは 向こうから来るのですから。それをこちらは 受け取り 受け容れるというだけですから。
- qsxdrfvgyh
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今回の応答質疑を経て、次のような結論に至りましたので、報告させていただきたいと思います。僕にとって、大変な成果として整除でき、ありがとうございました。 『沈黙・無記の勝義諦とは、生に常に付き纏う死の影が「示されている」現実から<一如観>となる。 二項対立のどちらか一方の<仮構イメージ>に執着してはいけないことが分かった。 どちらか片方だったから、執着になっていたのであり、そこを乗り超えるのが<一如観>である。 ゆえに、偏らない有無一如の言語ゲーム世界に突入していたことを知る。 「有為の現実時空世界(全宇宙)」と「無為なる絶対」は、表裏一体の<一如観>である。 戯論と思われた相転換・逆転換も<一如観>であり、偏らない有無一如の言語ゲーム世界と見ることができそうだ。 そして、沈黙・無記の勝義諦に至る道が、すでにそうであったことに気付く。 バリバリの言語ゲーム世界にあって、<一如観>に基づいて記述できさえすれば、有為即無為の境地となっている。「一如なる言語ゲーム世界」にすでにいるので、さらなる探求が続きそうだ。』 このような心境です。では、またの機会に質疑応答することを期待したいと思います。楽しみです。
お礼
qsxdrfvgyhさん 一夜明けて こんにちは。ご回答をありがとうございます。 やはり わたしの場合は 導き手のアウグスティヌスに敬意を表して 有神論の立ち場で 応対します。 そもそも 絶対が 相対の世界に 歴史的に――つまり無為が 肉を帯び 有為の存在となって――介入するというとんでもない物語に立っています。つまり 奇想天外・奇妙奇天烈 とんでもない《一如》観です。 《死》なんかは 簡単に 吹っ飛んでしまいます。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ わたしたちはしかし その霊的身体の恩恵がどのようなものであり どれほど偉大であるかをまだ経験していないので それについて語る言葉がみな軽率になりはしないかと恐れている。 だがそうであっても 神をたたえるためには(* ――勝義諦は 沈黙・無記でありつつ それとあたかも一如となった世俗諦にあって 「一如なる言語ゲーム世界」の探究として ――)わたしたちは希望の喜びのゆえに沈黙してはならないであろう。 (アウグスティヌス: 『神の国』22・21) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この井戸端会議を 広げていきたいという野心もあります。
お礼
yuyuyunnさん ご回答をありがとうございます。 貴重なご意見と思います。 ひとつは ★ 仏舎利を拝見したことがありますが ☆ というように 実在の人物というところから 説き起こしておられる点です。そのような互いの尊重(――和でもあると思いますが――)が 貴重な思いなのであると感じました。 もうひとつは ★ まだまだ魂は生きておられる。と思います ☆ こちらは やや皮肉に聞こえるようなことを申しますが 一方では 上の第一点とつながって 一人の人間にかかわる《魂》を挙げておられる点です。わたしの解釈としましては 《魂》の存続は その思想の潜在能力と受け取りますが 現在に到るまで つづいたというそのしなやかさ だと思います。 ただし もう一方では 《まだまだ》と言っておられる点にも注目します。揚げ足取りでないことを願って言いますが その潜在能力が 衰えて来たとも受け取っておられるのではないでしょうか。 というような趣旨で 質問をかかげました。その趣旨説明に取り上げた鍵概念の問題についても 触れていただければ ありがたいとも思いました。ありがとうございました。