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ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

 末法が 現実であるのではないでしょうか。  もう何も新しい思想は ブッディスムからは出て来ないのではないでしょうか。  あとは 広義の訓詁註釈のみではないでしょうか。  《慈悲》は 人間にとって おこなうことは出来ないと なぜ 明らかにしないのでしょう。出来るのなら ふつうの思いやりです。  《縁起=空観》――てっとり早くは 関係主義の思想――は 当たり前だと なぜ はっきりさせないのでしょう。そうでなければ ただその場の気をそらせるための想像物(エポケー)です。  《仏性》ほど 唱えていながら それにもかかわらず はっきりさせないものは ないのではないでしょうか。絶対普遍なら そう言うべきでしょう。そうでなければ ただのお慰みのおもちゃです。思いやりの問題です。  一たんきちんと 葬送をしておくときではないでしょうか。そうすれば ひょっとして 復活する恵みが起きるかも知れません。

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  • yuyuyunn
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回答No.1

こんにちは 私はそうは思いません 仏舎利を拝見したことがありますが まだまだ魂は生きておられる。と思います

noname#80116
質問者

お礼

 yuyuyunnさん ご回答をありがとうございます。  貴重なご意見と思います。  ひとつは  ★ 仏舎利を拝見したことがありますが  ☆ というように 実在の人物というところから 説き起こしておられる点です。そのような互いの尊重(――和でもあると思いますが――)が 貴重な思いなのであると感じました。  もうひとつは  ★ まだまだ魂は生きておられる。と思います  ☆ こちらは やや皮肉に聞こえるようなことを申しますが 一方では 上の第一点とつながって 一人の人間にかかわる《魂》を挙げておられる点です。わたしの解釈としましては 《魂》の存続は その思想の潜在能力と受け取りますが 現在に到るまで つづいたというそのしなやかさ だと思います。  ただし もう一方では 《まだまだ》と言っておられる点にも注目します。揚げ足取りでないことを願って言いますが その潜在能力が 衰えて来たとも受け取っておられるのではないでしょうか。  というような趣旨で 質問をかかげました。その趣旨説明に取り上げた鍵概念の問題についても 触れていただければ ありがたいとも思いました。ありがとうございました。

その他の回答 (58)

回答No.29

かなり加除修正してみました。 1.遍計所執性(へんげしょしゅうしょう):仮構の存在形態 無実体なのに価値判断によって形成される執着対象として仮構している固定性 有為の中心概念 物に限らない(イメージなど言語的存在) 現実把握・認識の初期段階(有我の段階) 2.依他起性(えたきしょう):他に依存する存在形態(相対的存在形態) 自立的存在でない 恒常不変でない(諸行無常、有為転変) 縁起の中心概念 ウィッキの「存在要素の絶対性としては、第三の円成実性である」かどうか不明 3.円成実性(えんじょうじっしょう):完成された存在形態(絶対的存在形態) 諸法無我(無主体論) 常住不変の実体観からの解放(非実体観) 世俗諦認識の完成段階(無我の段階だが、まだ無我という有に留まっている) 無差別・平等の真実・真如(無執着なありのままの世界観) >真如を自覚することが、迷いの世界からさとりの世界への転換にほかならない。 そうかもしれませんが、よく分かりません。まだ、有為の世界のようです。無我・無執着という「有」に留まっています。(常に有の性質が付き纏う)言語で記述する限り、有為に過ぎないと思います。  あとは  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  勝義諦(至上究極真理、無為の世界に属す真理)  縁起(相依性)、非有非無、不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《勝義諦・真理》が 《絶対》のことであるかどうかが 問題になると思います。《絶対》という意味だけの《神》であるかどうかです。つまり ブッディストは 《信じる》のかどうかです。《感じる / 考える / 〔表象し得たか・し得ないかの いわゆる神秘的な〕瞑想 / 信じる(心の伸び・開き)》の区別をするとよいのだと思います。  《無意識》は けっきょく 意識に現われたものを扱うしかないということになると考えます。つまり 上の区分のいづれかです。 (ご返答)まず、竜樹は中論で勝義諦に縁起(相依性)を含めているらしいのですが、今日では世俗諦ではないかと考えられているようです。相依性は、「相依相成、相互依存的相関関係」ですから、有為の世界に属していると考えるのが、当然でしょう。 非有非無と八不の説明・解説は、記述困難です。つまり、「唯摩の沈黙」であり、『論考』最末文のウィトゲンシュタイン的な沈黙です。ですから、「絶対」と置き換える記述もできないというのが、現状でしょう。  ☆ 《勝義諦・真理》は 《縁起説=空観》のことであることは もとより 《ブッダの智慧》として 《仏性》や《慈悲》とも けっきょく 同じであると言っていいのでしょう。これが もし絶対とその信仰でないとすれば そのときには たとえ 人為の極致であったとしても 人為という経験思想であるのならば やがて消えていくでしょう。あるいは ひょっとして 《絶対》であるかどうかを ついぞ明らかにしないかたちで 生き延びるということかも知れません。(もちろん 皮肉ですよね)。 (ご返答)ですから、勝義諦は、《仏性》や《慈悲》とも同じではないのです。非有非無と八不としか、手がかりがなく、その手がかりの道を進めば、腑に落ちるのかどうか識者に教えていただきたいとも思っています。しかし、多分、腑に落ちても、フーンで終わりで、「だからどうしたの」が、悟りの境地かもしれません。

noname#80116
質問者

お礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  ふうむ。ああ そうですね。ううーん。  という恰好ですが たぶん 焦点がちがっているのかも知れないと思いました。すなわち  (A) 経験領域とそれを超えたところ / 思想と信仰 / 相対と絶対    これらの視点から どういうわけか 逸れていて 思惟や生のあり方が ブッディスムとして 提出されている。おそらく  (B)境地・境涯 のことを言っているのだと認識します。でも 煮詰めたかたちでは やはり (A)の判断の形式ないし基準は 有効であって     (B-1) 《境地》というからには 《人為》の世界であり 経験思想である。 と考えられます。もし そうでない場合があるとすれば   (B-2) 《人為を超えたところ》との関係として正規の《信仰》があり その信仰生活の結果 《境地》は もたらされる。 という場合です。  わかりませんが  ・勝義諦 これは 《絶対》であると思われる。  ・慈悲 これは 人為の極致でないとすれば 上の信仰の結果 もたらされる境地である。  ・縁起=空観 これも 同じく 信仰の結果 の生活態度(としての思想)である。  ・仏性 これは 以上の概念が 現実であり しかもまた 一人の例外なく 現実であるということを理由づけるために 想定したものではないか。(《神の霊が誰もの心に宿る》というたぐいの言い回しのごとく)。  ★ 非有非無と八不の説明・解説は、記述困難です。つまり、「唯摩の沈黙」であり、『論考』最末文のウィトゲンシュタイン的な沈黙です。ですから、「絶対」と置き換える記述もできないというのが、現状でしょう。  ☆ この点につきましては 留保しつつ たぶん いま行なっているような視角からの追究の中で 捉えていければと いまは 思っています。どうも  ★ しかし、多分、腑に落ちても、フーンで終わりで、「だからどうしたの」が、悟りの境地かもしれません。  ☆ という予感がしているのですよね。(解説本による限りで)。  * ヰキぺディアも 吟味しなければならない余地があるようですね。

回答No.28

自分の考えで頭が一杯でどうにもならない。というのはあなたのことですよ。 まだ分からないのですか。 他人を気にして真理を気にしないのは、心位が低い。

noname#80116
質問者

お礼

 jugemjugemさん ご回答をありがとうございます。  ああ そうでしたか。  でも わざと そうしたのですよ。  突き放すことは 出来ない相談だからです。さりとて 追うこともしません。その程度の  ★ 心位  ☆ ですけれどね。  ★ 真理  ☆ など どうでもいいのですよ。あなた あるいは わたし あるいは 読者のみなさん一人ひとり その存在が 何にも増して 大事なのです。それによって わたしは 真理から 見放されても かまわないのです。本望なのです。とことん この質問をたずさえて 進むほかないのですよ。  ブッダくんも どこかで そうして欲しいと思っているのではないですかね。さもなければ 末法だなどと言い残しておかなかったでしょう。いかがですか。

回答No.27

もう十分に説明しました。 そうやってぐだぐだ考えをこねくり回しているのがダメです。 自分の考えで頭が一杯でどうにもならない。

noname#80116
質問者

お礼

 jugemjugemさん ご回答をありがとうございます。  長いあいだ おつきあいいただき ありがとうございました。  頭の中が すっきりなさったとき よろしかったら また ご投稿ください。

回答No.26

釈尊がどう説いたか、知っているだけでは何の役にも立たないでしょう? 天に甘露、かつて飲んだことのない飲み物、があったとして、 甘露とは、これこれ、こういう味ですよ、と説明されて信じているのが、 信仰や思想の段階。 甘露を自分で飲み、甘露の味を確かに知っているのが、 仏性を悟った段階。 だから、仏性は信仰とも思想ともいえません。

noname#80116
質問者

補足

 jugemjugemさん ご回答をありがとうございます。  釈尊とjugemjugemさんと 見解が一致しているとして 考えました。  ★ 仏性は信仰とも思想ともいえません。  ☆ この命題についてです。  つまり この命題つまり判断は   ★ (A) 信仰や思想の段階。〔と〕(B) 仏性を悟った段階。  ☆ とを 区別しているという思惟の形式です。むろん 説明をしてもらっています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (A) 信仰や思想の段階 : 《天に甘露、かつて飲んだことのない飲み物、があったとして、 / 甘露とは、これこれ、こういう味ですよ、と説明されて信じている》  (B) 仏性を悟った段階 : 《甘露を自分で飲み、甘露の味を確かに知っている》 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《甘露》を 仏性のたとえだとして 捉えるなら 甘露は 誰もが 心に持っているのですよね? 身体の魂(感性の意)においても 精神の胃袋によっても 感受され消化されるということですよね?  でしたら まづ当然のこととして 思想として(つまり 生活態度として) その結果が現われて来ます。言いかえると (B)の段階は (A)の《思想》を含みます。  問題は (B)の《仏性を悟った段階》が (A)の《信仰》と どのような関係になるかです。はっきり言えば どんな違いがあるかです。つまり 違いはないではないか です。  次の判断に まちがいがあります。  ★ 甘露とは、これこれ、こういう味ですよ、と説明されて信じている  ☆ 《説明されて》というのは 経験的な思考にかかわりますし その経験思考(つまり思想)の範囲におさまります。肉の目であろうと心の目であろうと なんらかのかたちで表象し得たもの――つまりは 言葉による説明をとおして その概念を認識し得たもの―― これは 経験行為であり 思想なのです。思想の対象になるものは 《考える》ことであって 《信じる》必要はないし 信じるものではないのです。(そういう言葉を使う場合は 単に強調しているだけです)。  ですから 要するに  ○ 仏性は 肉の眼で見えますか? 心の眼で認識できますか?  ☆ という問いなのですが もちろん 仏性は思想を超えているのならば 肉と心のどちらの眼でも捉えられないということだと思います。  ならば 今度は  ○ 《さとる》とは どういう事態か。《信じる》とは 違うのか。  ☆ こうなります。どうでしょうか?  これについて こういう考え方をするとよいのではないでしょうか。  ○ 《表象し得たか・し得ないか ぎりぎりのところでのいわゆる神秘的な 瞑想》(啓示という言葉もありますが) これと そして 《信じる》とは 明らかに区別されるのではないか。つまり  ○ 前者は やはり 経験行為であり 後者は それを超えている。つまり 厳密に言うと 後者(つまり信仰)は 経験領域を超えている何ものかを 経験行為として 受け容れることである。  ○ このとき 《受け容れる》には 《受け容れない》をも含みます。つまり 経験領域を超えている何ものかなどというそんなものは 無である。ゆえに 信じない / つまり 信じないとして 超経験領域に相い対している。対面しているとする限りで 心の伸びもしくは開きが そこにあって 言葉としては 信じていることになる / つまり 無(ないし無神)として信じている。  ☆ つまり これが 《絶対》の問題であり それに対するわたしたち人間の採る態度ということになります。つまり 早い話としては 《有神論》か《無神論》か いづれか 二つに一つであるしかないと考えられます。  もし この《信じる》行為を超えたところに 《さとる》があるとすれば おしえて欲しいと思う次第です。いかがでしょうか。

回答No.25

すみません。訂正です。 勝義諦 因縁→縁起 でした。

noname#80116
質問者

お礼

 了解しました。ありがとう。

回答No.24

★ 勝義諦(しょうぎたい)~~~~~~~~~~~~~  勝義諦とか真諦とかいわれるのは、「真理の立場からみた世界の真相」であり、これらを出世間法という。  覆障諦(ふくしょうたい)とか俗諦といわれる場合には、「いちおう世間の人々がみとめているから真理である」という意味で、世間法といわれる。 ★ 有為法と無為法~~~~~~~~~~~~~~~~  形而上的な思惟によって「法」を有為法と無為法と分けて考えられる。「有為法」は無常変転する存在として、それを色法、心法、不相応法などと説き、「無為法」として常住不変などを説く。 世俗諦(世間一般常識、有為の世界に属す真実) 因縁生起(依他起性)、諸法無我(実体否定)、諸行無常 勝義諦(至上究極真理、無為の世界に属す真理) 因縁(相依性)、非有非無、不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去 こんな感じです。

noname#80116
質問者

補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  このところは 仏教に対して わたしは さげすむような態度を わざと採っています。そういう姿勢においても 相手の良さ悪さをつかめたらいいなという意味です。  このことは あまり関係ありませんが しっかり概念を確認しなければならないというぼんやり頭でいるという意味です。  ★ 依他起性  ☆ については 案外(失礼なことを 平気で言います) きちんとした理論であると思ったことがあります。《三性(さんしょう)》説ですね。で 引きました。順に 完成へと進むというのでしょう。  ▲ 三性 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  〔阿頼耶識・末那識・六識なる〕識の転変によって、存在の様態をどのように見ているかに、3つあるとする。  1.遍計所執性(へんげしょしゅうしょう): 構想された存在 (* いい意味でもわるい意味でも 自我によって構想されたという意味なのでしょう。:bragelone註)  2.依他起性(えたきしょう) :相対的存在、他に依存する存在  3.円成実性(えんじょうじっしょう):絶対的存在、完成された存在  三性のなかで、第一の遍計所執性はその性格からみて、すでに無存在である。(* これもわかりにくい)  つぎに依他起性は、自立的存在性を欠くから、やはり空である。(* 《他に依って起こる》というのだから 《空観》としての智慧から起こるのではないと言いたいのでしょうか)。  また、同じ依他起性は存在要素の絶対性としては、第三の円成実性である。そして、どういう境地においても、真実そのままの姿であるから真如と呼ばれる。  その真如は、とりもなおさず「ただ識別のみ」という真理である。(* 空観=縁起説なのでしょうね)。これを自覚することが、迷いの世界からさとりの世界への転換にほかならない。 (ヰキぺディア:唯識=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%80%A7) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううん。どういうわけか このたび これを読むと わかりづらいですね。(以前は 思い入れをして読んでいたのでしょうか)。  あとは  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  勝義諦(至上究極真理、無為の世界に属す真理)  因縁(相依性)、非有非無、不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《勝義諦・真理》が 《絶対》のことであるかどうかが 問題になると思います。《絶対》という意味だけの《神》であるかどうかです。つまり ブッディストは 《信じる》のかどうかです。《感じる / 考える / 〔表象し得たか・し得ないかの いわゆる神秘的な〕瞑想 / 信じる(心の伸び・開き)》の区別をするとよいのだと思います。  《無意識》は けっきょく 意識に現われたものを扱うしかないということになると考えます。つまり 上の区分のいづれかです。  * 《勝義諦・真理》は 《縁起説=空観》のことであることは もとより 《ブッダの智慧》として 《仏性》や《慈悲》とも けっきょく 同じであると言っていいのでしょう。これが もし絶対とその信仰でないとすれば そのときには たとえ 人為の極致であったとしても 人為という経験思想であるのならば やがて消えていくでしょう。あるいは ひょっとして 《絶対》であるかどうかを ついぞ明らかにしないかたちで 生き延びるということかも知れません。(もちろん 皮肉ですよね)。

noname#117439
noname#117439
回答No.23

またまたオコリザルです。 >そういう《見捨てられ》体験の渦中に入ったのだとするなら こちらは その相手の動きを どうにかすることは出来ないと思うのです。むしろ その体験の進みに応じて お相手をしていくことが 課せられているのではないか こう思っています。こちらは 白紙です。こちらは 触媒になるのだと考えます。触媒は みづからは 何も変化しないのです。変化しないで 自己がかかわって化学変化をうながすかたちです。 私も日常的にやっています。 でも滅びの子の本質に関しては意見が微妙に違いますが直面した進行形の課題なのであまり言いたくないです。 私は(時にはわざとらしく)滅びの子を疑っています。 蘇生のために死を潜り抜ける必要があるのではないかと。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。  直前の(直近の)qsxdrfvgyhさんのご回答を受け取ったときも そうだったのですが primeapeさんも わたしより きびしい見方をしておられるようにも伺えますね。  qsxdrfvgyhさんは 仏教徒に対しての批判が わたしより ひょっとして きびしいところがあると思ったのですが primeapeさんは 《滅びの子》に対して やはりわたしよりも 厳しい態度で臨んでおられるかも知れない。  今後 少しづつ 明らかになっていくことでしょう。  ひとつ思ったことは 一般に 嘘に対する態度が わたしの場合 気にしないでい続けるという点で ちがっているのかも知れないということです。  相手が あたかも 滅びの子であるかのような思想状態(生活態度)に陥ったのではないかと見られるようになったとき その相手が 嘘を言ったとしても わたしは 知らん顔でいます。第二の嘘をつくことによって 初めの嘘との間に 矛盾が現われるまでは 何食わぬ顔で 放っておきます。矛盾が現われても それを指摘するだけで あとは 放っておくと思います。冷たいという態度であるかも知れません。  ★ 蘇生のために死を潜り抜ける必要があるのではないかと。  ☆ これについて わたしの場合 《わが神 わが神 なにゆえわれを見捨てたのか》と発言するということ これをもって 《死》と見なすのですが そうだとすれば 甘いのかもと思いました。つまり primeapeさんは たしかに 厳しい とです。

noname#80116
質問者

補足

 ★ 蘇生のために死を潜り抜ける必要があるのではないか。  ☆ にかんして 補足です。資料のみです。 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  わたし(パウロ)は植え、アポロ(同僚の名)は水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。  ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。  植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。  わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。  わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。  イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。  この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。  だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。  ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。  (コリント前書 3:6-15 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

noname#117439
noname#117439
回答No.22

オコリザルです。 別にこの自己紹介はおこっているわけではありませんよ。 本当にローマ字をタイプするのが面倒なだけです。 滅びの子についてはメチャンコ悪魔くんの最初の自己紹介が「人間性をかなぐり捨てた伝承上の悪魔差ながらの悪霊とご対面したことがある。」でした。 brageloneさんの言わんとすることはわかります。 これに関してはもう少し時が来るのを待たないと論議できないみたいです。 結論を先に延ばしたまま自らのなすべきことをします。

noname#80116
質問者

お礼

 つづいてのお話になります。  ★ これに関してはもう少し時が来るのを待たないと論議できないみたいです。  ☆ 《ほろび》→《復活》という問題なのですから 《時間がかかります》し そもそも 《一生をかけての動態としての過程である》と考えられます。一つひとつの局面ごとに 一定の進展があって 分かりやすい結果も出るとは思います。けれども  ★☆ 時の充満を待つ  ☆ ことは 一人ひとりの自由意志のはたらきと同じ程度に いえ それ以上に 大切だと わたしも 考えます。  ★ メチャンコ悪魔くん  ☆ も 多彩な経歴なのですね。申し訳ない。忘れていました。相いすみません。

回答No.21

>ブッダ葬送を執り行なう >ひょっとして 復活する恵みが起きるかも この比喩を理解できない人が多いと見ました。 つまり、仏教哲学では、最新の哲学水準(ここが一番曖昧で何を含み何を含まないのかが大問題なのですが)に比べて、見劣りするので、整除したら復活できるかもね、という趣旨を汲んでもらえなかったということでしょう。あるいは、最新の哲学が混乱の極みであり、仏教哲学の中から、既存概念を超越して、混乱収拾の手がかりを生み出す深化が見えてこないのでしょうかという趣旨を汲んでもらえなかったということでしょう。 信仰に逃げるな。煙に巻くな。実践・修行の成果を報告せよ。ということなのではないでしょうか。でも、それは無いものねだりです。あくまでも、葬儀と供養中心の衆生は既存の寺社制度にお任せして、一部の有識者のみで、生者のための無為の世界、勝義諦を極めた議論をするのみと思います。「・・・有為の奥山、今日越えて・・・」の探究です。質問者様ならば、その手がかりを提示できるのではないでしょうか。そのように推察しました。勝手な思い込みです。失礼しました。

noname#80116
質問者

補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  読み継ぐにつれて これは 仏教に対して わたしよりも厳しい態度なのではないかと思い そしてもう一つには ふうむ たしかに 現実的な問いかけの仕方もあるのかと思いました。  概念の確認をしておきます。《ヰキぺディア:法 (仏教)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95_(%E4%BB%8F%E6%95%99)》から。  ★ 勝義諦(しょうぎたい)~~~~~~~~~~~~~  勝義諦とか真諦とかいわれるのは、「真理の立場からみた世界の真相」であり、これらを出世間法という。  覆障諦(ふくしょうたい)とか俗諦といわれる場合には、「いちおう世間の人々がみとめているから真理である」という意味で、世間法といわれる。  ★ 有為法と無為法~~~~~~~~~~~~~~~~  形而上的な思惟によって「法」を有為法と無為法と分けて考えられる。「有為法」は無常変転する存在として、それを色法、心法、不相応法などと説き、「無為法」として常住不変のを説く。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん――なぜなら これまで けっこう 深く ここの質疑応答の場で 質問を積み重ねて来ているので―― いま掲げている課題が 避けて通れない焦点になっており すべての分かれ目を成すというほどの問題だと思うのです。  でも 現実的な対話法を 別の頭の働かせ方によって 模索してみようかとは思います。  そして もう一点 象徴的な争点になると思われることは  ★ 信仰に逃げるな。煙に巻くな。実践・修行の成果を報告せよ。  ☆ ということなのですが まったくそのとおりの趣旨なのですが(――なぜならば ここの回答としても あまりにも 百科事典からの引用とあまり変わらない内容が多いからですが――) 細かく見るならば こうです。ブッディストは 《信心》という言葉は使っても 《信仰》とは言わないですし 言ったとしても そもそも《信仰》とは 何なのかが 分かっていないように思われます。  《一部の有識者》は おそらく そのまた一部の人びとが 不承不承に 仏教は 無神論なのだと 問い詰めた果てに 述べる程度なのではないかと思います。しかも 無神論であるならば 無神という神の信仰なのだと分かっている人は きわめて少ないのではないかと思います。  わたしの場合は ここを しっかりと 仏教界内部から みづからが 明らかにするということが 肝心要であり すべての対話の第一歩になるのではないかと いまは 思っているのです。《絶対》の概念の問題ですね。  わたしにとっても あたまの切り替えが 大事のようですね。

noname#117439
noname#117439
回答No.20

こんばんはオコリザルです。 白熱したバトルに興奮した観客の声援だと思ってください。 最後までうまく文章を結べるか判りませんがとりあえず書きます。 哲学的思想の根源は2つのタイプに分かれると思います。 「人間とは何ぞや」そして「神とは何ぞや」えてしてどちらか片方しか選べません。「仏とは何ぞや」「自分とは何ぞや」この二つはどちらかの類型だと思ってください。 私はかつてこんな質問を受けたことがあります。 >たどり着いた時、そこに居るのは誰ですか。 私はこう答えました。 その誰かさんは自らに疑いを持つことのけしてない存在で、したがって「あなたはだあれ」この質問には答えるすべを知らない。 そして自らの心の中の出来事であり要するに自分自身の姿です。 私は人間とはなんぞやの道を選びたどり着いた結論です。 声を出したあなたはだあれと問いかける存在が(煩悩ではなく)無意識です。 brageloneさんは、あなたはだあれの姿に神を思い描いたタイプです。 この二つのタイプは違う道のり(異質と言っても良い)を歩みます。 たどり着いた後は神と人間の姿両方を見ます。 そしてそこで人生は終わらない。 むしろ始まるのです。 私の場合は「仏の現代語訳は人間」この短い一語です。 別の人生経験をつんだbrageloneさんとの交流は分かち合うものが多く私にとって有意義でした。 仏教徒さんとも仲良くできるといいですね。 おそらくそのつもりの論戦だろうと思っています。 brageloneさんから聖書にも「滅びの子」と言う表現があることを聞きました。 これを唯脳的に還元します。 脳内で自己から切り離されて不規則なにせ情報を撒き散らす神経伝達ぶしつです。 仏教では乏しい知識から推測すると「業」のことでしょう。 私は自己の同一性から切り離されていることに着目して魂の欠損と呼びます。 心象においては滅びの子がうってつけで、生命のありように対して生き生きと悪夢を見せつけます。 この危険な存在に関しては仏教徒のほうが詳しいです。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  今回のご回答は いささか おもむきが変わっています。  お伝えすべきと思ったことが 二点あります。  その一として。  ★ 《滅びの子》  ☆ これは 個人個人で そのおのれの信仰に従って 違った内容としても 捉えることがあるのではないかと思っております。  わたしの場合は こうです。人は この信仰を持つとき それは 与えられるのだということですが その意味は 基本的に 次のようだと理解しています。   すなわち 人生において 一度 どういう時にであるかを問わず 人は 究極の情況に落ち入って 《わが神 わが神 なにゆえ われを見捨てたまいしや》と言う場合があると思うのです。(日本人になじみのある言い方をすれば 《あぁ 神も仏もないのかぁ》といった窮地のことです)。ところが この信仰の場合には この究極の窮地に落ち入って 絶望したとき そのようにわが神に見捨てられたそのことにおいて じつは 見捨てられていなかったと分かる。こういう事件のことです。  わたしにも ありました。  それで この《滅びの子》についてですが いまの《見捨てられるという事態》 この事件に遭うということを 《滅ぶ》と言っているのだと思うのです。《旧い人を脱ぎ 新しい人を着るために 見捨てられる=滅ぶ》というのだと考えます。  ほかにも解釈があるとは思いますが この解釈が 人にとって いちばん 身近で 通り過ごすことのできない関門を示しているように思っております。  その二として。  ★ 仏教徒さんとも仲良くできるといいですね。  ☆ この問題です。むろん 仏教徒に限らず 衝突する人みなについて 言っていることになると思います。  そこで ひとつだけは 譲れないことがあります。それが 上の命題です。《滅ぶ》ということ つまり 《神に見捨てられる》ということ このことが 《論戦 また その過程における衝突》とかかわっていると思うのです。  えらそうに また ええ恰好をして 言いますが こちらは 自分の見解を述べつつ 相手の見解を分かろうとするというのが 基本ですし じつは それだけであるわけです。その姿勢で 論戦となり 果ては 衝突することになる。というわけです。あまりにも偉そうになってもいけませんが おそらく 相手にとっては その自分の中で 《ほろぶ》ということが 自分のそれまでの見解が揺らいだことで 頭の中に 思いとして起こっているのではないか こう推測するのです。  ですから もうこれ以上を言えば いかにprimeapeさんとて もはや去っていかれるのではないかと思うのですが でも 言います。もし そういう《見捨てられ》体験の渦中に入ったのだとするなら こちらは その相手の動きを どうにかすることは出来ないと思うのです。むしろ その体験の進みに応じて お相手をしていくことが 課せられているのではないか こう思っています。こちらは 白紙です。こちらは 触媒になるのだと考えます。触媒は みづからは 何も変化しないのです。変化しないで 自己がかかわって化学変化をうながすかたちです。  これら二点を思いました。嫌われちゃって 嫌われちゃって。・・・

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