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ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか
末法が 現実であるのではないでしょうか。 もう何も新しい思想は ブッディスムからは出て来ないのではないでしょうか。 あとは 広義の訓詁註釈のみではないでしょうか。 《慈悲》は 人間にとって おこなうことは出来ないと なぜ 明らかにしないのでしょう。出来るのなら ふつうの思いやりです。 《縁起=空観》――てっとり早くは 関係主義の思想――は 当たり前だと なぜ はっきりさせないのでしょう。そうでなければ ただその場の気をそらせるための想像物(エポケー)です。 《仏性》ほど 唱えていながら それにもかかわらず はっきりさせないものは ないのではないでしょうか。絶対普遍なら そう言うべきでしょう。そうでなければ ただのお慰みのおもちゃです。思いやりの問題です。 一たんきちんと 葬送をしておくときではないでしょうか。そうすれば ひょっとして 復活する恵みが起きるかも知れません。
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こんにちは 私はそうは思いません 仏舎利を拝見したことがありますが まだまだ魂は生きておられる。と思います
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- littlekiss
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こんばんは、brageloneさん。 《領域を拡張することによって、スペースがうまれる。》 ↑ A図→B図 QNo.4225880― ANo.10 【算数(お金のやりとりの問題)で子供への説明がうまくできません】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4225880.html QNo.4077221― ANo.39 【自然法は もう人気がないのでしょうか】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4077221.html 【第三章 保全手続】 《第一節 没収保全》 http://www.courts.go.jp/kisokusyu/keizi_kisoku/keizi_kisoku_21.html 【物権法】 http://homepage2.nifty.com/and-/minpou/bukken1.txt http://homepage2.nifty.com/and-/minpou/bukken2.txt 【糖尿病の疫学的見地から見た現状について―2004】 http://www.dm-net.co.jp/sally/2004/04/30-47.pdf 【世界の医療事情】 http://www.i-hoken.jp/travel/wmedical/index.html 【研究報告書―2007】 http://www.tkfd.or.jp/admin/file/pdf/labres/25.pdf ツバルがまもなく沈むと、人々は移り住む場所を求めていると。移住先のひとつに沖縄があげられている。何故沖縄なのか?魚を獲ったり、作物を栽培し自給自足の生活、その暮らし向きがツバルの人々が暮らす生活様式と沖縄の風土とが合っているからか?仮にこのような理由で移住先として候補にあがったとしたら少し安易ではないか。ツバルの人々の多くは母国語を英語としてきたのではなかったか?過去イギリスの植民地支配下におかれていた。人が暮らしていく上で大きな障害のひとつとしてあげられるものは何か?何かといえば言語だ。言葉が通じなければ移住先で仕事につくのも難しければ日常生活もままならない。沖縄にアメリカ軍駐留基地があるといえど、誰もが英語を日常言語として使っているわけではない。では、英語圏で魚を獲ったり、作物を栽培し自給自足の生活を送れる場所はないのだろうか?ツバルの人々の身に立って考えることが本来の救済ではないか。よかれと思い受け入れ表明をすることでかえって行き先を狭めてしまいはしないか。英語圏の中にはまだまだ沢山候補地として適した場所があるのではないか。受け入れ先の勝手で人をあっちやこっちへ割振ることに疑問を感じる。ツバルの人々の意思は尊重されているのだろうか?何故そう思うのかといえば、阪神大震災の後、避難所に住まいする人々に優先的に県営,市営住宅が割振られた。割振る。その当時、誰もが雨露がしのげれば長引く避難所暮らしよりかはいくらか人並みの暮しに戻れるとわずかばかり家から持ち出してきた荷物をまとめ避難所を後にする。行った先は、もと住んでいたところより遥か遠く遠くの山の中。鬱蒼とした木々が覆い茂る。あたりは昼間でも薄暗く幽霊屋敷のような古ぼけ朽ちかけた市営住宅が立ち並ぶ。店一軒もない坂の上。坂の中腹に唯一ミニコープが一軒。駅まで出るにも長い坂道をバスで下るしかない。姥捨て山かとも思えるようなロケーション。住めればどこでもといったとて、住んだ後はそこでの暮らしが始まる。食糧ひとつ買いに出るにも歩いてはいけない。住む場所を提供しさえすれば、それで済むものでもない。誰が避難所から出る前にそんな暮らしが待っていようとは思いもしなかったことだろう。事前に確認できていたのだろうか?意思確認、言葉が通じなければそれもままならない。日本でもその昔、移住移民政策が行われ船に乗り海を渡りブラジルへ向かった者たちがいた。
お礼
littlekissさん ご回答をありがとうございます。 今回の内容は やや質問趣旨から それましたね。 ★ 《領域を拡張することによって、スペースがうまれる。》 ☆ これの事例が いま一つ しっくりと行っていないように思いましたが? 領域の拡大も 《一たん葬送を執り行なう》ことを経るという点が いまは 重要だと考えます。 その点では ★ ツヴァル ☆ の例は 島を棄てざるを得ないということで いい事例になるかも知れませんね。今後の対処の仕方としてです。ブッディストも そのくらいの覚悟があってよいのだと考えます。 災害の救援では これからは たいへんのようですね。なにせ たとえが悪いですが 刑務所生活が ふつうの人のそれ以上であるかも知れないご時世ですから。 でも 基本としては 一から もしくは 零から 出なおさなくっちゃ。ブッディスムのことです。 モンスターペアレントの例が 思い当たります。要求だけは 一人前になりました。 ★ 〔そ〕こんとこを あんじょう してやー ☆ と思います。
- qsxdrfvgyh
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大変、有意義な思索・探究ができました。 ありがとうございました。 相転換・逆転換の神は、創造と破壊の神のようです。 結局、ウパニシャッド哲学の再確認のようなものでした。 でも、納得です。 おやすみなさい。
お礼
qsxdrfvgyhさん こちらこそ ありがとうございました。 またお会いしましょう。 おやすみなさい。
- qsxdrfvgyh
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なるほど、よく分かりました。 絶対と相対という仮構イメージは、まさに、世俗諦(世間一般常識、有為の世界に属す真実) 因縁生起(依他起性)、諸法無我(実体否定)、諸行無常(有為転変) であり、次にあるような遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)かつ依他起性(えたきしょう)認識そのままだと、 1.遍計所執性(へんげしょしゅうしょう):仮構の存在形態 無実体なのに価値判断によって形成される執着対象として仮構している固定性 有為の中心概念 物に限らない(イメージなど言語的存在) 現実把握・認識の初期段階(有我の段階) 2.依他起性(えたきしょう):他に依存する存在形態(相対的存在形態) 自立的存在でない 恒常不変でない(諸行無常、有為転変) 縁起の中心概念 3.円成実性(えんじょうじっしょう):完成された存在形態(絶対的存在形態) 諸法無我(無主体論) 常住不変の実体観からの解放(非実体観) 世俗諦認識の完成段階(無我の段階だが、まだ無我という有に留まっている) 無差別・平等の真実・真如(無執着なありのままの世界観) そのとおりです。相対領域(有為)/無為なる絶対(表裏一体)において 無為なる絶対=無為の世界・・・沈黙の勝義諦・・・相対領域の裏限定 沈黙の勝義諦でも、純粋な絶対=究極の他者は、管轄外で、示しきれないです。相対領域内に視点を持ち得ないとしてきたところです。ですから、絶対は、絶対に語れないと言えそうです。 相転換は、戯論です。ただ、死=逆転換と説明できればいいなあと言う思いだけです。ここだけ、思考停止して、信仰しなければならないようです。やっと、神を見付けました。そんな心境です。
お礼
qsxdrfvgyhさん すごいですね。 ★ やっと、神を見付けました。そんな心境です。 ☆ たしかに わたしは 三十歳ころの一時点で 《神を見つけた。だが どうやって信じるのか / 信じるとは いったい どういうことか と悩んでいたとき 或るとき 神に知られたと思った》のでした。その前後の数年間で この信仰を 一応のかたちに固めたのでした。 わたしの場合 勉強したものは だいたい その評価を決めて来ていますが していないものについては まったく ゼロです。きれいに ゼロです。言いかえると 無手勝流ですね。 これまで 意外と いろんな哲学思想にも 通用するものですから 驚いても来ています。 わたしの知る限りで こういう対話が出来るのは きわめて楽しいものです。また 一緒になって 先端を行っているという自負を持ちつつあります。 これを機会に さらに 仏教が 一般の哲学思想と通底するかたちで さらに整序され 明らかになっていくといいと考えます。 この質疑応答は 《画期的》ですよね。少しは 誇ってもいいかも知れません。
- qsxdrfvgyh
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☆☆ 相転換から さらに復活としての逆転換 ☆ これは たしかに 余興でした。 その上で 余地を残すかも知れないというのは 次のような場合です。 (1) 無為の有為への相転換が 事実かどうかによるのではないか。 すなわち この最初の相転換が 虚構であるならば 次の逆転換も 虚構として 想定しうる。 とは考えます。 「無為の有為への相転換」ここが違います。 (純粋な、本来の)絶対領域(有為も無為もない)が、相対領域(有為)/無為の絶対(表裏一体)に相転換したという意味です。特に、「無為の絶対に」というイメージです。かなり慎重な物言いです。虚構は、相転換後に相対領域における有為の言語ゲームの中で語られるだけなので、この相転換に虚構は関与できません。なにせ、<唯一・絶対>なのですから。最強です。
補足
そうですね。分かりませんが 試みてみます。 ★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 相転換は、かつて一度きりしか起きていないというのが、僕の考えです。絶対領域が相対領域化した時のみ、唯一です。それは、絶対の原理上、唯一とならねば、論理が破綻します。 ★ (純粋な、本来の)絶対領域(有為も無為もない)が、相対領域(有為)/無為の絶対(表裏一体)に相転換したという意味です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしの感覚としては 《絶対》が 想定であるので それと《相対》との関係も 想定であるというものでした。つまり その関係を さらに詳しく捉えようとしたときに やはり《想定》として 両者のあいだに 相転換が 帰結される。というものです。(わたしの場合 単純に《包摂》と見ていましたが)。 つまり この《一回きりの相転換》じたいも 有為の世界における人間がおこなう《言語ゲーム》に属するというものです。虚構であり 想定です。 言いかえると このように想定された《一回きりの相転換》そのものにおいて すでに その中に 《逆転換》という事態が やはり 想定されているのではないか。これです。 《絶対》と《相対》とのあいだで 双方向の転換が 初めに=つまり 想定の限りで 原理的に 織り込まれているとは 考えられないですか?
- qsxdrfvgyh
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仏教フランチャイズからは逸脱していると思いますが、<ポスト仏教哲学「もどき」>くらいには、成っていますでしょうか。多少の微調整程度のつもりだったのですが、仏説至上主義では、改良の余地がないので、やはり、仏説解体も視野に入れなければなりません。あくまでも、個人的にですが。さて、 ★ (最終回答)この相対領域では、「唯一・完全に通じている」はずがない。相転換したのだから。逆転換するときは、死であろう。 ☆ という命題を提示してもらったので ちょうど いいと考えるのですが はっきり言いまして ○ 《相転換》を そのように 《逆転換》した状態(または 境地)を やはり 先にすでに 想定している。 ☆ ということになります。この境地が ★ 死 ☆ ではなく――もしくは 厳密には 一単に《死》をとおって そのあと―― ○ 復活のあらたな生 ☆ だというわけです。 ここなのですが、相転換は、かつて一度きりしか起きていないというのが、僕の考えです。絶対領域が相対領域化した時のみ、唯一です。それは、絶対の原理上、唯一とならねば、論理が破綻します。そして、死という逆転換は、有為の時空世界(全宇宙)の中で、徐々に散発的に起きていると考えます。これも、相対の原理上、不一ゆえに散在的に多発するのですが、それぞれ、それで終わりです。つまり、復活なしです。輪廻転生も無しです。復活も輪廻転生も、有為の世界における再生(有為転変)をヒントにした虚構に過ぎません。虚構は、有為の言語ゲーム内にあります。所詮、理性の範囲内です。沈黙の勝義諦には通じていません。ここは、決定的に違うと思います。ここに、相転換と逆転換の原理的な(決定的な)差異が、「絶対」と「相対」の厳然とした隔絶ゆえにできてしまうと考えます。個々の死=個々の逆転換=個々の復活という意味ならば、同じ考えです。再度の生には繋がりません。
お礼
qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。 ☆☆ 相転換から さらに復活としての逆転換 ☆ これは たしかに 余興でした。 その上で 余地を残すかも知れないというのは 次のような場合です。 (1) 無為の有為への相転換が 事実かどうかによるのではないか。 すなわち この最初の相転換が 虚構であるならば 次の逆転換も 虚構として 想定しうる。 とは考えます。 (2) さらに虚構虚構する話です。おとぎ話です。 つまり 例のエデンの園の物語です。エデンの園の以前に すでに相転換があったでしょうが エデンの園からの追放という相転換が あったと想定したなら その後に 逆転換が起こるという想定も ありうるのではないか。というものです。 これは たしかに ★ 個々の死=個々の逆転換=個々の復活 ☆ という物語であるかも知れません。 余韻のお話といったところでしょうか。 * 《輪廻転生》とは 別です。《天国への復活》とも 微妙に 違います。 生まれたあとの時空間としては 逆転換という想定を得るなら その有為の世界において すでに 《永遠の現在》が 推移する。これが 一応の復活であり あとは 何かあるとすれば 突然変異であるかも知れないという物語です。このように《現在》において先取りした《うそ》が 或る種の力になるのだと思います。
オコリザルです。 私は死刑廃止反対は一度も言ってないんですよ。 現行の死刑制度の存在(人類史にさかのぼっても)を、肯定(控えめなら容認)していると言っているだけなんです。 罪の意識や西洋かぶれのいないbrageloneさんとだけの論議ならおもしろい論議が出来そうですが、いまだ判断材料になるカードをそろえてみたら神学めいた論議になりそうで、まさに取り扱いの難しい滅びの子そのものの責任追及になりそうなんです。 これは慎重にしましょう。
お礼
★ これ(《滅びの子》の論議)は慎重にしましょう。 ☆ 要するに 《裁く》という問題にかかわっていて 非常に むつかしいところがある。と言いますか 出来ない。無理。という側面があります。 たましいの管理者というような言い方も 聞いたことがありますが あくまでも ★ 慎重に ☆ ですね。 ということは デーモン電磁波の現象にせよ マインドコントロールの現象にせよ これらは むしろ いわゆる《現行犯》として その場じたいの・その場だけの事件として 扱うほうが いいように考えます。 大きな理論をかぶせるのではなく その場で起こった出来事じたい それだけを捉えて こういう事態を引き起こしていないか?というような尋ね方をすれば よいのではないかと これまでにおいては 考えて来ています。 ★ 滅びの子そのものの責任追及 ☆ というように 《存在》ないし《その人自身》を問うのではなく そういう大それたことではなく そこで起きた現象だけを扱う というように捉えていました。・・・
- littlekiss
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こんばんは、brageloneさん。 ●一たんきちんと 葬送をしておくときではないでしょうか。そうすれば ひょっとして 復活する恵みが起きるかも知れません。 ↑ 単にこの箇所だけ読んで何を思い浮かべたかといえば… 文化大革命化。 難しいことはよくわからないけど、その昔中国で文化財がことごとく焼き払われ、打ち壊されたことがあったよね?何故あんなことが人の手によってなされたんだろう?と不可解でならない。政治的なこととは別に、人には何かを失うと追い求めて止まない性質が備わっている。実際のそのものより見たこともない伝え聞かされるそのものを理想化し夢描いていく。夢描くことで新たなものが形づけられ生み出されていく。似ても似つかぬものが出来上がりそのものとして位置をしめる。その昔には、価値すら見出される事のなかったものに光が注ぐ。2000年問題よろしく、領域がいっぱいになる。http://www.cityfujisawa.ne.jp/~koyanon/dc2000.htm 領域を拡張することによって、スペースがうまれる。 《復活する恵み》とは、このことなんだろうか?
お礼
littlekiss さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (1)何かを失う≒葬送を執り行なう。 →(2)人には何かを失うと追い求めて止まない性質が備わっている。 →(3)実際のそのものより見たこともない伝え聞かされるそのものを理想化し夢描いていく。 →(4)夢描くことで新たなものが形づけられ生み出されていく。 →(5)似ても似つかぬものが出来上がりそのものとして位置をしめる。 / その昔には、価値すら見出される事のなかったものに光が注ぐ。 / 2000年問題よろしく、領域がいっぱいになる。 →(6)《復活する恵み》 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 単純化して (3)~(5)を 《新たな視点から 新たな見直しをする》と言いかえても いいのでしょうね。あるいは その同じことについて 《葬送を済ませたがゆえの 新生》というように捉え得るかも知れません。 そうでしょうね。 そして やはり重要だと思われることは このときの《葬送》の仕方であるかも知れません。きちんと ていねいに 死亡診断書(?)を作成しておかないと その後のルネサンスも 覚束ないでしょうね。 ということでしょうかね。
オコリザルです。 滅びの子については実態に無いそれそのものに詳細な仮説を立てるのは困難ですから、死刑廃止論について「人間はいまだ生け贄を必要とする」このような観点から反対意見をもう一度点検してみるとより現実的に滅びの子の役目について占えるのではないでしょうか。
お礼
primeapeさん ううーん!?と身を乗り出して お聞きしました。ご回答をありがとうございます。 たぶん――たぶん です たぶんですが―― 信仰の立ち場としては ずるい考え方をします。同じ実情を 信仰としての見方を あたかも 覆いかぶせて 捉えることを わざわざ するようです。 たとえば ★☆ 「人間はいまだ生け贄を必要とする」という現状。それゆえ 死刑廃止論の時期尚早 つまりは 現状として 死刑やむなし論 ☆ この一般的な――と言っても 死刑廃止論が それほど 少数派でもないと思いますが 多数派としての――現状を いわば 次のように 負け惜しみのごとく 評論します。すなわち ○ 人類にとって すでに最後の生け贄は 現われた。けれども その現実が 簡単に 確かなものとなるには 時間がかかる。言いかえると 最後の生け贄が成る前の情況の余波が まだまだ 及んでいる。 ☆ こういうふうです。というのも 神にとっては 千年が一日だというのですから まだ やっと まる二日が終わったあとの真夜中だというわけです。 ★ 滅びの子 ☆ につきましては じつは むつかしいところがあると 思っております。上の死刑問題との関連で 考えるのも もちろん 重要だと考えます。 それに なんと言っても 《ほろびの子 / あるいは 光の子》という場合 これを分けるというのは 実際 人間には 無理です。わづかに 個人としての主観・つまりその内面において 予感が与えられるようなかたちで 知り得たと思うときがあるかも知れない。この程度だと思うのです。ですから 話は しても かまわないでしょうが なかなか 確定的なことを 互いに 共通の理解として得るというのは むつかしい。こう思うのです。 ★ 現実的に滅びの子の役目について ☆ というように 《役目》として捉えようとするのは たしかに 現実的ですね。しかも 語弊があるかも知れませんが 前衛的であるように思います。 要は いろんな角度から 分析したりしていくのでしょうね。いえ 分析という言葉は ふさわしくないかも知れません。事例をあつめて それらから たしかに《なぜ 〈滅びの子〉という存在が いるのか》を問い求めることがあるということかも知れません。 繰り返しになりますが この問題は 触れ方が むつかしいですね。いかがでしょう。
- qsxdrfvgyh
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ついに、最終回答だと思います。 ★ 純粋に外側の絶対領域では、非空となるが、絶対が相対と重複している相対領域全体は、空となっているということですね。有限に過ぎない相対が絶対に丸ごと重なった領域だけ中心にあって、絶対は無限過ぎてその領域の外側にあふれているようなイメージ ☆ が 合っているとも言えるし どこか 違うとも見えるようですが どうなんでしょうか。これに関しましては こういうたとえを聞いたことがあります。 ○ 神の国(無為?)と地上の国(有為)とは 互いの間に 非武装中立地帯( no man's land )をつくって 相い対峙しているという恰好ではなく そうではなく この地上では 互いに入り組み 混同されるほど重なっているかに見える。 (最終回答)「勝義諦は、絶対と同じか」という問いの回答は、相対領域と重なった絶対領域、その外側の純粋な絶対領域に分けた時、勝義諦は、前者に限られという意味で、絶対と同じであるが、後者には及んでいないと考えられる。相対領域とは、現実の時空世界(全宇宙)であり、表面的には、有為の世界(世俗諦で記述できる世界)であるが、背後では絶対領域と重なっていて、無力な無為の世界(沈黙の勝義諦で示される世界)が隠れている。この隠れた絶対は、別名、仏性、神性と考えられ、やはり、無力な無為と考えら、結局、有為でしかない言語を駆使しても記述できない。つまり、沈黙の勝義諦なのである。ちなみに、神の国(無為)と地上の国(有為)は、共に相対領域、現実の時空世界(全宇宙)にあり、表裏一体となっている。神の国(純粋な絶対)ならば、相対領域、現実の時空世界(全宇宙)の外側になるだろう。そこが、「究極の他者」と考えられる。非武装中立地帯( no man's land )のことは分からないが、厳然とした隔絶感を表現したと考える。 ☆ たぶん ★ 完全無欠の絶対にしては、弱弱しい感じを受けますが、相対領域内では、無為・無力を装っているのでしょうか。 ☆ そうだと思います。《むしろ 弱さを誇ろう》と言いますから。無理が通れば道理が引っ込むではないですが 無効の考えやおこないが有力であるところでは 有効な思想が 無力に甘んじている。時として 有力にもなるのでしょうか。 (最終回答)絶対は、この時空世界内では、相転換している。外では、唯一・完全・無限で、最強の自性力があって、非依他起性(非空観)であるのに、内では、不一・不完全・有限で、無自性な最弱の力(無力)となり、依他起性・相依性(空観縁起)となって、相対を全面に出すのみと考えられる。ゆえに、「無為なる絶対」になっている。 この情況を残念に思っているところの ★ アートマン ☆ は あると言えるかも知れません。 (最終回答)この相転換を逆転換する視点をこの時空世界内に持つことは原理的にできない。できないことを追究せず、この相対領域は、無力な無為になっている絶対領域と重なっているので、有為に徹する・極めるだけで充分なのではないかと気付かされる。残念ではない。あるがままの生を尽くすように。不完全ではあるが。自らのこころにきくだけだ。「こころにきけ」の実践である。 ★ この絶対の二面性は意外です。唯一でも完全でもなく、それでも、唯一・完全に通じているのでしょうか。不思議です。 ☆ この点につきましては わたしも さらにその思いを寝かせつつ 考えていきたいと思います。 (最終回答)この相対領域では、「唯一・完全に通じている」はずがない。相転換したのだから。逆転換するときは、死であろう。 > 末法が 現実であるのではないでしょうか。もう何も新しい思想は ブッディスムからは出て来ないのではないでしょうか。あとは 広義の訓詁註釈のみではないでしょうか。 勝義諦を言語化に止めたり、円成実性(えんじょうじっしょう)がその際の認識段階だと止めているのでは、誤解釈であり、有為の言語ゲームから脱出する必要がある。勝義諦(至上究極真理、無為の世界に属す真理)は、非有非無(中道)、八不(不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去)の先に示される。円成実性は、最高水準の世俗諦認識段階にすぎない。言語を尽くした後に、沈黙の勝義諦を探究せよ。個々に達する以外に道はない。 > 《慈悲》は 人間にとって おこなうことは出来ないと なぜ 明らかにしないのでしょう。出来るのなら ふつうの思いやりです。 自らのこころにきくだけだ。「こころにきけ」の実践である。個々に達する以外に道はない。 > 《縁起=空観》――てっとり早くは 関係主義の思想――は 当たり前だと なぜ はっきりさせないのでしょう。そうでなければ ただその場の気をそらせるための想像物(エポケー)です。 世俗諦認識の基本中の基本なので、これだけで済む話ではない。 > 《仏性》ほど 唱えていながら それにもかかわらず はっきりさせないものは ないのではないでしょうか。絶対普遍なら そう言うべきでしょう。そうでなければ ただのお慰みのおもちゃです。思いやりの問題です。 「無為の絶対」と同じで、単純に「思いやり」と同じでは理解が足りない。無為の世界、相対領域の背後、沈黙の勝義諦に繋がっている。 > 一たんきちんと 葬送をしておくときではないでしょうか。そうすれば ひょっとして 復活する恵みが起きるかも知れません。 「葬送・復活」とは、仏教哲学の解体と再生の比喩なのでしょうが、仏教哲学に近年までの哲学成果を反映すれば、沈黙の勝義諦は、記述するのではなく、「示される」と個々に気付くと考えます。ここが困難なので、一般的には「思考停止の信仰」も品揃えしていると考える。仏教の物語は虚構として充分楽しめる。
補足
qsxdrfvgyhさん おもしろく楽しく拝読しました。ご回答をありがとうございます。 今回は 一点のみ こちらの側からの見方を――ちょうど 対比させるとよいと思われますから―― 述べてみます。 それは ★ 沈黙の勝義諦 ☆ に関してです。そして 話は この点に関しては すでに(=まったく) キリスト信仰そのものの内容となります。 ★ 〔《慈悲》については〕 自らのこころにきくだけだ。「こころにきけ」の実践である。個々に達する以外に道はない。 ☆ というとおり 同じく 主観内面での出来事におさめられる内容ではあります。つまりえらそうに言えば これを 暫定的に《聞いた》という実際を 威張ってご披露するということですから 余興ということでもあります。 結論から行きますと次の命題と 微妙に違うというところがあって おもしろいのではないかと考えます。 ★ 言語を尽くした後に、沈黙の勝義諦を探究せよ。 ★ 沈黙の勝義諦は、記述するのではなく、「示される」と個々に気付くと考えます。 ☆ キリスト信仰は きわめて ずるいところがあります。それは 何ごともと言えるほどに 基本的には 終わりから始めるということです。有為のものごとでも 一般に 終えたところから始めるのが ふつうですが 信仰の態度としては これが 徹底しています。すなわち ○ 《言語》を超えているので 《探究》を終えたあとの状態に 仮想としてでも 立つ。 ○ 《勝義諦》が 一般的には 《沈黙》であることについては同じなのですが 個人としては 上と同じように すでにそれが《示された》と想定して 新たな一歩を踏み出す。 ☆ こういう横着な考え方に立っています。そうすると どう違うかですが たとえば ★ (最終回答)この相対領域では、「唯一・完全に通じている」はずがない。相転換したのだから。逆転換するときは、死であろう。 ☆ という命題を提示してもらったので ちょうど いいと考えるのですが はっきり言いまして ○ 《相転換》を そのように 《逆転換》した状態(または 境地)を やはり 先にすでに 想定している。 ☆ ということになります。この境地が ★ 死 ☆ ではなく――もしくは 厳密には 一たん《死》をとおって そのあと―― ○ 復活のあらたな生 ☆ だというわけです。 これについては 理屈をこねても しょうがないでしょうね。 一例だけ 証拠(むろん 仮想の世界での証拠)を示します。 ▲ 《コリント前書》15:42-44 ~~~~~~~~~ 死者の復活もこれと同じです。 蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、 蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。 * これらは それぞれ 自然本性そのままの《有為》から 《無 為》による逆転換を経ての 《あたらしい有為=つまり 新たな地上 の世界》へ 移行すると わたし( bragelone )は 採っています。 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。 自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここで《体》というのは 《肉と精神》全体を言っているはづです。《霊の体》といえば あらたな肉と精神をそなえた存在のことだと思います。 これは ★☆ こころに聞け。 / 沈黙の勝義諦の示されるところに気づけ。 ☆ を けっきょく 先取りした恰好だと思います。きわめて ずるっこく 横着でしょう? ★ 仏教の物語は虚構として充分楽しめる。 ☆ というところを あたかも――あたかも―― その虚構に関して すでに 永遠の現在においては 現実にしてしまった楽しみになっています。 たぶん ご感想をうかがえますよね?
- qsxdrfvgyh
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★ では、「絶対は 相対を包摂する」が成立しているでしょうか。 / 残念ながら、「絶対(非空)は 相対(空)を包摂する」が成立しないと見ました。いかがでしょうか。 ☆ この場合の《包摂》というのは 特殊です。すなわち ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 絶対は、相対と対極の概念 ☆ であると同時に ○ 絶対は 相対を包摂する ☆ と思われます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という形態での包摂です。 ○ 相対との言わば境界があって その外の領域が 絶対である。しかも 同時に 外から絶対が 相対を 包んでいる。 ☆ というような恰好ではないでしょうか。この ○ 絶対による相対の包摂において 相対の世界に存在する人間は あたかも普遍的な絶対を分有するかのように 霊ないし仏性を 心に宿す。 ☆ という虚構が現われます。 なるほど、納得しました。純粋に外側の絶対領域では、非空となるが、絶対が相対と重複している相対領域全体は、空となっているということですね。有限に過ぎない相対が絶対に丸ごと重なった領域だけ中心にあって、絶対は無限過ぎてその領域の外側にあふれているようなイメージが理解できました。僕は両者が完全に隔絶していると思っていました。 相対領域では、非空が空に変換されているということは、完全無欠の絶対にしては、弱弱しい感じを受けますが、相対領域内では、無為・無力を装っているのでしょうか。絶対は、二重人格的に思えてきましたが、無為との接点も見えてきたようにも思います。この絶対の二面性は意外です。唯一でも完全でもなく、それでも、唯一・完全に通じているのでしょうか。不思議です。 ★ 「絶対とは、完全に他に依らず(非依他起性)、力強く自立した概念で、 / 自性的なので、非空であると考えます。」 ☆ この定義は おそらく 有神論を前提にして そこから さらに その神ないし絶対の属性を 捉えようとして得た内容ではないかと考えます。第一次の定義は 《表象し得ぬ領域》で足りると思います。 信仰にあたって 絶対に関して 神は有るという表現で捉えたなら その神について さらに 《完全性 / 他に依らず みづから存在する実体であること / 被動性はなく 自立している / 自性・本性・本質》が 付加されます。そして ★ 非空 ☆ については 初めに《神は有る》と捉えたことを言いかえたに過ぎないと考えます。無神論では 《空》と捉えると思います。 非空の純粋な絶対領域(相対領域の外側)に注目すると、有神論、空の原理が現れる相対領域(絶対領域も重っている)に注目すると、無神論と言えそうですね。 ★ つまり、信仰者は、絶対者を思考の結果ではなく(理性を度外視して)受け入れたと想定しています。 ☆ このとおりだと思います。(思考停止について 勘違いでした)。ここでも 細かいことを言えば (1)《理性を度外視して》ではなく 《理性の働く余地のないところで 理性を超えて》だと思います。そして (2)もちろん 《受け容れない》場合も 同じく《理性を超えて》 かつ 受け容れる場合と同等の態度として 選択され得ます。《拒否する》でも かまわないと思います。 そして 無神論の場合には 一たん 受け容れないという信仰形態に立ったのですが あとは もう 信仰とか無神という神だとかを 放っておくものと思います。経験的な思考と能力の発揮を主要な原動力とする世界に位置します。 ちなみに 有神論の場合は そのように自助努力をおこなうのは まったく一緒なのですが その努力の有効性が 社会的に実現するのは 最終的に あたかも絶対者の力によると思っています。つまり 早い話が 成功するかどうかは 人間には 分からないと思っているし 有効であれば 成功にたどりつくだろうと思っています。 洋の東西を問わず、奇想天外な物語を《理性の働く余地のないところで 理性を超えて》受け入れる(鵜呑みにする)のは、物凄く抵抗があるのです。結局、無神論なのかなと思います。かつ、無為の探究者です。 ★ 絶対は唯一ですから、分割不可だと思います。「絶対は、絶対に分けられない。」そう思います。 ☆ まさに それでこそ 絶対なのですが そうなのですが 仮構としては どんどん 想像が伸びていくということだと思います。 二分しても それぞれの部分は やはり無限であるという想像裡での遊びのようなものだと思います。ただし 《父と子と聖霊との三つの位格が それぞれ 無限でありつつ 一つの本質である》という三位一体なる神が 想起され 説明として 持たれます。 三位は、三分割ではなく、三面性だと思うのです。つまり、視点が違うので、見え方が違う、正面から、(左右)側面から、(上下)天地面から、のようなことではないでしょうか。 そして、やっと終局になりそうです。 相対を全面に出して、有限の相対領域内に隠れた絶対(神性、仏性)が、自性を打ち立てるほどの力もなく無力な「無為」として、見ることも、感じることもできないけれども、重なっているらしいと思えてきました。 ここで、ウパニシャッドの梵我一如とも繋がりそうです。アートマン(新我、個の根源)もまた、有限の相対領域内でだけ、「無為」に通じているらしいと。アートマンも「~でない」で記述される無の概念なので、整合性がとれそうです。そんな風に、納得しましたが、いかがでしょうか。
補足
あぁ 意外に〔早期終結かな〕と言うと かえって 自分に対して自信がないのかと言わなければならないので おかしいのですが そうなんですか。わたしも 一応 納得しましたので そうなのだと思います。ご回答をありがとうございます。 そうですね。まづ 字面としては はっきりした別様の解釈がある点を 次の事項について つづります。 ★ 三位は、三分割ではなく、三面性だと思うのです。つまり、視点が違うので、見え方が違う、正面から、(左右)側面から、(上下)天地面から、のようなことではないでしょうか。 ☆ たしかに《三分割ではなく》に間違いありません。わたしの言い方では 《分割》にちなんで 出して来てしまいました。アウグスティヌスによれば こうです。 ○ 位格としての個は ほかの各個と また 三位格の全体と そして 全体は 各個と それぞれ 等しい。 ☆ 光にたとえた場合には――これは アウグスティヌスではありませんが―― 光源が 父なる位格であり その発耀が 子であり その明るさ・暖かさが 聖霊であると言えるかも知れません。 この《光》のたとえによると たしかに ★ 純粋に外側の絶対領域では、非空となるが、絶対が相対と重複している相対領域全体は、空となっているということですね。有限に過ぎない相対が絶対に丸ごと重なった領域だけ中心にあって、絶対は無限過ぎてその領域の外側にあふれているようなイメージ ☆ が 合っているとも言えるし どこか 違うとも見えるようですが どうなんでしょうか。これに関しましては こういうたとえを聞いたことがあります。 ○ 神の国(無為?)と地上の国(有為)とは 互いの間に 非武装中立地帯( no man's land )をつくって 相い対峙しているという恰好ではなく そうではなく この地上では 互いに入り組み 混同されるほど重なっているかに見える。 ☆ たぶん ★ 完全無欠の絶対にしては、弱弱しい感じを受けますが、相対領域内では、無為・無力を装っているのでしょうか。 ☆ そうだと思います。《むしろ 弱さを誇ろう》と言いますから。無理が通れば道理が引っ込むではないですが 無効の考えやおこないが有力であるところでは 有効な思想が 無力に甘んじている。時として 有力にもなるのでしょうか。 この情況を残念に思っているところの ★ アートマン ☆ は あると言えるかも知れません。 ★ この絶対の二面性は意外です。唯一でも完全でもなく、それでも、唯一・完全に通じているのでしょうか。不思議です。 ☆ この点につきましては わたしも さらにその思いを寝かせつつ 考えていきたいと思います。 補足・まとめ等々を お願いします。
お礼
yuyuyunnさん ご回答をありがとうございます。 貴重なご意見と思います。 ひとつは ★ 仏舎利を拝見したことがありますが ☆ というように 実在の人物というところから 説き起こしておられる点です。そのような互いの尊重(――和でもあると思いますが――)が 貴重な思いなのであると感じました。 もうひとつは ★ まだまだ魂は生きておられる。と思います ☆ こちらは やや皮肉に聞こえるようなことを申しますが 一方では 上の第一点とつながって 一人の人間にかかわる《魂》を挙げておられる点です。わたしの解釈としましては 《魂》の存続は その思想の潜在能力と受け取りますが 現在に到るまで つづいたというそのしなやかさ だと思います。 ただし もう一方では 《まだまだ》と言っておられる点にも注目します。揚げ足取りでないことを願って言いますが その潜在能力が 衰えて来たとも受け取っておられるのではないでしょうか。 というような趣旨で 質問をかかげました。その趣旨説明に取り上げた鍵概念の問題についても 触れていただければ ありがたいとも思いました。ありがとうございました。