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昭和天皇はなぜ軍部の暴走を止められなかったのでしょうか?
軍幹部や閣僚、枢密院の事実上の強制である「助言」に逆らえなかったのはなぜなのでしょうか? 天皇は、軍部を最終的に指揮・統括する統帥権を持っていたのですよね。 様々な事由で軍や政治家の意見を聞き入れなければならない状況もあったと思います。しかしミッドウェー以後の戦況を正確に知っていたなら、最早戦況は絶望的で、このまま戦いを続けたなら軍人のみならず、多くの国民の命が失われることは火を見るより明らかであったことは知っていたはずです。 軍・政治家の「助言」は飽くまで助言であり、例えそれに反したものであっても、最終の決断を下す権限を当時の天皇は持っていたのですよね。そしてそれは、何人たりとも妨げることはできなかったのですよね? にもかわらず「本当の」統帥権を発動できなかったのは一体なぜなのでしょうか?
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>昭和天皇はなぜ軍部の暴走を止められなかったのでしょうか? 大日本帝国憲法の第4条には、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」とありますが、続いて「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とあり、55条に、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責任ニ任ス」、同2には「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」とされています。天皇は憲法上「統治権の総攬者」ではありますが、輔弼と副署と言う制限された存在でもありました。これが「天皇機関説」の根拠ともなりますし、NO7の方が回答されていらっしゃるように、昭和天皇が自身を「立憲君主」として律していた根拠でもあります。 つまり、統帥権を含め国務は輔弼の臣の輔弼行為に依拠し、天皇は積極的な国政への関与を控えていたと言うことです。皆さんがおっしゃているように田中首相への叱責、二二六事件、終戦の決断以外には判断を下していません。終戦についても最高戦争指導会議構成員会議および閣議が意見の一致をみないために、最高戦争指導会議に枢密院議長を入れ、御前会議の形式をとり、天皇の判断を仰いだために天皇が決断したのであって、昭和天皇も決断を求められるのは本来の形でないと思っていらしたようです。 ですから、戦争がいかに不利になろうとも、国務・統帥の輔弼がない限り停戦・休戦・終戦にならなかったのではないでしょうか。また、統帥部の輔弼がない限り、終戦への統帥権の発動もなかったと思います。 このように輔弼を受けることにより、責任は輔弼の臣が取るべきもので、天皇自身には及ばない体制が成立しています。西園寺が天皇に田中首相叱責で注意したのはこの点であり、長い伝統を持つ公家社会(天皇を含め)の伝統的方策(生き残るための知恵)にも合致していたからです。 以上、参考まで。
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- gorogoo
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陛下はかなり後まで戦争に勝っていると思っておられたらしいです 海軍の侍従武官だった城英一郎中将の日記があります 陛下に毎日の報告をするのですが職務上大本営発表の偽造した誇大戦果しか報告することを許されなかったそうです もちろん陸軍侍従も総理大臣も同じ捏造報告を陛下に報告しました ですから陛下はよほど戦局が悪化するまで作戦は順調と思われていたのでしょう 敵を日本近海に引き付けて大打撃を与えて有利に講和する計画だと誰もが口裏を合わせて陛下を騙したのです 敵の軍艦二隻に爆弾を落としただけで空母11隻を轟沈させてアメリカ太平洋艦隊を壊滅させたと発表した台湾沖海戦に陛下が勅語を賜ったのも武官からの報告でした(私は子供でしたが皆がこれで勝ったと喜んだのを覚えています) 後に城中将は陛下を誤まらせたことに責任を感じて辞任し前線に志願して戦死しました
- diamondsto
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帝国憲法上の天皇は、統帥権も含め全ての決定権を持つ強権者でしたが、実際には、内閣・国会の決定を尊重してほとんど承認していたようです。(露骨に言えばメクラ判ともいえなくも無いですが) 当時、内閣・国会とも牛耳っていたのは軍部ですから、結果的に軍部の方針を承認していたことになります。軍部も国民に対するのと同様に、天皇に対して体の良い報告をしていたと考えられます。天皇もそれを信じていたわけです。 しかし、度重なる空襲や事実上の敗退、そして遂にはポツダム宣言の通告となり、それへの対応を決める御前会議で、「自分はどうなっても良いから降伏して戦争を終結する」という決断をし、これで戦争が終結したわけですね。ですから最後の最後に統帥権を発動したと言えるのでは無いでしょうか。遅い、という批判は残るにせよ・・・。
お礼
ご回答いただきありがとうございました 確かにあまりにも遅すぎましたね 空しさだけが残ります
- tanuki4u
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昭和天皇こそ「天皇機関説」の信奉者であった。 満州某重大事件の際に田中首相にきつく言ったがため田中内閣を崩壊させ、やってはいけないことをやったと反省された。 戦況を知らなかった 陸軍はミッドウェーの実態を知らなかった事は確実で、海軍が天皇に正確な報告をしていたかどうかも怪しい。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E6%B2%96%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%88%A6 台湾沖開戦では、アメリカ機動部隊は全滅に近い損害を受けたことになっていた。
お礼
ご回答いただきありがとうございました なんともやるせないですね
- dogday
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二・二六事件でもう呆れて嫌になっちゃった というのがよくある説です。 天皇は二・二六事件で武力鎮圧命令を西園寺公望に諌言されてひっこめてから、ほとんど軍事的な決断はしなくなりました。
お礼
ありがとうございました 諫言:いさめること。また、その言葉。 「主君に―する」 と、goo辞書にありました
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お礼
ご回答いただきありがとうございました 当時のことを記憶されている方からの回答とは驚きました! 軍と言うものはいつの時代、どこの国でも自己保身、面子を保つためならどんなことでもするのですね・・・。 「軍とは暴走するものだ」ということを念頭に置いた、確実な制御方法 を構築しなければ悲劇は繰り返される。 これが先の大戦が残した一つの教訓なのでしょうか。