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令外官について。
朝廷の令外官とは何でしょうか? 臨時の職。官位の事ですか? 臨時の官位、職なので朝廷の順位が決まってないのですか?例えば、征夷大将軍や関白、内覧、鎮守府将軍など。 自分では勝手にそう解釈してます。 教えて下さい。 皆さんの回答お願いします。
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学校で「律令制」などと言う言葉を習ったと思いますが、朝廷の官(職務)は、「令」で定めるのが原則でした。 ところが、社会は複雑化する一方。対応して職種も増えるのですが、「令」は簡単には変えられない。で、「令で定めた正式な官のほかに官を作ろう」という話になって作られたのが「令外官」です。 口実としては「臨時職だからいいじゃぁないですか」ということだったかもしれません。慣例大事な朝廷のことですから、すぐ臨時ではなくなりました。 おまけに、江戸幕府ができると、武家の官職は令外官ということになりました。一応朝廷に申請して頂戴するのですが、ほとんどが勝手に「私は越後守がいい」「それがしは侍従を」「私は大膳大夫」をという希望を述べて、幕府がまとめて申請して、頂戴することになりました。 越後守は掃いて捨てるほどいましたし、侍従は天皇などのお世話をする人、大膳大夫は天皇の食事の世話をする人ですが、武家はハナからそんなことをするツモリはありませんでしたが、形だけ。 > 臨時の職。官位の事ですか? 官と位(位階)は別物です。 官というのは、職務。例えば大納言、征夷大将軍、検非違使などです。 位階というのは、「三位」とか「二位」とかのことです。朝廷の席順は、位階で決まります。「正一位」が最上席。位階が同じなら就任時期の先後。それも同じなら官で、という順番だったと思います。 「五位」以上が殿上の間へ昇殿できるので、俗に「殿上人」とか「雲の上の人」と呼びました。 武家では、およそ10万石までの譜代大名は、「従五位下」で決まり。老中クラスが従四位あたりまで。 ほぼ位階と官はセットで、例えば尾張と紀伊の殿様は、「従二位・大納言」が極官で、水戸は「従三位・中納言」でしたが、必ずしもそうではありませんでした。 ちなみに、天皇と面会して正式に会話するには「従五位」以上の位が必要です。現在、皇居清掃奉仕などをすると陛下が通りがかってお言葉を賜うことになっていますが、これは正式には面会でさえありません。「お会釈」と言います。 今では、位階は、「追贈」されるだけで、生きている間はいただけません。 さらに、ゴイサギという鷺がいますが、これは昔、醍醐天皇が「また会いたい」と思って、初めて出会った鷺に「会う資格(五位)」を与えたのが始まりです。天皇と会うために、四位?の位をもらった象もいます。 このように、無位無冠では会えないのです。 上に述べたとおり、ほぼ(幕府ではない朝廷では特に)官と位階はセットです。そして、清涼殿の殿上の間へ上がれるかどうかや席順は位階(後に家格)で決まりました。 官については、臨時だから令で決めなくていいじゃないか、というのが最初の発想だったのではないかと思います。 しかし徳川家光の乳母、春日局が「局」の官(位階は不知)を授けられたのは、天皇と面会するための臨時措置だったと書かれた本を読んだ記憶がありますが、ずっと名乗っていたのですから、臨時じゃなくなったはず。 ですが、位階に「臨時に決めた」という記事は記憶にありません。失敗して剥奪されるか、死ぬまではその位階のはずですし、なんらかの形で子孫に受け継がれたはずです。
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- ichikawa2017
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>朝廷の令外官とは何でしょうか? 大宝律令に定められていない官(職務)のことです。 律令の外の官という意味です。 >臨時の職。官位の事ですか? 大宝律令に拘ることなくその時々の必要に応じて決めていました。 現在の復興大臣のようなものです。 源平合戦のころ木曽義仲が都で権勢をふるった際におそれをなした朝廷の公家衆が旭将軍などという官名を作って義仲に与えて懐柔しようとしたことがあります。 当初は臨時の職であったものがその後恒久的なものに変わって行ったものもあいます。 現代の沖縄及び北方対策担当大臣のようなものもあったということです。 現代と異なるのは大宝律令に定められた官は常時朝廷の閣議に出席する義務がありましたが令外官の場合は職務上必要な時に出席するだけでした。 >臨時の官位、職なので朝廷の順位が決まってないのですか? 朝廷内での位置づけはその職務の内容によって習慣的に順位付けられました。 その時々の政治情勢で位置づけが変わるというか権限が変わりました。 典型的なのが関白や摂政や征夷大将軍です。 源義家が征夷大将軍を拝命していました。 東国を平定して都に戻った際に公家衆が義家の武力を恐れて尊重するようになり当時の朝廷内での征夷大将軍の権威が高いものとなりました。 頼朝も最初は大宝律令に定められた官に就任することを望みましたが常時閣議に出席するためには鎌倉を離れる必要があることから断念して征夷大将軍という官を拝命しました。 征夷大将軍という令外官の権限を絶対的なものとしたのは徳川家康です。 律令による位置づけが決められていなかったことから藤原氏の時代には令外官である関白や摂政が天皇をしのぐ権威を行使していました。 大宝律令で定められた官は公家である必要がありました。 豊臣秀吉は農民の出でしたので令外官である関白に就任して絶対的な権力を行使しました。 >自分では勝手にそう解釈してます。 上記しましたように時々で勝手に変わっていますので中らずと雖も遠からずです。
- ithi
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cma79458 さん、こんにちは。 大宝律令ができてから、100年もたたないうちに運用の簡素化を始めるため、令の規定の他に設けた官。これを令外官といいます。有名なのは関白、中納言、参議、蔵人頭でしょうか? 令外官 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A4%E5%A4%96%E5%AE%98
お礼
回答ありがとうございます。 令外官のイメージとして強いのが、藤原氏の摂関と大政大臣の分離と源頼朝の征夷大将軍があります。 でも頼朝の場合は大将軍の肩書きに拘り、たまたま征夷大将軍が選ばれた経緯があるのは知ってました。 いくら調べてもなかなか、分かりにくいですよね。 回答ありがとうございました。
お礼
回答ありがとうございます。 自分も秀吉の例を見ても、身分が低く源平橘藤がない立場だったはずなので。 朝廷の歴史を調べると此処まで、朝廷が前例というものを重んじるとは思いませんでした。 ああいった王朝や朝廷の存在は、どの時代でも難しいですよね。 回答ありがとうございました。