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原始仏典 相応部教典内 十二因縁について
仏教は哲学であると考えています。私はどこの宗教団体にも属さない者ですが、専門分野を研究していると、インド人の数学概念や、因果律などに驚かせられることがあります。仏教と量子力学との関連性を指摘する研究者もおります(勿論、これは科学者間の共通認識ではありませんが)。ただ、直感的に、仏教の十二因縁は、非常に奥の深いものがあのではないかと、直感的に感じます。ところが、この十二因縁をいくら読みこなしても、どうしても理解できません。まず、十二因縁を簡単に書いてみます。 無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老→死 私なりに理解している部分を書き出します。 「無明」。人間が生まれながらに持っている本能だと思います(勿論、四正諦への無知であるということは文献通りですが、私は、本能と解釈しています)。 「行」。ここでまず、疑問が生じます。パーリ語からの意味だと、「意識の動き」だと思います。現代人の感覚からすると、生まれてもいない初期段階で意識の動きがあることに疑問を感じるのです。(疑問1とします) 「識」。識別作用のことだと思います。眼耳鼻舌身意の識別作用だろうと思います。ここで矢張り疑問なのは、まだ耳も鼻もない状態で、なぜ、識別作用が生じるのかが理解できないのです。(疑問2) 「名色」。五蘊(namarupa = name and shape)。名をもって知られる受・想・思・触・作意、これが「名」であり、「色」が存在かと思います。つまり、人間の構成要素だと私は考えます。しかし、「識」という上記の識別作用が、なぜ名前のある存在を生み出すのか。これが理解できません。(疑問3) 「六処」。六根の認識だと思います。そうすると、「識」の識別作用と重複してしまい、「識」の識別作用と、「六処」の識別と重複してしまい、ここで混乱してしまいます。(疑問4) 「触」。この辺りからは、現実の存在としての人間が生じるため、六根が世界と触れ合うことであると認識しています。間違っていないでしょうか。 「受」。感覚。当然、「触」によって、感覚が生じることは理解できます。この認識でよろしいでしょうか。 「愛」。渇愛。つまり、「受」によって感覚が生じ、綺麗なものを見たい、美味しい味覚を味わいたいという欲望が出てくることだと思います。間違っていれば、ご指摘ください。 「取」。執着。「愛」によって、味わい始めた感覚にとらわれ、執着心が生じることだと認識しています。よろしいでしょうか。 「有」。存在。いわゆる三界での存在ですが、人間としての各世界での存在だと思います。しかし、ここでわからないのが、「触」から「取」までは、既に人間存在として成立しているにもかかわらず、なぜ、ここで「有」という人間存在が重複するのか。頭が混乱するところです。(疑問5) 「生」。生まれること。肉体が生じること。相応部漢語訳では、生命体が、生を受け、身体の各部が表れることとなっています。つまり、母胎内での成長と、現実世界への誕生を意味すると思います。ということは、「触」から「有」までは、受精後のからの存在から母胎内での存在なのかということ(疑問6)、かつ、「触」から「有」までの母胎内で、生命体は既に欲望や、執着心ができあがっているのか(疑問7)。 「老」。老いること。これはそのまま理解してよいかと感じています。 「死」。死ぬこと。肉体として老いるため、少なくとも三界うち色界(欲界も含めるほうが自然かと思います)からは存在しなくなることという認識でよろしいでしょうか。それでは、無色界からも存在がなくなるのか(疑問8) 以上です。どうしても、頭が理屈と、実証主義的考えから、理解できません。パーリ語辞典は持っておりますが、少し理解できる程度で、原典を読む力がないため、どうしても「漢字」で考えてしまうため、余計に分からなくなるのかもしれません。 宗教的アプローチ、哲学的アプローチ、生物学的アプローチでも構いませんし、全てではなくとも、一部の疑問点だけでもお分かりになる方、もしくは、ヒントや直感で感じたことだけでも結構ですので、ご教示していただければ有り難く存じます。 長文失礼いたしました。気長に待ちますので、よろしくお願い申し上げます。ご回答いただいた場合はできる限り早めに書き込みますが、遅れた場合はご容赦ください。遅くなってでも、必ず返信はいたします。尚、私は先に申し上げましたように、一切の宗教団体に属しておりません。また、各宗派、信仰に対して、一切の偏見などは持っておりません。分からないことばかりでご迷惑をおかけすることがあると思いますが、よろしくお願いいたします。 敬白
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今の日本で、十二支縁起の流れがすとんとお腹に落ちる人、というのはまずいないでしょう。その意味では全くご心配なさる必要はないと思います。 以下は回答というよりも、むしろアドバイスですが・・・。 まず一つは、十二支縁起を「無明」をスタートとして「老死」に至る説明、というふうに受け止めないほうがよいということ。 もちろん順観という理解は当然あります。ただ、仏教の成りたちそのものが、苦しみとしてある現実の生の自覚にたって、その苦しみを脱するためにその原因を探そうとしたことに始まるのですから、そもそも「老死」からスタートする逆観こそ、重視されるべきではないかと思うわけです。 「老死」というのは、単に「老い」とその後に続く「死」という現象を指すものではありません。jaramaranaジャラーマラナという言葉は、語義的にみればまさに「老いと死」ですが、そのニュアンスは「無常で移ろいゆく身を生きる苦しみ」といったものです。憂いや苦しみ一般を代表して明示するのがこの「老死」という言葉なのですから、これを分解して観念的に理解しようとすると、その根本にある宗教的な核というか動因を見失ってしまうことになりかねません。 それから二つ目。上とも関係しますが、十二支縁起を、あたかも個体発生の過程を説明するように個人の誕生や生にあてはめて理解する、あるいはその説明原理として用いるのは、やはり無理があるのではないか、ということ。部派仏教では盛んにそういう説明をしましたが、歴史的に見ても、それが果たして多くの人々の心を動かし得るような宗教的な力を持ったことがあったかどうか。 三つ目ですが、各要素の間の関係は、単に時間的な因果関係だけではなくて、論理的関係も含まれていますし、今の時代の私たちにはなかなか理解しにくいような、時に感覚的としか言えないような関係も含まれています。ですから、いくら前後の要素をにらんで見ても、あまり益がないのではないか、という気がするのです。 例えば、「生」と「有」の関係です。経典は、「生まれること」は何によるのか(つまりどんな縁にもとづくのか)、と問いを発して、「有」がある時に「生」が起こる、としています。「有」というのはbhavaバヴァですが、中村元先生はこれを「時間的に無常な存在として有ること」として、生きとし生けるものの迷いの生存が先にあるからこそ、われわれが生まれ、死ぬということが可能なのだ、という古代のインド人の感覚をもってこの二者の関係を説明づけられました。 この関係については、学会でもかつて色々と議論されたのですが、果たして堂々めぐりに陥らずにスパッと明快に説明することは、今の私たちにはなかなか困難なことでしょうし、あまりメリットもないと思います。十二支縁起の中には、こういった理屈が実は多いのです。 一々の言葉の理解など、申し上げたいことも多くありますが、結論的に申し上げると、十二支縁起の中身に過度にこだわることはあまり意味があるとは思えません。誤解を恐れず書くと、重要なのは「老死」という迷いの中の生存状態の認識と、究極の「無明」との関係の理解であって、それ以上は瑣末と言っても過言ではありません。 スッタニパータなどにも、「無明という大いなる迷いによって永い輪廻が生まれた、しかし明知に達した生けるものは再び生存を受けることはない」といった風に、その両者の関係が明快に表わされています。あまたある縁起説のなかで、十二支縁起がその定型となったことに歴史的な意味はむろんありますが、畢竟この二者の間の説明的説明のようなものではないでしょうか。 先にお名前を挙げた中村先生はどこかで、「十二支縁起の中間の項目は、インドの学僧たちが頭をひねってむりやり押し込んだもの」という内容のことを書いておられました。また三枝充悳氏などは、文献的研究をもとに、種々ある縁起説の中でことさら十二支縁起だけがまるで仏教の主流のごとく扱われてきたことに強い疑念を呈しています。 特定の立場に偏らずに仏教を学ぶというのは、このサイトを見てもそうですが、なかなか容易なことではありません。そんな中で、質問者さんが十二支縁起に心惹かれるものを感じ、中立的に勉強しようとなさる事は掛け値なしにすばらしいことだと思います。それだけに、大方の理解はそういうものだ、ということも少し頭の隅に置かれて複眼的に勉強なさるとよいのではないか、と感じました。 文字の上だけでのやりとりですので、お気に触る部分があるかもしれません。どうぞご容赦ください。
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来世の二果は生・老死です。訂正し損ねました、すみません。
お礼
わざわざご訂正までしていただき、ありがとうございます。学問としてではなく、じっかり考えてみます。再度、増谷文雄全集と、中村元の岩波文庫にて、全てに目を通してみます。今後とも、疑問だらけです。よろしくお願いいたします。
無明・行は過去世の二つの因です。識・名色・六入(私はこう習いました)・触・受は現世の五つの果。愛・取・有は現世の三つの因。生・死は来世の二つの果。それから六入や有のあなたの解釈も、私が習ったのとは違っていますが、それはあなたと私の元となる教えが違うからです。しかし十二因縁の始めの二つは、果ではなく因だということはお分りになりましたでしょうか?それから哲学は哲学、仏の教えは仏の教え以外に何物でもありません。
お礼
ご回答いただきまして、誠にありがとうございます。無明と行は過去世が因となっているのですか。「果」ではないのですね。うーん、難しいです。つまり、阿頼耶識に関係しているのかなぁ?と考えています。「識・名色・六入・・触・受は現世の五つの果」ということは、現世の三界に存在したことが因であるということになる、いうことですよね。「愛・取・有は現世の三つの因。生・死は来世の二つの果」この部分は、理解できます。わかりやすいご説明ありがとうございます。「それから哲学は哲学、仏の教えは仏の教え以外に何物でもありません」はい、肝に銘じておきます。哲学的、科学的に考えても、ブッダの教えは、そのようなものではないと思っています。宇宙は、時間でもあり、光速になれば時間は停止します。それを越えると(実際に、光速を越えるという現象が発生してしまっています)時間が過去逆戻りし始めます。仏は知恵の光として、あらゆる空間に存在されるということ文章を読むと、仏にとっては未来も現在も、過去もないのだと感じます。じっくり考えてみます。頭で理解しようと努力してもだめですね。ご親切な説明、本当に感謝いたします。よき師に出会えたような気がします。 合掌
- mmky
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十二因縁: 無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→老→死 これはほとんどの一般人の苦の転生輪廻の姿をあらわしてるものですね。 どこからでもいいんですが、生まれるのが「名色」ですね。色は肉体を持つという意味です。おぎゃと生まれると徐々に五感「六処」が発達して感覚「触」がうまれそれに伴い感受性「受」が生まれる、ほしいほしいというタンハー「割愛」が生じ(愛:仏教では悪い意味です)、何でも手に入る年齢になる「取」そのまんま(間違った考えのまま)固まって「有」、老いて死ぬということですね。そしてまた生まれる。というように殆どの人々の人生そのまんまですね。 最初の3つはそれをまとめたものです。真理を知らないから間違った行い、経験や知識がありそれによりまた生まれる(名色)があると続きます。 早く真理に目覚めて洗濯機で芋を洗うような転生から離れなさいという意味でもあるのですね。仏陀は冷静で客観的なものの見方をすると考えれば理解できるかもね。例えば人間は猿から進化したなどという見解は最たる無明ですね。
お礼
書き込みありがとうございます。なるほど、最初の、無明→行→識 が、人間の四諦を理解しないがため、因果の道理により、無明から識まで当然の如く進み、名色で存在として確立するということですね。そうすると、後は、死に至るまで全てが、因→果という形で流れていく。そうると、果を滅することは宇宙法則通り不可能であって、因を断ち切らなければ、果は必ず起きる。これは全ての事象に当て嵌まることですね。結局、無明を滅する以外には、全ての果を断ち切ることはできない。断ち切ることなく死んでいくから、また無明に戻り、無限ループに陥るということですね。ここで、また疑問がわいてきます。(原)因がなければ、(結)果が生じないというのは、絶対の真理です。そうすると、無明が「果」であるとすると、無明の「因」は何なのでしょう。無限ループだとすると、「死」が無明の「因」ということになりますね。どうも、理屈だけでは理解できないです。 因果は自然法則ですが、私は、ブッダがよくこれほどの哲理的なことを気づいたのかと直感的に驚きを感じます。ブッダは非常に論理的で、理詰めで物事を追求し、思索できる能力を持っていたのだと思います。 原因があって結果があるという当然のことですが、この十二因縁には、追求していくと、奥深いものを感じます。それでも頭では理解できないです。以前、見知らぬ方ですが、お寺に参詣に行ったとき、尋ねて見ましたが、納得のいく答えではありませんでした。 どうもありがとうございました。長文を読んでいただき、コメントをいただけたこと、感謝しております。この手の問題は、なかなかコメントがないだろうなと想像しておりましたので、驚きと共に、感謝の念で一杯です。言葉だけの感謝になりますが、ありがとうございました。 不一
お礼
詳しく書いていただきまして、誠にありがとうございます。 >そもそも「老死」からスタートする逆観こそ、重視されるべきではないかと思うわけです。 はい、これは確かに、相応部漢語訳、「分別」で、ブッダが逆順に説いておられるところがあり、その形のほうが人間にはわかりやすいなという気がいたします。原始仏典は、ブッダの弟子達に対する、初期の教えであり、理解できない者達に繰り返し繰り返し説明されていることが伝わってきます。逆順が最初のほうで出ているのは、そのほうが人間には理解しやすいとお考えになったのでしょうね。 一番目から三番目のご解説、今一度よく読んで、自分の心に問うてみます。ブッダが死を覚悟して最終的に悟り、四諦、そして八正道に結びついていく事柄ですから、理屈で理解することは無理だろうと思ってはいます。私は、ブッダ自身も、十二因縁から始まり、約45年間の中で修行段階が高まっていかれたのではないかと考えております。従って、ブッダも阿羅漢も、非常に高度な境地に達した段階での教典の理解は不可能ではないかと考えています。そのため、どの宗派にも属さず、何とか理解できないものかと考えてきたわけです。しかし、怠け者ゆえ、にっちもさっちもいきません。 >重要なのは「老死」という迷いの中の生存状態の認識と、究極の「無明」との関係の理解であって、それ以上は瑣末と言っても過言ではありません このお言葉、しっかりと咀嚼させていただきます。 >それだけに、大方の理解はそういうものだ、ということも少し頭の隅に置かれて複眼的に勉強なさるとよいのではないか、と感じました はい、勝手な思い込みをせず、複眼的に学ぶ必要は、心の中で感じておりました。サンガが重要だったのは、そのためなのかもしれませんね。 >お気に触る部分があるかもしれません いえ、全くそんなことは感じません。私は、頑固な部分はありますが、学ぶことに関しては、先達の方のお言葉に、謙虚に耳を傾けなければならないと思っております。 まことにありがたいご縁を感じ、ネットの世界にも、貴殿や、慈悲の心で書き込みをしていただける方がおられることに対し、うれしく思います。 ありがとうございました。師がまた増えた気がいたします。ありがたいことです。 合掌