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対立の一致
クザーヌスの「対立の一致」で神を超える神を提唱しています。 これは無であるみたいですが、神を超える神が無なんて理解できません。 どういうことを言いたいのでしょうか? 凡人には実感がわきません
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まずは、Docta ignorantiaを理解する必要があります。 理解するのではなく、思弁的に観照するのである visio sine comprehensione, speculatio N.クザーヌス 一.人知は、其れ無知なり。 生きとし生けるもの神的存在意義について、それが、何処に生きづいているのかという視点で述べるとするなら、 眼前の事実として、このもの全ての中には、 自然世界の個々の境涯にあるべき姿そのままで、 至福として、「自己の存在を高めん」とする自然自明の 願いが込められている。 この至福を求めながら、たゆむことなく 精進し、個々がもちあわせる方法・手法と 生来の悟性をして、 認識の目的に忠実に、かの自らの願いが、不毛であってはならぬと心に決め、探求の対象の中に止まり、自己の本性を引き当てることを通じて 安寧の境涯にいたることこそが、われわれの本性なのである。 「既学無知抄」第一巻第一章より (de docta ignorantia) 意見 高みに到達する過程にある学生を考えてください。いろいろ勉強して、間違えてそれでも向上心を持ち続ける限り、自己を高めていく。 既成概念/通説/教科書に書かれている内容/辞書の訳語などなど そのときそのときで「これが正しい」と信じ込んでいることがある。 その諸々の暫定的真実を捨て去り、次の事実へと自己発展を繰り返していく。しかし、人間が一生のうちに読破できる図書の総数を例に出すまでもなく、自明であることは、知識的「学」に関し、その絶対量が限られている/有限であるということです。注意!ここからが、日本人には難しいところですが… (キリスト者は) 立ち返って、向上心をもつのはなぜかと、問うたとき、そこに残っているのは、(予定調和的にという言葉がぴったりきますが、)「神」と「私」であるという結論に達するのです。 神の全知は、到達できない。このことを自明のものとすることが、「告白」であり、「対立の一致」であります。変に言えば、 「うっそだろ」ということでもあえて信じて、そのまま(キリスト教的に)学問するということです。意見終 人間は、神的実体の無限性を認識しようとするとき、手段として、合理的認識を漸進的に高めることによっては、到達することができない。 合理的に説明される現実の境界線を「思弁により(speklativ)」克服することで 悟性に惑わされることなく神的認識を実現することができる。 というのが、「coincidentia oppositorum」です。 逐語訳すると 学問的に対置される得る双極概念の信的崩滅 「( 論理的) 矛盾克服」のほうが、わかりやすい訳だと思います。 新プラトン派のプロティノスにひきつけて 弁証法/矛盾の止揚とさえ訳す人もいます。
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おっと 肝心の回答を書き忘れてしまいました。失礼。 たとえば、シェリングの著書「一神論」は、人倫の神を学問的に取り上げています。神は「こんなだ」とか、「あんなの」とかいろいろ検索することができるでしょう。 神の捉え方さえ要素化できますが、 地球創造の神と宇宙創造の神 宇宙創造の神とその宇宙群を創造した神 学問がどんどん進んだとして、検証手段も進歩し、(秩序をつかさどる神と呼べる)そのような、絶対神の概念が発展的(ほとんど無限)に考えられるかもしれません。 しかし、次元・階級という概念を引き合いに出すまでもなく、この種の神々について、たとえば、「より大きな神がより小さな神の創生原因である」かどうかということさえも突き止める手段はありません。(カントの議論参照) というのも、この無限性が、想定される(一神論的)神の無限とは、質的にまったく異なるものだからです。想定される合理的な回答としては、学的に認識できる存在ということを中心にみ、さらにそれに加えて、「不可知」という属性から推し量ると「学的存在」とは対置される「無」が、神であるということになるのです。 (神は否定的にしか 認識されえないというのもクザーヌスの意見です。)
- tumaritou1
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クザーヌスという人も何も知らない一般人ですが『無』と言う言葉が出てきたので参加させてもらいます。 東洋の『無』の思想と言うものの説明をします、是は私見であります。違っていたら教えて下さい。何も考えていない状態が『無』かと思います。仏像を彫っている時などです。西洋では『我思うゆえに我在り』と言う考え方になっています。 東洋はあべこべに『何も考えていない時が一番良い仕事が出来ている状態』と考えられます。真剣勝負をしている時などでは「心に何も考えていない状態」の方が何にでも対応できます。『心の準備を、何もしない事です』眼の前の事を無心に受け取っている状態です。 心に何も留めないで生きてゆくことです。これは一見馬鹿に見えますが、返って『精神衛生』には良い状態といえます。「明日の事を思い煩う」事が精神疾患と言えます。昨日の事を思い煩う事も精神疾患という事も出来ます。 明日の事を思い煩わない状態、昨日の事も思い煩わない状態、それは『現在』に「全身全霊」が入りきった事を意味しています。それは自分自身の心が『対立と矛盾』を起こしていない状態と言えます。 精神疾患、心の迷い、心が騒ぐ、何かわからないものに怯えている、自分は何者か?と模索している状態と言うのは[心が対立と矛盾]を起こしている状態と言えます。gqwさんの心の状態の事です。絶えず心が対立している状態の事です。自分が何者か判った状態が自分の中の神を認めた事になります。 人間の悩みや、疑問の元は皆本人が作っています。そのことは本人が一番知っています。その疑問を抱いている本人と、その疑問を抱かせている本人がお互いに出会うことでその疑問は解消できます。その時は、人間の頭の半分は「神」で出来ていることが判ります。判らないとすれば、やっぱり「神」は[無]と言えます。 人間は[自我意識]だけで眠ろうとする時には[不眠症]になります。眠る事一つでも人間は「神」[無]と共にいます。只非常に判り難い事ですが。