老子の時代、胡蝶の夢という話で同じような問題を扱っています。
脳科学の発展のおかげで私たちが認知している世界の多くは脳が作り出していることが判明してきました(脳だけではなく、臓器などにも記憶因子が存在することも解ってきているらしいのですが)。
脳が作り出しているという点だけに着眼すると、世界は脳が作ったunnrealなものでしかない…という話になりがちですが、脳科学が解明したのはそのようなことではなく、いかに示す脳の機能なのではないでしょうか。
コンピュータに例えてみますと、脳の中にあるオーロラビジョンに世界像を映し出すことによって私たちは世界を認知しているのですが、脳はそのオーロラビジョンに映し出すべき世界像の元となる資料を本来は何も持ち合わせておらず、あくまでも目鼻耳舌皮膚心から情報を得ることによって(情報をインプットすることによって)初めてオーロラビジョン上に世界像をアウトプットできるのではないでしょうか。
すなわち脳が受け持っている機能の基本的な部分は情報のアウトプット機能であると考えます。
当然、目鼻耳舌皮膚心から入ってくる情報を状況に応じて整理し優先順位をつけているという点では脳独自に価値判断された情報のアウトプットなのですが…。
そう考えると、私たちの世界認知の元となる現実というものが存在するらしいということまではいえると思います。
そこで問題になるのは記憶・夢の問題です。
脳は当然経験した情報を記憶という形で脳神経のどこかに保存します。
これによって記憶が最大限の優先順位をもって脳活動を占有する事態が想定されます。
そのような状態は夢を見るという経験を考えてみると容易に理解できます。多くの夢はそのような契機によって現象していると考えてよいでしょう。
さて、夢見ている人がその夢を生きている最中に、これは現実なのか夢(非現実)なのかを見分けることが出来るのかという問題に帰結して行きます。
たまに、夢見ていながらこれは夢であると直観されることがありますが、そうでない場合(夢ではなく現実であると認識して夢を生きている場合)のほうがほとんどではないでしょうか。
考えて見ますと、脳はあらゆる情報をオーロラビジョン上に出力することによって、一旦はその世界像を現実として出力するのではないでしょうか。
その後脳はその画面に映し出された情報をこれまた脳の記憶に照らして価値判断(real or unnreal)していると考えます。
したがって脳の記憶に違わないきわめて現実的なストーリーの夢を見ている場合は、それが夢であるのか現実なのかをその夢のさなかに判断することは困難と思われます。
それと同じように目が覚めてみたこの現実と思われる世界が本質的に夢の中なのかそうでないのかを疑ってみたとき、その明確な目印を見つけることも困難なように思えます。
普通これらの現実への信憑性は、きわめて自明のこととして認識されるのですが…。
一旦言葉により世界を分節し現実・非現実の目印などという設問をたて答えを見出そうとしたとき言葉の魔術の世界に入り込んでしまいます。
夢とはいえ現実という経験を重ねることによってその記憶が蓄積されているので夢の元となる現実の存在は疑う余地がなく、脳は現実のこととして世界像をアウトプットしているのですから、よっぽど荒唐無稽でないかぎりそれが夢であるなどと疑う必要はないというのが私の回答です。
言葉というものは恐ろしいものでいたるところに魔術的な磁場を働かせて存在しているように思われます。
仏教でいう不立文字というのはそんな言葉の世界にとらわれることを戒めているのではないかと思います。
フランスの啓蒙思想家のエッセーにこんなのがありました。
「…私(啓蒙思想家)は、読書をするときは必ず蝋燭に火を点して机の傍らに備えておくことにしている。そして数ページ読み進むごとに蝋燭の炎の上のほうに手のひらをかざすということを自分に課している…。」というものです。
その心は、読書に没頭すると書物の世界があたかも現実のように認識されるが、読書によって展開されるのは決して現実ではなく、今ここに読書している私こそが現実なのであることを自分自身が端的に理解するために、蝋燭の炎のやけどするような熱さを生身に感じさせているのだ…というものでした。
参考になりますでしょうか。