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実在(性)と現実(性)の違い

実在(性)と現実(性)の違い はなんでしょうか?

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noname#24129
noname#24129
回答No.2

単純な問いですが、難しいです。こういう場合、私は、漢字と、論理を頼りに、分析します。 実と虚を矛盾概念とします。在(有)に対しては、無でしょうか。現に対しては、表をもってきますね。現われるということと表すということは、受動、能動の対でもあるし、主体が他者と自己という区別でもあります。また、主体の区別なしでは、無意識的と意識的の対となるでしょうか。 実と虚は、数学の実数と虚数をまねて、それらを記号で、RとIとします。有と無は1と0が、これも数学的ですが、分かりやすい記号でしょう。現と表はaとsで記すとしましょう。2^3=8の組み合わせができます。たとえば、R1aは、実であり、有であり、現われるものです。自然現象などはこれにあたるような気がしますが。しかし、プラトンにとっては感覚的世界のほうは虚なんですよね。だから、絶対に実だという根拠は相対的で、虚実は表裏一体となって、顕示・黙示を隠覆しあう相補的な関係なのだと思います。 無という言葉はどうでしょう。その指示するものは、0であっても、言葉としてはあるのだから、1の世界に属すのでしょうか。1と0も何か一体的ではないでしょうか。それは、虚実の表裏一体性とは違って、相補的ではなく、常に1の背後に0があるというような関係。0があるなどといってしまいましたが。1が存在するための前提というか、場所のようなものというようなあり方で0があると思えます。 さて、aとsの関係ですが、唯一の普遍者の二面性でしょうか。普通日常的な意味で現実というと、客観性をもった現われaですよね。いかに客観的内容を持った判断であっても、それを表現する場合、表しsですよね。しかし、この意識的な行為のうちに私が現われるように思えるのだからaなのでしょうか。デカルトが「我思う故にわれあり」といったときの我は、見える私としてではなく見えないままの我として現われたものでしょうか。この我は極めて疑い得ないものだけど、1の世界であるのではなしに、0として有るような気がします。 どうも私は、観念論に傾いているようです。見えないもののほうを実在として、現実を虚像のように思えるので。しかし、その虚像も、実とみなすことは可能というか、現実的なので、ふつうはそう見ていますが。 哲学的に言えば、まだ分析は不十分ながら、実在は唯一者で、虚実と有無は反転するけれども、I0(as)に属するものでしょうか。それに対し現実はR1(as)にとればよいのかと思っています。漢字とは対応していないですが。 繰り返しますが、十分に考えてはいません。この記号は今作ったばかりですから。

noname#21336
質問者

お礼

ご回答いただき誠にありがとうございました。

その他の回答 (1)

noname#22222
noname#22222
回答No.1

実在とは、実際に存在している現実的な存在。主観的な認識に基ずくもは実在ではない。 現実とは、現実に存在している実在的な存在。可能性の段階にあるものは現実ではない。 このような関係かと思います。

noname#21336
質問者

お礼

ご回答いただき誠にありがとうございました

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