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本能寺襲撃時の“音”について。

1582年【本能寺の変】の際の、明智軍の進軍の音について伺いたく思います。 宜しくお願い致します。 当時の京都はもちろん自動車なども通っておらず、現代とは比べ物にならない程 静かであったろうとは想像に難くありません。 しかも襲撃時は日中ではなく未明~早朝だったとされています。 信長は明智方一万三千(諸説ありますが)ともいわれる軍勢に包囲され、 手遅れになるまで進軍に気がつかなかったのでしょうか? 明智方が静かに行動しようとも、騎馬の嘶き・蹄の音、 馬具や甲冑の音などで気付くことは無かったのでしょうか? 平時の街の音に比べれば異常な音はすると思うのです。 いくらなんでも信長方も歩哨くらいは置いていたと思うのですが。 どうもこの辺りが腑に落ちません。 戦国史や信長に精通しておられる方、ご意見を聞かせて頂ければと思います。 宜しくお願い致します。

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  • komes
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回答No.4

確かに疑問をいだかれるのは無理ありません。 しかし明智軍は夜陰であるので静粛を厳重に命じていた筈で、京都市中に通報されるのを恐れ、先発部隊には途中であった市民は誰彼なく殺すよう命じていた位といいます。 また包囲は直接本能寺に近づく事なく、遠くから絞り込むように接近する方法をとり信長本人の脱出路を完全に断つ配慮をしていたとおもいます。 襲撃部隊に1万数千もの全軍を当てる必要はなく、最も信頼出来る部隊をあてるのでせいぜい数千人で包囲したのでしょう。 また本能寺という城攻めですから指揮者以外乗馬の必要なく徒歩の兵が静粛に行動したと思います。 従って戦闘開始までの騒音は最小限度以下であったのでは。 鎧の着用にはかなりの時間がかかるのが普通ですから信長側の兵士は平服か寝間着くらいの防戦だったと思われます。 確かに明智の謀反は信長の想定外でその備えは皆無でした。

option-nfa
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 お礼が遅れまして申し訳ありません。 ん~、そうですね。 信長への叛意を知っても尚、粛々と行動できる 信頼の置ける特殊部隊のような兵が先行して攻撃の手筈を整えていったのでしょうね。 やはり信長方が明智軍の進軍の音に気付いた時は手遅れということで落ち着きそうです。 ありがとうございました。

その他の回答 (3)

回答No.3

軍律が非常に厳しかったといわれる信長軍 騒いだりしたら大目玉 (夜はみんな寝るは よほど治安のいい時代ということ 戦国ではねありえないでしょう) いついかなるときも24時間体制の人はいたはずですので 広大な中の一軒やでなくとも 12000人もの軍勢がバババと突撃疾駆したわけではなくてもわかっていたとおもわれますよね 結構早い段階でわかったとおもいますよ  襲撃に参加した亀山の侍の証言(本城惣右衛門覚書)がありますがこのひと二人ほど首をとって褒美に槍一本もらっていますね 家康を打つといわれたようですね(家康の手勢は少ない) 本能寺もみんなが知っていたわけでもありませんし 本能寺の前に京都所司代の村井さんが住んでましてこぜり合いの音で出てきて 村井さんはここに信長がいると知っている 兵のおおくは家康がおると教えられている そんな状況 こりややばいここはもうだめ信忠のもとへと襲撃の兵とごちゃまぜになりながら(兵たちのおおくは信忠を遣るとも妙覚寺もどこかわからない) 兵隊のおくは信長(上様)をころすなんて夢にもおもってなかった 実際なぞだらけですよね 結果の検証とその後指示を仰ぎたくとも   光秀(現場監督)さえどこにいるのかわからないし

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質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そうなんですよね、必ず警戒に立っている兵士は居たはずなんですよね。 恐らくは一万を超える軍勢が、日中より生活音の少ない未明~暁の頃を移動するのに気が付かないはずがない。 と、単純に思ったわけです。 tasukarimaさんが仰られているように、実際は謎だらけなのですが、 自分の中で、ある程度筋の通ったシナリオを想像できればと思い質問させて頂きました。 ありがとうございました。

  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.2

>手遅れになるまで進軍に気がつかなかったのでしょうか? >馬具や甲冑の音などで気付くことは無かったのでしょうか? 本能寺近辺に限らず、軍馬の音・進軍の音など色々と聞こえていたようです。 然しながら、音だけでは、どの軍又は支配下にある軍かは判断出来ません。 都の治安を守っていた部隊(と言っても、数百人単位)、信長長男信忠の(妙覚寺周辺の)軍勢の音かも知れません。 また、都へは中国攻めの秀吉援軍を命じられた光秀の軍勢もいます。 信長側としては、気にしていなかったようですね。 また、本能寺は六角通り・西洞院通り・蛸薬師通り・油小路通りに面した広大な境内をもっていました。 境内では、案外静かな状態だったようですよ。 その境内に、四方に堀(幅6メートル、深さ1メートル)を設けた御殿を建て、そこに信長は休息しています。 信長も、当初は、光秀軍が出陣に馬揃・挨拶に来た程度に考えていたようです。

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質問者

お礼

回答ありがとうございます。 やはり信長は音が聞こえていたとしても、気にも留めていなかったのでしょうか? >都の治安を守っていた部隊(と言っても、数百人単位)、  信長長男信忠の(妙覚寺周辺の)軍勢の音かも知れません。 →明智方の軍勢は通説では一万三千とも記されている大人数で  先発・後発など分かれて進軍したとして、  多少兵力を少なく見積もったとしても数千単位の大人数だったと考えられます。  妙覚寺の信忠の軍勢も五百程だったと記されており、  数千の人馬が動くのと、五百程の人馬が動くのとでは  顕著に音の違いが感じられると思うのです。 ご回答頂いたのに揚げ足をとっているようで申し訳なく思います。 ありがとうございました。

noname#104804
noname#104804
回答No.1

歴史に精通している訳ではありませんが、聞きかじった事を少々・・・といいつつ長々になり・・・。 質問者さまの書かれた通り、諸説あるとはいえ、ある程度の軍勢に囲まれるまで、警備の武士をはじめまるで気が付かなかったというのは如何にも腑に落ちませんよね・・。 この話の元になっているのは、「信長公紀」という本にあり、信長後に天下をとった豊臣秀吉のもとで書かれたため、秀吉が主君の仇である明智軍を信長家臣団の中で一番に破り、信長後の覇権の後継者となったことを正当化する性質があるとかで、どこまで史実に正確かというのはビミョウらしいです。(一説には、秀吉は明智光秀の謀反の情報を事前に掴んでおり、各地で交戦している柴田勝家ら有力家臣が、この情報に接しても、すぐには引き返せないと踏んでいたとか) 話が逸れてしまいました。 明智軍の進軍の音についてですが、信長側は中国で戦をしている羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)軍への援軍として立つ明智軍が、馬揃え(今でいう閲兵でよかったと思いましたが)のため、本能寺にくると伝わっていた為に、不審に思わなかった、という説もあるそうです。 また、信長最期の地と言われる本能寺ですが、ただの寺ではなく、信長の京都滞在中の居城とすべく城砦化されていた、と近年の研究で明らかになったとかいうのをTVでみた気が・・・。

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質問者

お礼

回答ありがとうございます。長文大歓迎です。 昨年、本能寺の発掘作業で資料が出土したみたいですね。 非常に興味深いところです。 ありがとうございました。

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質問者

補足

ご回答頂いた中で新たに何点か疑問が浮かんだのですが、 ・馬揃えの下知は実際あった(と、思われる)のでしょうか? ・仮に馬揃えの命令があったとして、戦国期の馬揃えとは全軍を率いて行うものなのでしょうか?  (かなり広かったと言われる本能寺ですが、一万を超える兵馬を収容できたのでしょうか?) ・軍勢が本能寺に近付いた時に、歩哨が明智方の軍勢を見て臨戦態勢とは気が付かなかったのでしょうか?  (弓に弦を張っている、火縄に火が付いている、槍・刀が鞘に納まっていないなど) ・襲撃時刻は未明~早朝といわれていますが、そんな時刻に馬揃えを行うものなのでしょうか? …ドンと質問が増えてしまいました。 上記につきまして何か情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、 お知恵を拝借できませんでしょうか? ここまで補足をしておきながらなんですが、 飽くまでも「明智方、本能寺包囲時の音」を主題として留意して頂きたく思います。 宜しくお願い致します。