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信長と信忠の逃亡の理由とは?
- 本能寺の変で信長と信忠がなぜ逃げなかったのか疑問です。
- 明智軍が本能寺を包囲しても攻撃を遅らせたため、脱出する機会はあったはずです。
- しかし、信長と信忠はなぜ逃げなかったのでしょうか?
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あなたは知ってて聞いている気がするけれど・笑、一応知らんぷりして回答しますと、信長は本能寺を取り囲んだ軍勢が明智勢であることを知ると「是非もなし(しょうがない)」といったと信長公記にあります。 この話は太田牛一が取材して当時逃げ出した女中だった女を探し当てて直接聞いたということですから、私は太田牛一が創作したという可能性は低いと思っています。いかにも信長らしい一言ですしね。 この「是非もなし」にどんな意味があったかはいかようにも解釈できそうですが、私は「光秀ほどの優秀なヤツなら、この期に及んで自分を討ち漏らすような間抜けはしないだろう」という意味も含んでいたのではないかなという気がします。 誠仁親王が逃げたのは、黒幕が朝廷だったら逃げられるってことにはなりますよね・笑。また有楽斎が脱出できたのはもしかしたら意図的だったかもしれませんね。有楽斎が教養人である一方で政治家(戦国武将)としては何の役にも立たない(つまり無害な人物である)ことを知っていて、生かしても害にはならないし、死んだらちょっと可哀想だなって思ったかもしれません。実際、その後の旧織田家家臣団と家康を巻き込んだ一連の後継者争いの中で有楽斎は良くも悪くも誰にも利用されませんでした。
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- jkpawapuro
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本能寺の変後光秀は信長の首を発見できず、それが痛手となって山崎の戦で負けてますよね。おそらく信長が考えたのはそれでしょう。 光秀相手に逃げ切れる可能性は低い、下手に逃げて失敗したら首を取られる、そして自分の首を渡すことは織田の天下が終わり明智の天下の幕開けを意味してます。 織田の天下を守るために何より大事なのは光秀に自分の首を渡さないこと、そう考え逃げなかったのだと思います。 信忠が逃げなかったのがいかにも失敗ですねえ、正直何を考えていたのかわかりません。まあでも信忠も難しいですけどね。西の近江にむかうルートはどう考えても明智に封鎖されてますし、間道を伝い東の大坂向かっても弟に殺されるリスクさえあります、南の伊賀にむかうもわずかな供回りで伊賀は自殺行為、北は明智領、逃げようにも割りと詰んでますけどね。 おそらく信長としては住吉で四国出征軍を徴集中の信孝・長秀が敵をとり跡を継いでくれると計算したはずです、ちょうどその二人が岸和田に出かけていて軍を離れていたため軍が四散してしまったのが織田家の運の尽きです。
お礼
信忠に限って言えば一緒に宿泊していた誠仁親王を盾にしてでも逃げる事はできましたよね 明智は少なくとも皇族(まして誠仁親王は皇太子)に手を掛ける事は絶対にしなかったわけですし 息子の三法師は逃がしたんだから どうにかなったと思うんですが 残念ですよね
- kitsunetoneko
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本能寺の変の時には,当時の京都周辺は,明智光秀氏の軍勢で,ほとんど,封鎖状態だったのではないでしょうか‥‥‥明智光秀氏も,織田信長氏の,家老のような立場でしたので,軍略には,長けていたと思いますし,多勢に無勢で,織田信長氏が,本能寺から逃げ出しても,誰かに捕まって,明智光秀氏の前などに,引きずり出されたり,誰かに,惨殺されたりするのは,恥ですし,明智光秀氏の軍勢相手に,奮戦しながら,近くに居たらしい,息子さん(織田信忠氏)の援軍を待つしか,方法が,なかったのかもしれません..結局,多勢に無勢で,織田信長氏の本能寺は,炎上し,織田信長氏は,そのまま焼死されたのか,死体は,見つからなかったそうですが,腹心に,突然,裏切られ,襲われたら,織田信長氏も,逃げることを,諦めていたのではないでしょうか‥‥‥桶狭間の戦いで,奇襲攻撃を,実行し,今川義元氏を討ち取った,織田信長氏ですから,何か運命的なものを,感じたのかもしれませんね‥‥‥ドラマの影響が強いですが (^^; 息子の織田信忠氏(幼名;奇妙)も,父親の背中を見て育った,若武者ですから,忠臣として,急襲された父親を,助けようとするのが,当時は,普通だったのかもしれません..結局,多勢に無勢で,織田信忠氏も,息子の,三坊子を,逃がすのが,やっとだったのかもしれません..織田長益氏は,何か,京都関係者のコネなどが,あったのかもしれませんし,よくわかりませんが,織田信長氏と,息子の信忠氏の,不仲説とかは,聞きませんので,息子さんは,父親の為に,明智光秀氏の軍勢と,戦ったのではないでしょうか‥‥
お礼
ありがとうございました
- yougamaster
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金ヶ崎で浅井、朝倉軍に挟み撃ちにされたときは、馬にのって先頭をきって逃げ出したということがありましたよね。 逃げることができるという確証があれば逃げを選択したのかもしれませんよ。 しかし緻密な明智光秀のこと、本能寺から出られたとしても、近畿地方一帯は明智の手がまわされていて、信長公は到底逃げ伸びることはできないと判断したのではないでしょうか? そうなると、武士として次に考えることは「恥ずかしくない最期を」となったのではないでしょうか? 逃げている最中に捕まって首をはねられたなんてことになればそれは「武士の恥」と考えたのかもしれませんね。 信忠公も十分な手勢を率いてはおらず、明智相手に畿内からの脱出は難しいと判断したかもしれませんね。 タイムマシンでもあれば本当のところはどうであったのか?見てみたいものです!
お礼
ありがとうございました
- go_gohide
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信長は勝つか負けるかのどちらかを選択する人でした。中途半端な事を するのを極端に毛嫌いをするような武将でしたから、勝つか負けるか 戦った上で自害を決めたんだと思いますよ。 最初から逃げるつもりであれば戦ったりしないでしょうし、日本制圧 を目指していた自分が部下に頭を下げたり、逃げ出したなんてプライドの 高い信長には出来なかったんでしょう。信忠も信長の息子として 逃げ伸びるという選択は無かったんでしょう。 戦国の世の中はそういうものだったんでしょうね
お礼
ありがとうございます゜
お礼
有楽斎が逃げられたのは意図的でしょうか? 光秀は信長・信忠はもとより 信孝・信雄までも殺そうとしてます 有楽斎は無能とは言え「織田家」の一員であり 信長の実弟です 生かしておいて誰かに利用されたらそれこそ光秀にとっては痛恨です(のちに秀吉が三法師を利用して織田家を乗っ取ったように) もしかしたら有楽自身も本能寺の変を事前に知っていたのでは?と思ってい ます(光秀と示し合わせてスパイみたいな行動をしていたため脱出の時に殺されなかったのだと)