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満州事変の評価

満州事変といえば石原莞爾を連想しますが、満州事変の評価はいったいどうなんでしょうか? 国際連盟を脱会してしまうマイナスの面もあったと思いますが、日本の国益を考えれば、やっぱり満州事変は成功だったのでしょうか? 何卒よろしくお願いいたします。

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  • tanuki4u
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回答No.2

評価する期間と、その後の出来事による変化によって評価は変わってくる。 オリジナルの石原完爾の構想では、満州を押さえて、アジアの代表の大国にすることであった。 大国とは、彼の頭では軍事力とその軍事力を担保する産業力である。 満州で産業力の基盤を作り、その後は中国本土へは出ないという構想。例えていえば、アメリカがメキシコからカリフォルニアを戦争で奪い、大陸国家としてイギリスを追撃したような物です。 1848年に奪いました。 1849年にゴールドラッシュ ちなみに、戦前に航空エンジンに耐える良質な石油はカリフォルニア油田の物だけだったそうだ。 戦後の流行語に「もはや戦後ではない」がありますが、これは1956年の経済白書ですが、この場合の戦後ではないというのは、戦前のもっともよい経済だった1935年の水準を超えたという意味です。 1929年の世界恐慌によって世界中が不況になりましたが、日本は30年代前半に「いち早く回復」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%81%90%E6%85%8C#.E6.97.A5.E6.9C.AC 経済史の教科書には、高橋財政が・・・と書いてありますが、31年の満州事変によって、軍事という有効需要が発生し、回復したことは否定できない事実です。ただ、37年からの日支事変勃発により、また経済は劣化しますが。 以上の考察から 30年代前半においては、計画経済のソ連以外では数少ない経済回復国家であった点では、満州事変は高く評価できる。 ただ、満州事変の成功事例が、僥倖であることを認識できず、無謀な拡大をしたことにより、元も子もなくした。というようなことではないでしょうか。

rin00077
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >1929年の世界恐慌によって世界中が不況になりましたが、日本は30年代前半に「いち早く回復」--- 確かにそのとおりですね。 世界恐慌による欧米の経済ブロック化に対する、日本の日満ブロックで、満州では石炭をはじめ他のものは良くとれたようです。 しかし石油だけは一滴もとれなかったため、その後戦争へ。。。 まことにありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • teccrt
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回答No.1

日本が英米との対立を深める決定的な出来事でしたので、やはり第二次世界大戦の敗戦につながる出来事として、高い評価はできないのではないでしょうか? 確かに、満州事変から満州国建国までは手品のような鮮やかさでしたし、厭戦ムードのイギリス・アメリカとも、満州国建国だけで済めばぎりぎり戦争は避けられたかもしれません。 しかし、この鮮やすぎる成功が仇となり、結局その後陸軍は暴走し、世論はそれを支持し、対中戦争への流れを石原莞爾本人ですら止められなくなってしまったので、ずるずると対英米戦に突入せざるを得ないところまで突っ走ってしまいました。 この流れを石原莞爾は先に読み通せ、というのは無理難題にしても、結果としてこの流れの大きな原動力になったのは満州事変ですから、日本を不幸のどん底に陥れたきっかけという評価にならざるを得ないと思います。

rin00077
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >しかし、この鮮やすぎる成功が仇となり、結局その後陸軍は暴走し、 確かにそうですね。 満州事変の成功における石原莞爾の影響は、武藤章などの後輩に受け継がれて、結果的に暴走になってしまいましたね。 むろんその頃、石原氏は不拡大方針でしたが、歴史は難しいものです。 まことにありがとうございました。

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