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記憶という脳の働き、その2

哲学のカテゴリーで、このタイトルの質問をしているので、再度ここで質問させてください。 皆様の回答に接していたら、意識できる記憶と出来ない、あるいはしなくて良い記憶、について知りたくなりました。前回、回答していただいた方、また他の方の知識がいただけたらうれしく思います。 ruehasさんの回答に、意識する記憶としない、あるいはできない記憶についての記事がありましたが、具体的な例など挙げて説明してただけると良いのですが。 よろしくお願いいたします。

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  • ruehas
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回答No.12

こんにちは。 #9です。回答をお読み頂き、ありがとうございます。 >一回目の回答に、感覚と記憶についてありましたが、感覚を通して記憶が発生する。という受け止め方でよろしいでしょうか。 前回にご説明致しました通り、記憶とは「入力情報に判定を下すための基準」として用いられるものです。 我々の脳内の情報処理といいますのは、 「入力―中枢処理―結果出力」 という経路で行われます。 ですから、中枢系が「外部入力」に対して判定を行う場合は必ずや何らかの「内部情報」が照会されなければなりません。このために再生される情報が「学習記憶」です。 我々の脳内で「記憶の検索」といいますのは「神経回路の選択的反応特性」によって行われます。 「記憶回路」とは同じ対象から同時入力された並列信号によって一塊の神経細胞同士の「横の繋がり」が強化・固定されたものです。このため、学習記憶回路といいますのは必ずや「過去に入力された並列信号」と類似する特定のパターンに対してだけ活性化するという「反応特性」を持っています。 我々の脳内で無数に保持されている情報の検索といいますのはこの記憶回路の反応特性によって行われるものです。従いまして、学習記憶の再生といいますのは、原則的には感覚情報などの外部入力に伴って発生するものと考えて頂いて構わないと思います。 >一回目の回答の中で、基準という言葉を使っていますが、‘比較する’という要素がこの言葉にはあるように思います。比較という作業は理性の分野かと思えるので、要素と言う表現の方がより適当ではないでしょうか。些細なことですが。 我々はしばしば判断や行動の結果に対して理性的・道徳的といった評価を行います。ですが、ここで理性とは「比較・判断」の作業であるというのは、これは明らかに誤った解釈です。 国語辞典を引いてちゃんと確認して下さい。 「理性とは情動の作用を受けない判断」 と定義されています。 我々の脳内で「情報の比較」とは「中枢神経回路の選択的反応特性」によって行われるものであり、解剖学的には以下のような三系統に分かれています。 「本能行動(生命中枢)」 「情動行動(大脳辺縁系)」 「理性行動(大脳皮質)」 このように、比較・判定という作業は特に理性行動のために行われているというわけではありません。これらの中枢が入力情報に対して判定を下すということは、ここではそれぞれの有する選択的反応特性による情報の選別が行われているということです。 では、ここで「それは情動反応を介さない判定である」という国語辞典の定義を適用しますならば、理性行動とは即ち大脳皮質の司る「計画行動(意識行動)」というのが生理学的な解釈ということになります。ならば、その結果が理性的であるかどうかというのはその社会の文化的価値観が決定することであり、それを科学的に分類するということはできません。我々が入力情報に対して善悪の判断を下すことができるのは、それは飽くまでこの社会の価値観(判定基準)を学習したからに過ぎません。ということですので、学習記憶というのは要素ではなく、それは後天的に獲得された「判定の基準である」というのが最も適切な表現と思われます。 >二つ目は二回目の回答のなかで、利益、不利益というと言う表現をされています。これは損、得というイメージが強いので、理性の働きではないかと思えてしまうのです。 これを質問者さんの個人的なイメージで解釈してはいけないです。 まず、脳内には「理性の働き」といった機能は存在しません。 我々の脳が判定を下すことのできる入力情報といいますのは、 「報酬刺激」と 「嫌悪刺激」 この二種類しかなく、そして、この判定は「生物学的利益」に従って行われるものであるというのが生物学の一般的な認識です。 只今述べました通り、それが理性的であるかどうかというのは価値観に基づく結果の評価でしかありません。では、我々の脳内で実際に下されるのはその結果に対する「利益・不利益」の判定です。 我々動物はこの判定が下されることにより、 「報酬刺激:接近行動」 「嫌悪刺激:回避行動」 この二種類の行動選択が可能になります。 ここで、ちょっと意外に思われるかもしれませんが、実は大脳皮質にはこの利益・不利益の判定を下す機能というものがありません。これがどういうことかといいますと、我々の脳内では大脳皮質には行動選択の決定権というものは一切与えられていんないということです。 これに対しまして、本能行動と情動行動では利益・不利益の判定基準が予め決まっています。ですから、基本的には我々動物はこの判定に従って全ての行動を選択しているわけですが、ここでは入力がありさえすれば直ちに反応が発生してしまいますので結果の良し悪しを事前に判定することができません。 では、大脳皮質の役割とは過去の学習記憶を基に未来の結果を予測するということです。そして、ここには価値判断の機能というものがありませんので、予測された未来報酬に利益という判定を下すのは大脳皮質ではなく、大脳辺縁系の情動反応です。この判定が下されることにより、我々は初めてより価値の高い未来の結果を選択することが可能となります。 このように、我々の脳内に「理性の働き」という判定基準はありません。脳が判定を行うのは飽くまで自分にとっての利益・不利益です。そして、ここで過去の学習体験を基に未来の結果を予測することができるのは唯一大脳皮質の「理性行動(計画行動)」だけということになります。 >感情は好きか、嫌いかといった事、自分にとって都合がよければ受け入れられる(受容)、都合が悪ければ受け入れられない(拒否)という反応はあるでしょうが、それを損得という言葉には置き換えにくいように思えるのです。 只今述べました通り、自分にとって都合が良い、悪い、この結果を学習し、利益・不利益の判定を下しているのは大脳辺縁系の情動反応です。そして、我々はこれに従って「接近行動」か「回避行動」の何れかを選択しているわけですが、この判定基準といいますのは「生物学的利益の獲得」という大前提に従って獲得されるものであるため、利益と不利益が逆様に学習されてしまうということはまずありません。同時に、我々が動物である以上、ひとたび不利益と判定されたならばそれに対して接近行動が選択されるということは間違ってもありません。 このように、我々動物の脳といいますのは生物学的利益に反する行動は選択できないように作られています。では、このような基本的な判定基準が何も与えられていなかったとしますならばいったいどうなるでしょうか。利益・不利益の判定に従うならば動物は必ずや生き延びようとします。ですが、ここに善悪や損得といった異なる判定基準を持ち込むならば、あろうことか自殺の決行もまた可能ということになります。 このような用語は生物学でも心理学でも一般に用いられるものであり、これまでにご説明致しましたのが概ねその捕らえ方です。そして、この「生物学的利益」という判定基準が存在するために、果たして我々の行動には一貫した秩序が保たれています。

yy8yy8az
質問者

お礼

回答ありがとうございます。何度も何度も読み返してみます。理解できたかどうかは、後ほど。本当にありがとうございました。

yy8yy8az
質問者

補足

私の頭が至らないので、あと数回読んでみることにします。前回よりは理解が進んできました。丁寧な回答ありがとうございました。これで質問は終了したいと思います。

その他の回答 (11)

  • ebinamori
  • ベストアンサー率21% (96/439)
回答No.1

なにやら難解な文でしたが、私なりの解釈を書いてみたいと思います。 「意識する記憶」・・・論理的思考・判断の材料となるもの 「しない、できない記憶」・・・感情の材料となるもの 前者は、たとえば「駅まで最短時間で到着する経路」を考える場合などです。 これは、以前に見た地図や過去の経験がなければ答えは出せません。 次に、後者は「感情」そのものと言っていいでしょう。 「うれしい」と感じるときは「うれしいからうれしい」ですよね? もちろん理由はあげることは可能でしょう。 しかし、その時用いられるのは「意識する記憶」です。 うれしいという感情が起きるプロセスは意識できません。 もっとかみ砕くならイメージとしては 「右手を上げる」ということは意識できても 「筋肉をどう動かすか」はわかりませんよね? 全体を見ることができるけれども部分を見ることができない。 過去にあった出来事こそが一つ一つの筋肉です。 そういう筋肉が複雑に絡み合い、作用し「うれしい」という事象が出来上がります。 しかも、感情を構成する要素は筋肉ほど単純ではなくもっと複雑です。

yy8yy8az
質問者

お礼

お礼の返事、ちょっと待ってください。疲れちゃいました。

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