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クリスチャンとは、聖書をベースに知的パズルを楽しむグループですか?
聖書を拾読みして、クリスチャンとは、以下の様な人々ではないかと思いました。 聖書には、荒唐無稽な話が盛り沢山あります。これらのお話は、フィクションです。クリスチャンの方々は、この架空のお話を本当のお話と見做します。そのためには、かなり裏読みをしなければなりません。この裏読みを競い合う、つまり聖書をベースとし、知的パズルを楽しむ趣味のグループではないかと想像しました。 出来れば、クリスチャンの方、正直な意見をお願いします。クリスチャンでない方のご意見もお願いします。尚、この件で議論するつもりはありません。
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- ri-zyu
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キリスト教徒では有りませんが。 宗教の根本は「死の問題」「苦の問題」の解決だと思いますが 果した「生死の問題」「心の問題」がtm-hiroshi様がおしゃってる様に科学的に理屈で解決が付きますでしょうか・・・。。 禅の言葉で「不立文字」は有名ですが、「生死の問題」「心の問題」は科学的に理屈で解決が付かないと私などは理解しています。文字は理屈です、こうで、こうだから、こうなんだを否定(不) 真宗の親鸞などは「全てをお任せする」=「絶対他力」と申しております。 よくよく考えますと人間は「何時」「何処」「度の様に」で死ぬか判らないですよね、理想は有るのでしょうが。 キリスト教 聖書は荒唐無稽な話が盛り沢山あります 特段問題はないと思います「信仰は理屈ではない」と思いますから。 枝葉はどうでも良いのであって「本質」さえ「気ずけば」「自覚すれ ば」。 人間の智が「心の問題生死の問題」を解決出来ると思うのは愚かな事だと思います。 苦悶苦悶苦悶、思案思案思案の末、智を超えないと宗教は。 浅学ですが。
No.11です。 余計なつけ足しです。こういう話の場合 多少は お涙ちょうだいの調子をも かもし出さないと はなから蔑まされるというのでも なんですから 余計なつけ足しです。 主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われ る。(『詩篇』34:18) きれいでしょう!? そして 次の箇所に説明をつけ足します。 イエスは彼らに言われた。 ――あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのです か。 家を建てる者たちの見捨てた石。 それが礎の石になった。 これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議な ことである。(詩編118:22-23) (マタイ福音21:42) 石造りの家のばあい 土台のための石を見分けて いい石をえらぶそうですが これはだめだと言って《見捨てた石》があるわけです。これが《礎の石になった》と言っています。
お礼
面白いお話、ありがとうございます。
- cabbage8
- ベストアンサー率47% (10/21)
This question and most of the answers that follow are most tasteless, senseless, and ignorant. I truly regret that I answered in a respectful and truthful manner. 皆さんそれぞれ感じたことを言いたいように言っていらっしゃるので、私もこれくらいは言わせていただきたいと思います。
お礼
I appreciate your respectfull and truthful manner.
- siyahqalam
- ベストアンサー率26% (13/50)
私はクリスチャンですが、 「聖書をベースに知的パズルを楽しむ趣味のグループ」とは無縁です。 毎週日曜日の礼拝に通う人は非常に少ないため、仕方ないでしょうが、 (日本人クリスチャンの人口は約100万人、つまり全人口の1%未満) どうもキリスト教というと「聖書ありき」という誤解があるようです。 もちろん聖書は大事なのですが、まず何よりも礼拝だと私は思います。 聖書は神の言葉ですが、読むだけで礼拝しないなら、単なるお話です。
お礼
すいません。間違っていました。クリスチャンは、”聖書ありき”と思っていました。 実行が伴わないと、信者ではないと言うことですね。
- taco8ch
- ベストアンサー率7% (11/146)
由々しきことには、 そのパズルの解答書が いまだに示されないことでしょうかね。 解答のないパズルと、 解答はあるけどなかなか解けないパズル。 どちらのパズルがクリスチャンの好みなのだか? あ、酔ってるね。これは。
お礼
面白いお話、ありがとうございます。
せっかくなので キリスト教はファンタジー。 終わり。 前に散々、仏教を批判したんだけど 世の中って不思議だよね。 阿弥陀仏は想像の産物というと 散々叩きのめされて冷酷な人間といわれるけど 神は想像の産物と言うと 理性的な人間になるんですから。 まぁ、そんなものですかね。 質問者様へ。 ファンタジーにムキになっても仕方ないと思いますよ。
お礼
分かりました。忠告ありがとうございます。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
No.8です。 >あなたのご意見によると、キリスト教は、共産主義に似ていますね? 共産主義ともちょっと違う。 が、似ていますね。 以前、カトリックと、ユダヤ教のカルトだったクムラン宗団の違いを考えたことがあるんですね。 両方とも厳格な階級制度(ヒエラルキー)が存在します。(しました) 両方とも出家信者は財産を教団に捧げなければならなかった。 「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」は、クムランの教え。 尚 クムランはキリスト教が生まれるよりずっと前から存在していた。 キリスト教もクムランの終末思想を持っており、最後の審判を信じていた。 (キリスト教が生まれるずっと前から、クムランでは最後の審判で天使が真っ二つに分かれ最終戦争をすると信じていた。) ちなみに、この話はバビロニアの宗教の神話が元ネタ。 ユダヤ教はバビロニアから分離した宗教なので、そうなるわけです。 クムランとキリスト教の思想はそっくりだが、詳細になると違う。 ということは、ユダヤ教がバビロンの宗教を手本にして宗教を形作ったように、キリスト教もクムランから破門されたかなにかした人たちが造った宗教じゃないか と思えるんですね。 (インド方面の宗教では破門された人たちは自分達をナザレと呼んでいたようで、破門後別な場所に身を寄せて住んでいたらしいです。 で、クムランを破門された人たちも自分達の事をナザレアと呼んでいたが、それはインド方面のを真似して自分らをそう呼んでいたらしいです。 インド方面の破門された人たちは、自分達を丸太となんとか と表現しており いわゆる大工 みたいな言い方してたらしいです。 ってことでイエスが大工だったってのは、職業が大工って意味じゃなくて、そういう概念を聖書作家は使ったのを、後の人が大工で生活費を稼いでいた神様 って勘違いしたみたいです。) で、キリスト教はユダヤ教から派生したというより、ユダヤ教のカルトのクムランから派生し、なおかつ土台はクムランだが、その上にいろいろな宗教のパーツを寄せ集めて建造物を作ったみたいです。 いろんな宗教から部品を集め作ったのが、キリスト教だと思えます。 だから、いろいろな宗教が混在しているので、そのほかの宗教のことに詳しくないと、何故イエスが死ぬ間際に「神の御心のままに」と死を受け入れたのか理解できないんですね。 ユダヤ教でそれを探してもわからない。 他の宗教から拝借しているから、他の宗教ではどういう意味かを知らないと。 でも、それよりもっと 根本的な原因は何か教えましょうか? どうして言葉遊びに始終して、終わりが無いのか 教えましょうか。 言語が原因です。 『ヘブライ語は何より先ず抽象概念を避ける言語であり、より正確に言えば、抽象化の概念不在の言語なのである。 律法の語彙は具体的で、直接的で、いかなる奸策もなく、「力」であり、イメージ・ソース(=自然) がありうる限り理解可能なものなのである・・・・ これに対してギリシャ語はすでに抽象概念にみなぎっていて、結果ギリシャ語の思考者達、ギリシャの哲学者達は正確には何をイワンとしていたのかを、人はかつて、今でも、そしてこれからも問い続けることができる・・・・ さらに、ギリシャ語という師からかなり刺激を受けたラテン語は、 物のレッスン に先ず第一とするヘブライ語クラスに入れば、およそ不出来な生徒ということになる。 ヘブライ語が、指し示す もの と一体であることを自負する言語であるとすれば、ギリシャ語は存在の射程から開放された記号システムの中に抽象概念、すなわち、指し示すものとの 異体性 を導入しているのである・・・・ だから 詭弁家 はギリシャ語的でしかありえない。 ヘブライ語的見地からしてみれば 詭弁家は 嘘 つ き でさえなく 、明らかに 愚 者 なのである。』 ちなみに新約聖書はギリシャ語で書かれた。 おわかりになったでしょうか。 どうしてキリスト教信者が そのゲームにはまったのかが。 哲学だから。 哲学ってギリシャで発生したわけですが、それはギリシャ語がそういう抽象概念に満ち溢れ終わなく議論できる言語だから。 さて、「神の義により迫害されたものは幸いなり」って意味不明ですよね。 確かに捉え方によっては、イエスは神を死ぬまで擁護したため殺されたかのようです。 で、イエスに続けと、文盲の人をあおり彼らに国家に反逆させ、彼らは各地で暴動を起こし、社会を不穏に陥れていたので、政府は彼らを政治犯として捉えられ、その当時の政治犯の処刑は十字架刑と決まっていたので、十字架刑に処していた。 知ってました? ローマには死刑方法がいろいろあって ローマに対しする政治犯は十字架刑だったんですって。 しかも、十字じゃなくてTだったみたい。 しかも、これから死刑になる人は十字架じゃなく横木を担いで歩かされていたんですって。 ですよね 短い木じゃなきゃ 無理ですよね。 あ 思想を物語として表現するってのは今の始まったわけじゃないので、別に架空のエピソード尽くしても、思想家が何を理想として物語を書いたかわかればいいんですが、、、、 で、ローマ社会に不穏を起こし、政治犯として処刑されていったキリスト教徒たち。 キリスト教側では「義のため迫害されたものは幸いなり」として、迫害の歴史を語っているようですが、、、、、 「あの~ イエスはキリスト教徒じゃありません、その頃キリスト教なんてありませんでしたし、イエスは律法の一字一句たりともこの世が終わるまで消えないと豪語したユダヤ教原理主義者でしたから。」と私は言いたい。(少なくとも聖書作家はそうだったみたい) なにより、一字一句たりともこの世から消えない という以外、他の言語に変えてはいけなかったんですよ。 ヘブライ語の文字を削って、ギリシャ語に書き換えた結果、翻訳ミスが起こり、「神の義のために迫害されたものは幸いなり」って元の意味とは全く違う意味の文章に変化した。 聖書作家が聞いたら「はぁ?」でしょうね。 その誤訳が無ければキリスト教が生まれてもすぐ死んでいたとしたら、、誤訳した人 功労賞ものですね。 訳した人も「?????」だったでしょね。 じゃあ ???? なら自分の訳に間違いがあると思うべきでしょうに。 「あなたの翻訳ミスで、みなさん間違えた言葉をイエスの言葉だと勘違いして、社会不穏を起こして処刑されていきましたよ。」 と言いたい。 正確には翻訳ミスばかりじゃなく 直訳したののも誤訳になった原因。 あ、そういえば 前こんなことありました。 聖書のことだったかキリスト教のことだったか忘れましたが、「おかしいじゃないか」と質問する投稿がありました。 史実じゃない とか そういうことを書いていたような。 で、回答者もいろいろ書いていたが 結局みんなが異口同音にAと答え、質問者も「そうですよね Aですよね」とづっと答えていた。 しかし閉める段になって、「そうですか やっぱり Bだったんですね。私が間違えていました。 私は改心しました 私は救われました。」みたいな感じの文章のお礼をしていた。 すっごく笑えました。 質問じゃなく布教活動だったんかい!です。 いやー それに気づかず私も含め何人もが真剣に考え、無駄な回答をせっせと書いた。 質問じゃないので、参考にもならないわけです。 最初から答えを持っているので質問じゃないわけです。 主張 布教だったんかい! って新種の布教活動に大笑いさせてもらったことありました。笑 こういうのは知的パズルゲームじゃなく、最初からパズルは完成しており、その人は最後に「これが真実のパズルです 皆さんご苦労様~」って へのへのもへじ を見せられ、「この紙を拝んでね~」なわけです。 「お前の書いた絵 踏んでやる~ 火つけてやる ひっきゃぶってやる~ 」とそこで怒るのは、大人気ないですよね。笑 さて、どうしたもんでしょうね。 少数が「神とは 人間とは」を考えているその周りで、大勢の子供が聖書を投げて遊んでいる。 「うーーーん、ぼくーー 一応君は信者ってことになっているから、投げて遊ぶのはやめた方がいいんじゃないかなー」 「なんでー これって投げて遊ぶものじゃないの?」 「違うよぉ 読んで感動する物語だよぉ」 「へー でも食べれないのなら投げて遊ぶ以外使い道ないじゃん」 イエスも言ったじゃん シナゴークで説教を聴かず、はしゃぎまわり説教の邪魔をしまくる子供たちを追い払うなって。」 「うーーーん うーーーん まいった!」笑
お礼
kigurumiさん、物知りですね。貴重な情報、感謝します。 イエスが、新約聖書を読むと、びっくりするかもしれませんね?
- Roman0
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> 卑下したり軽蔑しているのではありません。キリスト教の > 歴史なんて知りません。ただ、感じたままを述べたもので > す。それが批判の対象になるのですか?よく分かりません > ね。 「感じたまま」であることと、「卑下したり軽蔑している」ということとは全く関係ありませんね。感じたままかどうかとは全く関係なく、「卑下したり軽蔑している」と受け取られる発言は、批判の対称になります。その程度のことも理解できないのでしょうか。 また、歴史を知らないで長い歴史のあるものごとに発言するのは、単なる勘違いをする可能性が非常に高いものです。まず、歴史を学びましょう。発言したいのなら。 > 論文や公文書が、どんな結論か知りません。 であれば、学びましょう。発言するのは、それからです。 > その内容は、科学的で、万人が納得できるものですか? あなたの「感じたまま」よりは、はるかにそちらに近いですね。
お礼
貴重なご意見、感謝いたします。 でも、今までの情報では、私の考えは変わりそうもありません。 ただ、気にかかるのは、RomanOさんが挙げられている”論文”です。どんな内容か、興味あります。今後、調べてみようかと考えています。 この分野の論文は、年に何件ぐらい発表さてているのでしょうか。10件ですか、100件ですか?あまり多いと短期間で処理できません。その場合は、スクリーニングを考えます。 スクリーニングの条件として次の項目を考えています。 1.論文発表の際に、レフリーはいるか 2.公に認められた処方を用いて、検討されているか 3.他の人が再検討して、同じ結果が得られるか ついで、スクリーニングするための情報を得る必要があります。 この分野は、過去に公表された論文の抄録がまとめられているのかしら?そうであれば、その抄録を見てスクリーニングが可能であり、そこからオリジナル論文に辿りえます。そうでないと少し厄介です。 いずれにしても、少し面白くなってきました。色々な情報ありがとうございました。 私も、暇になってきました。今後、何をやろうか、テーマ探しをしていましたが、この調査もテーマに加え、一年くらいで私の冥土の土産にまとめたいと思っています。乞うご期待。
- Roman0
- ベストアンサー率18% (118/628)
> ご意見の中で、”はるかに真剣に議論が行なわれてきたし” > とあります。その議論の結果は、何でしょうか。それらは、 > 聖書の解説に書かれているような内容とすれば、裏読み程 > 度ではないでしょうか? この部分は、意見ではなく、単なる事実ですね。 ここで私が述べている「真剣な議論」は、例えば聖書学の研究や公会議の内容を指しており、論文や公文書全集として公開されています。その内容は、「裏読み程度」では全くありません。 日本で公刊されている「解説」などは、それらを踏まえていることは残念ながらほとんど無く、現状俗流の思い込みが垂れ流されている状態でしかありません。そもそも日本語訳しか当たっていないで、日本語の単語で勝手に勘違いして読まれている話すら多いという事実は踏まえておきましょう。その程度の「解説」しかリファしていない状態で「ただ単にクリスチャンを卑下し、軽蔑視しているようにしか受け取れない」発言を公の場でする姿勢は、どうかと思いますね。 で、「実際問題、あなたの言うような「批判」が、これまでのキリスト教の歴史の中で、無かったと思っているのですか?」について言及がありませんが、どうなのですか?
補足
卑下したり軽蔑しているのではありません。キリスト教の歴史なんて知りません。ただ、感じたままを述べたものです。それが批判の対象になるのですか?よく分かりませんね。 論文や公文書が、どんな結論か知りません。その内容は、科学的で、万人が納得できるものですか?
Q-1:《聖書・・・のお話は、フィクションです》か。 A-1:そのとおりです。 Q-2:《クリスチャンの方々は、この架空のお話を本当のお話と見做 します》か。 A-2 フィクションをとおして 世の中の真実を 主観の内に捉える という意味で 《本当のお話と見做》します。 自然科学の妥当性に反する事柄を 実際の事実だと見做すとい うことでしたら その当人は その議論について証明しなければ ならないでしょう。 こういう出で立ちで 説明します。 争点のほとんどすべては 表現の問題から来ると考えます。 《楽しい我が家》というとき げんみつには 《そこに住む人たちが楽しい》のであって 《家が》ではありません。《ねたむ神・怒る神》というときは どうでしょう。神のもとにある人びとが ねたみ 怒ると《裏読み》することができます。 《イエスが水の上を歩く》というとき ドラえもんやスーパーマンではありませんが それは どう裏読みすべきでしょう。あるいは すべきではないでしょうか。そのように表現したとするなら 表現者の思いや意図は どこにあるでしょう。 今朝の新聞からは 妖怪の名前のことがわかりました。その昔 子どもに言うことを聞かせるために たとえば《ヨゴエハッチョウが来るぞ》と言ったそうです。その昔ですが 《夜声は八丁もひびく と云って大声を立てることをいましめた言葉が夜声八丁という化け物になった》(谷川健一)そうで この《化け物になる》というのが 表現の問題です。また ここですでに 擬人法も出て来ています。 つまり 《ねたむ神・異民族を殺せと命じる神》あるいは《水の上を歩くイエス》などという《おかしなことが沢山記載されています》。 ★ 例えば、有名な山上の垂訓の冒頭に「心の貧しい人は、幸いである」、とあります。なんとへんな文章でしょう。おかしいと思いませんか?。 ☆ これは どんな思いがあって イエスは語ったのか。あるいは この聖書記者は記したのか。たぶん この場合 《屁理屈》は要らないのではないかと考えます。その文字通りではないでしょうか。 《たとえ》という表現の問題のほかには――というよりも そもそもは 経験合理性を超えたところのもの・つまり非対象を なんとか 認識の対象にし言葉でも表現したいという《狂気》に発していることに まちがいはないのですが と言っても この非対象を まったく省みることなく 我れは無信仰なりと言っている人がいれば その態度も 《狂気》に近いと思いますが:なぜなら 非対象は 《有る》と断言できないと同時に 《無い》とも決めつけることが出来ないゆえですが―― ほかには 上に触れたように 非対象が 経験思考の尽きる果てのことであるように 周縁・限界・境界のことを 取り上げるという基礎に立っていることです。この基礎というのは 九十九匹よりも窓際に追いやられたその境界でさ迷える一匹の羊のほうを大事にするという大前提のことです。 ★ キリスト教徒は文盲・知的障害者・身体障害者を対象にしていた(ANo.8) ☆ というようにです かんたんには。日本でも 新興宗教の某団体は 《落穂拾い》であると形容されたことがあります。ただしこれは わたしの見るところ 社会現象としての《周縁や境界》にかかわっていますが その問題解決は これも 社会現象(生活経済の問題など)としてのそれであるようです。 つまりは たしかに《宗教》というからには 《ドラえもんやスーパーマン》を表現にて思い描くような《飛躍》があるのですが 実際には 社会的な努力としての またその糾合による勢力としての躍進や生活改善が 目的であるように映ります。 もし もしです これを言うと中傷になりますが 仮定の話をします。もし オバマ候補の以前の師匠が オバマ氏に不利な話をしたのは 対立候補の側からの圧力なり丸め込みなりによるものであったとするなら そして このことが 明るみに出なかったり 出てもゆくゆくはの裁判なりで事実に反して明らかにし得なかったりすると オバマ氏は くやしい思いになります。悔やんでも悔やみ切れないでしょう。 そのように世の中には 冤罪や中傷による落ちこぼれも 場合によっては起こります。つまり《落穂拾い》によっても 浮かばれない事例です。そういう社会の境界に追いやられ底辺に落とされた迷える一匹 このような存在様態を取り上げます。その人間について 考えます。 その結果 とてつもない飛躍が 表現として出て来ました。でも これは――このようにして わたしも《屁理屈の上手い人》の末席に連なるのかも知れませんが―― 世の中に対する《色々な屁理屈や裏読みをして》も どうにもならない境遇を 大前提に置いているからなのです。また 方針として 《権力を回避せよということではない》考えでいますが まづ権力を取ってそれから世直しだという行き方ではないようです。 ですから そのような《境界人間》という基礎に立つなら 人間一般に通用する理論が持てると考えるからです。おそらく 夢想ないし妄想であることを承知で その探究を模索し そのあと 現実の思想をかたちづくるという方針でいるのだと考えます。 ★ 聖書に示されている「労働感」も、「労働は苦しいもの・いやなもの」となっています。これもどうかと思います。 ☆ これは 同感です。 ということで ★ 聖書を議論するとき、真剣なふりをして遊んでいるのでは無いのですか? ☆ に対しては 真剣ですが 遊んでいるのではありません。でも 非常な迂回生産ですので 遊んでいるように思われると思います。 ★ もし、遊んでいるのでなく、真剣であるとすると、クリスチャンは、バカかあるいは別の意図を持ってる奇妙な集団ですね。 ☆ おそらく 《人間(現実)が変わる。生物種として 変わる》という思いを《持ってる奇妙な》信仰者です。わたしの立ち場としては 集団やその宗教を認めないものですから 個人の問題としてです。
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補足
同感です。宗教は、理屈ではありません。 聖書に、荒唐無稽な話が沢山あります。それはそれで、問題があるとは思いません。 問題は、それに理屈を付け真理であるかのように説明を加えることに問題があると思います。