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禅の自覚の本質
禅の自覚の本質を、難しい仏教用語をなるべく廃し、回答者様の言葉で15行位で書き込んで頂ければ幸いです。 よろしくお願いします。
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人生の少しの間、禅寺にいたのですが、 そこで聞いた体験からの言葉は、禅の自覚を本領とする京都学派の哲学よりも面白いものでした。 そして、本質は同じことを言っていました。 座禅や問答をとおして、痛みや苦しみや悩みが、もはやわけがわからなくなり、 自分が痛いのか床が痛いのかがおぼろげになって、認識ではない悟性のようなところが研ぎ澄まされてくると。 強度として在るがままに在るものが、ただ在るだけと。 わたしは、若冲の絵を思い浮かべました。 夥しい集積でひしめきあうように成っている世界が、空漠の世界とも見える。 点ただひとつが、無限の時空間をはらみ、それらの在るか、無しかは、わたしたちの自と他によりかかる浅い認識に触れているのみと。
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1)禅における覚醒とは、チャネリングです。 2)人は生まれながらにしてミーディアム(霊媒)であり 3)心を虚しく、大いなるものとつながることで 4)自分がおおいなるものの一部でありそれとつながっていること 5)自分が気がついたことの多く、自分の資質の大半が自分の創造でなく 6)おおいなるものの力であることがわかる。 7)すべてのものは、実体のない意識から生じ 8)空は、すべてのエネルギーの根源とつながっている 9)現実の世界はすべて己の意識が生み出したものであり 10)色・・つまり形ある現実のは空の転じたものとして現出している 11)人はひとりでなくおおいなるひとつの根源とつながっているがゆえに 12)そのつながりの「距離」「様態」において可能性に制約をうける 13)それが、個性であり現世でその魂が学ぶことを選択したテーマでもある 14)そういう心境に到達できる道が禅であり大悟というものである。 15)色即是空空即是色すべては般若心経の教えに要約されている。
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有り難うございました。
- magga
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私たちは外から入る情報を捏造して認識していますね。 その捏造をやめることでしょう。 捏造がなくなれば実感として無我・苦・無常などが観えて。 そうすれば煩悩(欲・怒り・無知などの感情)はなくなる。 これが仏教で破るべきものとして言われている「パパンチャ」だと思います。もちろん戒律(生活の落ち着き)→禅定(集中力・落ち着き)→智慧の順に徐々にじっくり進むものです。とるものではなくなるものです。 スマナサーラ長老の「現代人のための瞑想法」やサンガ出版の「仏法」を熟読することをオススメします。 お役に立てれば幸いです。
お礼
>そうすれば煩悩(欲・怒り・無知などの感情)はなくなる 煩悩がなくなれば良いですけれどね、私もそういう教えが有るのなら教えを,請いたいですね(笑い)。 なかなか生身の人間、それは不可能だと思いますね。禅も自力で煩悩の解決を計るが自力折れ他力だと思いますね。 禅者は自分にとっての苦が無くならない事を自覚しますか、自分にとっての物差しで行動しないと思います。自分にとって苦である楽である得損で、ですね、一般の人は自覚がないですから、自分とって楽、得で行動を決めますが、これにより我と我のぶつかり合いで争いが起こります。 宗教家の自覚の深い方は私利私欲では行動しないのですね(私憤)公憤はするでしょうが、これは仏教だけではないですが。 有り難うございました。
NO.1 で回答した者です。 あなたは、禅を心の問題の解決と結びつけていますが、 もちろん、そうだと思います。 しかし、その心の問題とは、すべてが、いわゆる化学的刺激によってもたらされるものです。 色・形・臭い・声・味など。そしてそれらに基づく脳内の電磁化学的反応(妄想・雑念)。 我々の悩みの原因は、それらに囚われてしまうことにあります。 真の我々の存在は、大地と我々の交流(座禅・立禅)によってこそ見出され、 それによって真の我々を発見する覚醒へと至る過程で、 化学的刺激によって引き起こされた様々な悩みは霧消してしまいます。 不老不死は、すべての宗教・科学の到達点です。 今、私は、すでにその方法を見出したと思っています。 ただ、このことに関していくら論じても、空論に近いものになってしまいますので、 結論がでる少なくとも2,3百年後までは、論を封じておきたいと思います。
お礼
>今、私は、すでにその方法を見出したと思っています。 ただ、このことに関していくら論じても、空論に近いものになってしまいますので、 結論がでる少なくとも2,3百年後までは、論を封じておきたいと思います。 見出したとおしゃりながら、空論、意味が判りません。あなたのは禅では有りません。禅で悟ったから苦しみがなくなるのでは有りません。(あなたをバカにしているのではありません) 私は禅の自覚をお聞きしているのです。
私は、独自に、別の思考経路から、 覚醒の方法として禅にたどりついたものですが、 したがって、禅の先人の著作や考え方についてホトンド知りません。 その私が禅に見出したものとは、 「完全なる覚醒の方法」と言うことです。 しかし、それは、座禅では不十分で、立禅である必要があります。 そして、なぜ禅が我々に真の覚醒をもたらすものなのか? それは、我々の意識を真に世界と結びつける刺激(情報)は、 決して、時間が経過するにつれて薄れてゆく化学的刺激(色・音・臭い・味・温度)ではなく、 時間と共に益々強まっていく物理的刺激(大地と我々の接触による圧迫刺激)であるからです。 結局それは、我々と地球(大地)とを存在対立さすことによって、 我々自身を地球と同等の存在にまで高め、文字通り不老不死へと至る道となっています。
お礼
出来れば禅或は仏法の本質をお解りの方に回答して頂きたかったですね。(私など大したものではありませんが) >別の思考経路から 思考では心の問題の解決にはならないです。 >不老不死へと至る道となっています。 死ぬ時が来たら只死ぬだけの事。 ありがとうございました。
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お礼
>若冲の絵を思い浮かべました。 分別加工しないことでしょうね。 私などは大したものではないですが、悟=他力だと小自覚してます、こう自覚しますと「本当の心の自由で有ると察してます」心が不安(苦)で有ろうが安心(楽)で有ろうが、そのままで言い訳ですから、自分の物差し(分別計)を使って安心(幸福)にもっていく必要がないわけです。もちろん身体もですが、不安安心・生死用事なし。無論、自覚者に精神的肉体的苦がない訳ではないわけでが。 自覚の有る良寛の吐露「死ぬ時が来たら死ぬだけの事・災難が来たら災難にあるだけの事」が出るのでと察します。 真宗の妙好人、才市の言葉は自覚者のままの言葉だと思いす、老師にも匹敵する位ではないかっと察します。 当流の安心は 善いのがでても それをよろこぶじゃない また悪いのがでても それをくやむじゃない ただ仰いで 頭をさげ 尊むばかり amaguappaさんの文章を拝見し自覚の有る方だと察しました、いい勉強をさせて頂きました私の自覚も少し深まった気がします。合掌。
補足
amaguappaさんは参禅(修行)されたのですか、ああいう所でも嫉妬、妬み、いじめ(いじめと言ったら大げさですが)、が有るのでしょうね。