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全身麻酔で自分が魂になった感覚を感じた方
カテゴリーが正しいか分かりませんが、質問させてください。 先日、流産のためソウハ手術を受け全身麻酔をしました。 点滴から入れるタイプのもので、すぐに眠りについたようです。 次に目が覚めたのは、手術が終わり、先生に終わりましたよと話しかけられたのを朦朧とした意識の中で聞いたときです。 その間、自分が何をしていたかというと、言葉で表しにくいのですが、すごく長い旅をしていました。 私はひとつの光=魂になっていました(戻っていたという表現のほうがしっくりきます)。 そして凄い速さで飛んでいました。 どこを目指しているのかは分かりませんが、円柱(上にいくほど広くなる)の建物をらせん状にぐるぐる登ったり、途中休憩したりしました。 私の前には先導役なのか1~2つの同じく光の魂が飛んでいました。 そして周囲には同じように無数の魂が存在しているのを感じました。 私は現在の○○△子という人間ではなく、ただただ一つの魂でした。 それぞれの魂は個々ではあるけれど名前はないという感じです。 それらの体験の中で私は感じました。 ○○△子という今の私(人間)の人生を終えたら、また名の無い一つの魂に戻るんだな。と。 言い方は悪いですが、○○△子という器にどれかの魂が入って初めて人間になるんだなと、そのとき思いました。 以前、胎内記憶、誕生記憶の本を読んだときに、お腹に入る前の子供が「3ヶ月くらいのときにお母さんのお腹に入った」というインタビューがありました。 空から親を選んで降りてきてお腹に入る→それから妊娠する。のが正しい順番じゃないのかな・・・と疑問に思っていました。 が、人間を器と考えるとそれが納得できます。 麻酔が効いている間、私は人間(生き物)の体に入る前、魂の世界に戻ったのだと感じました。 特に宗教を信仰しているわけでもない自分が、こんな考えを持ったことにビックリしており、興味が湧いています。 自分の感じた感覚の話しなのでバカげていると思われる方もいらっしゃるかもしれません。 もし、同じような体験をされた方がいたら是非その体験談を聞いてみたいと思い、投稿しました。
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- iipico
- ベストアンサー率80% (4/5)
「魂」と定義できるのかどうかわかりませんが、「ひとつの塊」になった感覚は私も以前に一度だけありました。 麻酔が効いてきたあたりかと思うのですが、自分はひとつの塊になって、質問者様のいうとおり生命の流れを塊になったまま見つめ、そして奇妙なことに非常に納得しました。 その場面では肉体がないまま意識を持ち続けたわけですよね。一歩間違うとオカルト的でもあり、私自身は何も信じておらず、死ねば「無」があると思っていましたから、その感覚に驚きました。 もっと驚くのはその時「ああなるほど。そうだったんだ」と納得したことです。 一度の体験でしたが、一生忘れられません。
- rurubonpp
- ベストアンサー率26% (128/488)
No.5のrurubonppです。気絶は気絶です。意識も完全になくなります。極たまに、瞑想などの修行をしている人の中には、気絶しても意識はあるという人がいるのではないでしょうか。そういう意識というのは、この現世的な意識ではなく「超意識」と呼ばれるような意識のことではないでしょうか。私は病気で心臓が止まった時もありましたが、そういう時でも意識というのがハッキリありました。
お礼
補足ありがとうございます。 では私の感じた世界も「超意識」の状態でのことなのかな。 理解が違ったらすみません。私には少し難しいです^^。
- rurubonpp
- ベストアンサー率26% (128/488)
私も全身麻酔を受けた時というか、その何日か前あたりから不可思議な体験をしました。三途の川らしきものも見ました。これは麻酔にかかりやす状態にするために、点滴に薬を混ぜていたからだろうと思います。麻酔をした場合は眠るのではなく、気絶させているわけです。この気絶という状態は、瞑想状態に良く似ているのかな~と思います。気絶している状態で意識があるという不可思議な状態が瞑想状態なのかもしれません。 私の場合は全身麻酔中に自分の前世を見ました。それで自分が全身麻酔をしなくてはならないような病気になってしまった因縁を理解したわけです。戦国武将で人を槍で突き殺していたわけです。 この手術以来霊的な力が強くなったような気がします。
お礼
回答ありがとうございます。 体は眠っているのに、精神は起きている状態が気絶なのでしょうか。 よくそれで金縛り状態になったりしますね。 前世を見て、さらに現世の自分の人生の意味を知るとは すごい体験ですね。 どうもありがとうございます。
- noname002
- ベストアンサー率36% (97/264)
このたびは大変でしたね。さぞショックを受けられたことかと、お察ししますが少しは落ち着かれましたか? 私自身も全身麻酔及び局部麻酔共に経験しましたので、お役に立つのならと参加してみます。 全身麻酔のとき、私の場合は「魂になった感覚」も何も、その間のことは全く記憶のカケラも残っていません。 どうガンバッテ思い出そうとしても、手術室に搬入され麻酔を施されてからホンの数分、看護婦さんたちと他愛もない思い出話をし(実は、担当看護婦のなかに私の学校時分の同窓生が混じっていた)、彼女たちと私の、そして、やりとりを聞いていた周りのスタッフたちのワハハという笑い声が室内に響くなか、みごとなタイミングでストンと意識がとびました。――ここまでハッキリと憶えています。 やがて医師たちの呼びかける声が聞こえてきて、意識が戻ったのですが、その間の記憶や時間感覚等は全くありません。 無です。 ないのです。 なんにも。 その間だけ、私自身にとっては存在しない時間なのです。 意識が戻ったとたん同時に凄まじい痛みが襲ってきましたので、自分が開腹手術を受けたのだということは、すぐ思い出したのですが、痛みやら、その原因になっている切開の痕やらがないものなら、手術なんぞ受けておらぬと思い込むことも可能だったかもしれません。 とにかく、呼びかけないで放っといてくれたらよかったのに、とまで思うほどの痛みでした。もう二度とは耐えられないでしょう。 次に局所麻酔の経験からですが、自分でも全身麻酔と局所麻酔のときの意識状態が大違いだったのに少し驚き、書き残しておいたものがありました。以下は、その写しです。 「(~略~)受けた外科手術において施された局所麻酔が作用した時の鮮やかな脳内イメージ:そのうち眠りにつくときのようなウトウトした感じになってきた。変な言いかたかもしれないが、全身麻酔の時には「パチッ」とでもいうような感じで、いきなり意識を失ったことを覚えているのだが。 …ややあって脳のなかの光景を私は目撃した。 乳白ガラスの内部に、美しいとさえ感じられる蛍光色のライトが灯っているかのような細長い一連の繋がりが、カーブを描きながら左右から伸びてきて、それぞれの色の繋がりどうしが、鉤の手状にガッチリと組み合ったと見るや麻酔が効き始めた。」 御質問者様と私とで同じ全身麻酔と言っても情況が異なるところをみますと麻酔そのものの種類とかが違うのかな、とか体質等の個人差かな、とか思いますが、お話を拝見していて、これは、むしろ私の亡母が生前、話していた内容に近いような印象を受けました。 私の母も生まれつき病気がちな人でしたが、歳若くして結婚した間もなく、まだ私も姉も、この世に存在していなかったころ、急激な容態の悪化で危篤状態に陥ったことがあったそうです。病院の医師が急遽、連絡して母の父つまり私の祖父が駆けつけたのですが、祖父自身は漢方医であったので、自分で、あらかじめ調合してあった漢方薬を携えて来ており、戸惑う主治医を突き飛ばして、ほとんど意識を失っていた母の口中に、その持参した薬を無理やり押し込んだのだそうです。 その瞬間、母が猛烈に吐き戻したか何かして、奇跡的に息を吹き返したというようなことだったのですが その、意識不明だった間に本人がみていたイメージを、今でも鮮明に思い出せると言って私に聞かせたのが、次のような話でした。 「はるかに続く茜雲のようなものの上を、真っ赤な夕映えの光が照らすなか、どこまでもスーイと軽やかに進んで行く。歩いているのではなく飛んでいるらしい。遠く彼方から何かの鈴のような音が響いてくる。どうやら、その鈴(或いは鉦)の響いてくる方角めざして進んでいるらしい。なぜだか、その音色がするほうに向かって行かねばならないような気がする。寂しい寂しい音色。」 そして、意識を取り戻したあとは、やがて、ふつうの生活リズムに戻っていったわけですが、後年ふとしたおりに分かったことがあって、非常に驚いた、と言っておりました。 それは、危篤状態に陥っていた最中、母が耳にしていた、あの寂しい鈴(或いは鉦)の音色が、「御詠歌」と言われるものの伴奏に鳴らされるそれと同じであることに気づいたことです。 その当時、母は、まだ、ごく若く、宗教的なことにも疎く、「御詠歌」なるものがあることも全く知らなかったらしいのです。 この話をどう受け止めるか、私自身は、どのようにも断定するつもりはありません。 私の母は幼少時から、いわゆる「霊感」がある人だということを自他共に認める、その道の人からも指摘されたことのある人でしたが、そのせいなのかどうか母が亡くなった前後は特に、私自身にも、ちょっと、ふつうの次元では考えられないようなことが、いくつか起こりました。こうしたことも含め、私は、これらのことについて無理に何かの結論らしいものを出すつもりはありません。ただ、こういうことも起こるのだなあ、自分には、まだまだ見極めがつかないことが多々あるのだなあと静かに受け止めています。 個人的には、御質問者様がお感じになったという「魂」に関する印象、もしも「魂」というものがあるとして基本的に思想としての想像に過ぎませんが私も近いものがあります。「魂」そのものには個別の特徴とか固有の個性とか、ないのかもしれない。肉体が死んだら一つの大きな塊りのなかに戻っていったり或いは、生じた一個の肉体めがけて飛び出してきたり、そんな電気エネルギー的イメージも浮かびます。 私は生後半年からの記憶が鮮明に残っていますが、誕生時は、とりあげた医師が学会に報告すると言ったくらいの稀な状況のもとでの難産でしたので、命が危ぶまれるほどの重度仮死状態で出生したそうです。もしも、こうした状況でなく、元気な産声をあげることができていたら、ひょっとして出生時からの或いは胎内からの記憶があり得たのかな?と思うこともあります。 ただ、私の実感としては、多分に親への反発もあるのでしょうが、「親を選んで降りてきて」というよりも本当は生まれてくるはずじゃなかったような気がしてならないのです。なんか、誰かに無理やり、「オマエが行けよ、ほれサッサと行かんかい!」と突き落とされて、「あら~(汗)」とか言ってる間に不本意ながら宿ってしまったんじゃないかとトホホ。。。(苦笑) もっと具体的に私が経験してきたことを述べるのも、質問者様の御興味を引くかもしれませんが、長くなりますし、このくらいにしておきましょう。 私の母も、そうでしたが私も、とくに宗教一般に、こだわる気持ちはありません。いろいろ不思議なことがあったあとでは、「そんなものなのかな」「そういうこともあるんだね」と静かに受け止める気持ちだけです。騒ぐことでもないという感じです。 少しでも御満足いただけましたでしょうか。 どうぞ、くれぐれも御養生なさってくださいね。
お礼
回答ありがとうございます。 体も心も順調に回復してきております、心遣いありがとうございます。 私の体験の中で螺旋階段を登っていた感覚があるのですが、 それはもしかしたら麻酔がきいてグルグルと目が廻った状態だったのかなとも思えます。 でもお母様の体験と似ているような気もします。 私の場合は音に導かれてという感じはなかったのですが、見渡す世界はやはりセピア色のような夕暮れのような感じでした。 そうですね。結局結論はないですよね。 私もこういうこともあるのだなぁと受け止めつつもあります。 興味深いお話ありがとうございました。
- marumets
- ベストアンサー率42% (199/463)
私は、4歳の頃全身麻酔の手術を受けました。 (その手術が終わっても、麻酔が一向に醒めず、医者からはこのまま麻酔が醒めなければ命が無いとまで言われていたそうです) その頃の他の記憶は殆ど無いのですが、その手術のときの事だけは、今でもハッキリと覚えています。 子供だったので、泣き叫んでいるところを皆に押さえつけられながら麻酔をかけられたのですが、真っ暗な中を後ろ向きにものすごい速さでどんどん落ちていく感覚でした。真っ暗なので途中で落ちているのか上昇しているのかわからなかったです。 更に、不思議なことにその落ちていく自分の姿(泣き叫んだままの自分)が見えているのです。 気が付くと、病室のベッドの上で、私の顔を母親が必死で叩いていました。 よく、臨死体験とかで、きれいな光や花畑の話が出てきますが、そんなものとは全く違っていました。 このときの恐ろしさは今でも忘れられません。
お礼
回答ありがとうございます。 marumets様の体験も不思議ですね。 生と死の境目には説明のできない何かがあるのかもしれませんね。 私は自分の体験が夢なのか、それとも解明できない事実なのか・・・よく分かりません。 それで他の方も同じような体験をしているのだったら、単に夢ではないのかなと思い質問させてもらいました。
- umemomi
- ベストアンサー率23% (190/805)
私はそういう物を一切体験した事がない「体験」している、という事で私見を述べさせていただくと、胎内記憶は在るかも知れないが、輪廻転生だとか死後の世界、霊魂、果ては神仏まで、一切存在しない人間の妄想の産物だと確信しています。
お礼
回答ありがとうございます。 私も、自分のこれは夢もしくは妄想なのかも・・・とも思いました。 でもあまりにハッキリと、そうだったのか!と感じた感覚があり、 それが鮮明で興奮しましたので、質問をさせていただきました。 ありがとうございます。
- takashi-99
- ベストアンサー率16% (44/263)
人間の生命には十界という状態があります。(これは概略ですから)地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏という命です。地獄から菩薩までの命を九界といいます。よく六道輪廻といいますが,これは地獄から天までの命の状態のことです。声聞から仏までを四聖といい,声聞・縁覚を二乗といいます。人間に生まれることはまれであり,よく爪上の土といわれます。砂浜で手を突っ込んで指に残る砂はそこにある砂のほんの一握りですね,それだけ人間として生まれてくることは難しいのですよ。この本当に困難な人間として生まれてくることができても,それはその意思では生まれる場所や国や環境や親を選ぶことはできません。ましてや地球に生まれてくるなどできる訳がありません。それこそ何千億分の一以上の確立かもしれません。ただ,自分の意思でその時間・国・地域・環境・親を自由に選んで生まれることができるのは仏という命を持っている者だけです。私も手術中に大出血して臨死体験をしました。私の場合は菜の花畑で誰かと遊んでいるんです。誰なのかはわかりません,女の子のようでした。笑いながら一生懸命に二人で遊んでいるのです。多分その子が私を三途の川に行かせない様にしていてくれたのだと思っています。いくら偉そうにしていてもたかが人間,私たちと何もかわりません。私も54歳消防隊の隊長として修羅場も何回も経験しましたし,人間の裏表も見てきました。最近やっとわかったのです。本当の幸せということを,財産やお金や地位や名誉や血筋なんかは必要なものではありますが大切なものではない,悲しいことや苦しいことを楽しんで前向きに笑い飛ばしていける命を持つことなんだということをね。
お礼
回答ありがとうございます。 十界という考え方からすると、自分で選択して人間に生まれるということは大変難しいことなのですね。 すると、今自分がこうして生きていることは、何千億分の1に入れたということなのでしょうか。 今回の流産で、生命の誕生とはとても困難で尊いものであると実感しました。 悲しみ、苦しみを前向きに楽しむ命を持つ、とても難しいですね。人間だから。 でもそれができたら素晴らしいですね。
お礼
回答ありがとうございます。 とても似ていますね。 私も不思議ととても納得しました。 死んでも無ではないのかな、と考えるとただ死ぬことを恐れなくてもいいのかなと少し気が楽になりますね。 どうもありがとうございます。