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無は存在しますか?

この世には有るという事しかないのではないか。というのも何をどこまで分解しようが分解されたものが有るからである。(物質の無限) 無は考えられない。何故なら無は想定出来ない。想定されたものが有るからだ。(意識の無限) だから、世には無限しかない。無など存在しない。 それでも、無が存在するという方、それはどういう事でしょうか? 存在しないという意見でもいいです。

みんなの回答

回答No.12

ことごとく何もないのが無であって、 意識側から無を認識することは不可能です。 認識には時間の要素があるので想像しようとした無は もはや無ではありません。 認識の外側が無です。で、認識の外側を意識すると無ではなくなってしまいます。 有も認識されて初めて有となります。 認識できなければ想像する無と同質です。 無論物理的な無ではありません。 しかし、想像する無と認識していない有に差はありません。 宇宙は10~12次元で説明出来るという人がいますが、 これら全ての次元で何もないのがいわゆる無でなのでしょう。しかし、 人間意識にこれを認識したり、確認したり、証明したりすることは 出来ません。

noname#65715
質問者

お礼

確かに、無は「考えられない」と言えます。しかし、「考えられない」からと言って存在しない事にはならない。「考えられない」事が無い事を断定するのではない。「考えられない」事は有るとも無いとも言えない事を説明したに過ぎない。 ただ、「無は有」という文の矛盾は、無の存在が否定される事を意味してはいないのだろうか、という気がします。 ご回答有難うございます。

noname#58770
noname#58770
回答No.11

絶対的な無は形而上学なんですよね。 考えるだけ非生産的だとも思います。 第一原因に何を持ってくるのかって だけで、やってることは有でも無でも別に構わない。 認識論と存在論とその他いろいろ 区別して考えるようにしていけばいいのではないでしょうか。 重箱の隅をつけば、 >無など存在しない の、「ない」はどこから来たんですかね。

noname#65715
質問者

お礼

>無など存在しない の、「ない」はどこから来たんですかね。 「無い」と言っても多様な意味合いがある事が分かってきました。「無」と言ったのは「絶対的な無」の事だったのでしょう。「~ない」は単に否定するといった意味でしょう。「絶対的な無を否定する」と言い換えても良い。 ご回答有難うございます。

noname#96295
noname#96295
回答No.10

無についての観想は、看話禅に追随を許すものはないでしょうね。 有(あり)は存在するか? 有を識っているとほんとうに言うならば、 あなたは無を識らないはずがない。 有についてもっと深く見極める。 点と点のあいだとは。 大きさのなかに含まれる点の総数は いかなる大きさにおいても等しい。 この無限が有の態であるならば、 地(じ)と図 における 図のようにではなく、 図のみ がひしめきあうようにして、 有とは 無限どうしがひしめきあっているさま。 だがそうしたとき、有は存在をみとめられぬ。 地において消し去られるもの がなければ かたちはない。何一つ図は浮かび上がらない。 有の不審なるがゆえに、有をみとめるときそのまわりにはすでに消し去られた有がある。 ひたされ、ひしめきあうものが、有にもなり、無にもなる。

noname#65715
質問者

お礼

そもそも無限ということはイメージし切れないという事であって、それが何なのかと把握することは出来ない。ただ、無限と無は違うように思われます、ひたすら有るのと、無いのとでは。 世界の中に形があるなら、その形に関する無はなければならない。確かにそういう類の無はあるでしょう。(ただしそれはその形以外の有の領域であるに過ぎない) 全て意味が把握できた訳ではないが、そのような感想を持ちました。 ご回答有難うございます。

  • tyr134
  • ベストアンサー率51% (851/1656)
回答No.9

「無が存在する」という時点で、矛盾してるのではないでしょうか? 「無」とは「(名詞に付いて)そのものが存在しないこと。その常態にないこと」と大辞林には書いてありますね。 で、例として「無免許・無資格・無修正」などが挙げられています。 つまり、「無」とは「有」との対概念であり、「有が無い」のが「無」であると言えます。 「無とは存在しないこと」なので、存在しないモノが「無」です。 では、存在とはなんなのか? 例えば、私の目の前にはPCが「有」ります。 これは、多分、他の誰かが見ても「ある」と答えるでしょう。 なので、私の目の前にあるPCは「有」ということになる。 でも、私が頭の中で「翼を持った馬」を想像したとします。 私の脳は「翼を持った馬」を認識しています。 なので私の中では「有」となる。 でも、他人にはどうやっても「翼を持った馬そのもの」を認識する事は出来ません。 なんで、他人は「存在していない」と否定しますよね? 「存在していない」ということは「無」と言うことになる。 私の意識の中では「有」でも、その意識を飛び出したら存在できないので「無」である。 ただ、こうした有無論ではなくて、「絶対的な無」を問題にすると、とたんに分らなくなる。 つまり、「有」の対立概念としての「無」ではなく、「無そのものは有るのか?」という問いです。 この時点で、論理的矛盾が生じてしまう。 つまり、「絶対的な無」を議論する事事態が無意味で不可能す。 それよりも、「有の対立概念としての無」を有効利用しているのが、現状だと思います。

noname#65715
質問者

お礼

焦点を絞る重要なヒントが述べられていると思います。 ある人にとっては有り、ある人にとっては無いというような有無論としての無なのか、万人に通用する絶対的な無なのか。 前者は有り得るが、後者は有り得ない様に思われる。絶対的な無は、「有る」といった時点で無ではなくなってしまうから。「無は有る」という文それ自体矛盾しているではないか。 そうなのですよ、そこなのです。だから、「無など有り得ない」という文しか成立しないのではないかと思われるのです。 どうやら私の問題とするところは、「絶対的な無」の方だったのではないか、と思います。 しかし、「絶対的な無」は無い、という事は言えませんでしょうか。(「無は有」は矛盾だが「無は無」は矛盾してない)それが言えるなら議論が無意味だったとは思えませんが。 ご回答有難うございます。

  • Yasuhlro
  • ベストアンサー率50% (1/2)
回答No.8

『無』は,存在するとも言えますし存在しないとも言えます。 その話は,地球をこえ,太陽系をこえ,銀河系をもこえた話。 広がる宇宙……。 かつては,「ビックバン」と呼ばれる大爆発によって生まれました。 宇宙がなかった時代……それこそが『無』なのです。 そして数々の爆発を繰り返し, 今現在の銀河系,太陽系,そして地球が出来たのです。 多数の科学者はこう言います。 「宇宙の外には宇宙がある…。」 つまり,宇宙には果てがあり,その外側にまた別の宇宙が存在する。 そのつなぎ目こそが「ブラックホール」「ホワイトホール」なのです。 つまり,我々の住んでいるこの宇宙の外側では, 未だ『無』の世界が広がっているかもしれません。

noname#65715
質問者

お礼

ビッグバンはビッグバンの起こる原因が無ければビッグバンは起こりません。従ってビッグバン以前は無であるという説は簡単に反証されてしまいます。 原因は無限にあります。限りがあったならばそれ以下は発生しないからです。(例えばビッグバンの原因にも原因が必要である) だから過去に無は無い。 「宇宙の外に宇宙がある」 宇宙は無ではなく、宇宙という有る何かです。無はどす黒い空間ではありません。どす黒い空間すら無いことを無というのです。 ちなみに無が想定出来ない以上宇宙の外には何かが有るとしか言いようがありませんので、外は無限です。 だから外に無は無い。 ご回答有難うございます。

  • booboox
  • ベストアンサー率32% (176/538)
回答No.7

良く解りませんが、亡くなってしまった父、母の思い出、と言うものは、無でしょうか、有でしょうか?故人が、生きていた時に、自分と生活したことは、事実ですが、今日、亡くなってしまったのですから、記憶の中にしかありません。物理的には、存在はしませんが、あなたの心には、その当時のことが、手に取るように、ある訳ですから。。これらを表現するには、物理や数学の、無と有では、説明しきれないのでは。。しかし、今、存在しないことも、過去には、存在したことは、事実なんでしょうね。5感以外に、6,7,8,9と、感性があるとの、哲学の思想ですが。。

noname#65715
質問者

お礼

ご意見有難うございました。

noname#65715
質問者

補足

私が述べた、「無は想定出来ない、想定されたものが有るからだ、だから無限しかない、無など存在しない」という事が、仮に真であったならば、死後意識は継続する事になってしまうのです。(意識の無限) だから、これが真であったならば、今日亡くなってしまったからといって、あなたの記憶の中にしか存在しない事にならないのです。コミュニケーションツールを“亡くした”事にしかならないのです。 だから唯物論者は、目の色を変えてこれを否定しにかからなければならなかったのですよ、穏やかな成り行きだけれど。 ところで記憶の有無ですが、それはもちろん有るでしょう。無は想定出来ないという事は、何がしかのイメージが存在するというのだから。

noname#64364
noname#64364
回答No.6

無意識の存在がある。 意識は記憶の有だけではない。無意識の記憶もあります。 人間には経験や学習によって得た記憶・知識以外に、 生得的または先天的に備えていたとしか言えない「知識」や 「構造」が存在します。 その一つの例は、「人間の言語」、人間の言語は、現在の知見では、 人間しか完全には駆使できない。ノーム・チョムスキーの生成文法は、 人間の大脳に、先天的に言語を構成する能力あるいは構造が備わって いることを主張しています。 子供は成長過程で、有限数の単語を記憶する。単語は、単語が現れる 文章文脈と共に記憶される。しかし、子供の言語生成能力は、それまで 聞いたことのない文章、従って、記憶には存在しない文章を言葉として 話すことがあります。「記憶したことのない文章」を子供が話すという ことは、それは記憶ではない、それではどこからこのような文章が湧出 するのか。 それは「意識でない領域」、または「無意識」から湧出するのだと言え ます。 このように、意識の領域に現れる訳ではないが、意識の外の領域、 すなわち無意識の領域に記憶や知識や構造が存在し、このような記憶 や構造が、意識の内容や、そのありように影響を及ぼしているという 事実は、仮説ではなく、事実です。

noname#65715
質問者

お礼

無意識は無ではないのでしょう。何故なら、無は湧き出す要因の全てが無いからです。だから無意識は何らかの有るものだと言えます。記憶や知識や構造が“存在する”と仰っている様に。  しかし主観的意識はそれの実態を感識出来ない以上「無」と表現する。ただ湧き出した何らかを感識出来た限りそこに存在を認める。気付いた何かが有るなら、それはもう有るという事の証拠である。実態を感識出来なくとも、派生した何かの感識によって、まことに無なのではないと分かる。 ご回答有難うございました。

  • booboox
  • ベストアンサー率32% (176/538)
回答No.5

物理学では、完全に。「無」という存在の証明は、されて居ないらしい。哲学では、有の反対語としての「無」を仮想することで、思考上の概念として、定着しているらしい。数学では、ゼロを、無とするらしい。 釈迦仏教では、 未生無(みしょうむ) 原因が無いとき、結果は生じて無いという事。 已滅無(いめつむ) 過去にあったが滅したものは、すでに無いという事。 不会無(ふえむ) 今この場所に無いという事。 更互無(こうごむ) AはBでは無い、BはAでは無いという事。 畢竟無(ひっきょうむ) 過去に無く、未来に無く、現在にも無いという事。存在し得無い事。 の5無があるらしい。 禅宗においても、無は根本的なテーマとして掲げられてきた。「狗に仏性はあるか」という問いに対し、「無い」と喝破した事を伝える「無門関」の第一公案は、極めてその方向性を強調している。ここでいわれている無も又、決して単なる非-有(Non-being)ではなく、有と無の対立を超えて、それらを包括するような絶対的な根源としての無である。 のように、ベクトルとして、無の存在を表現するらしい。 かように、「無」の理解は、現状は、多種多様のようですね。 ただ、現在、間違っているか居ないかは、別として、ゼロという概念があることで、生活的には、物事は、理解しやすい状況でしょう。 πが、3なのか、3.14なのか、3.141592なのかの違いくらいではないのでしょうか? 物理学上、完全に無という空間をまだ作り出していないことは、事実のようですね。 以上、素人より。

noname#65715
質問者

お礼

色んな無の捉え方がありますね。無と一言で言うと、その意味は一種類しか考えられなかった様だが、視点のあり方で種類は多様化する。例えば相対する何かとの状態の差異に関する有無などといったような。 つまり私は視点の絞込みをもっと明確にしなければならないと思われました。もう少し考えた方が良さそうです。 ご回答有難うございました。

  • ahohdori
  • ベストアンサー率20% (180/894)
回答No.4

私の頭部と懐には「無」が存在しているwww♪

  • kudo_yu
  • ベストアンサー率27% (33/118)
回答No.3

無は実際にはない(認識できない)にせよ、概念的にないと困る。 0と1みたいなもので0がなんなのかよくわからないけど、 1と(有)区別するために必要だと考える。 名づけられないものが無、名づけられるものが有 物質で考えるなら例えば机が有。 しかし極限まで分解すると人の目には見えなくなり名づけられない存在になる。 そういったものを仮に無と呼ぶのじゃないかと思う。

noname#65715
質問者

お礼

やっぱり、何なのか分からないけれど、仮にそう呼ぶものですね。 私もその認識で、「無」などと発音していると思われます。 ご回答有難うございました。

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