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《われはブッダなり》と宣言する人は
どのくらいいらっしゃるでしょうか。 人数が知りたいのではなく どのようにその状態を捉えておられるのかをおしえてください。たとえば 実際であるかどうかを措くのですが ブッダは次のように語ったとされています。この境地について そういう内容なら おれは すでに達した / わたしは たしかに すでにこれを経験しているなどなど 感ずるところ・思うところを述べて お聞かせください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《さとり》の境地を示し 人々を教え導くために 余は巧妙な手段を語る。 そしてそのとき余は 《さとり》の境地に入ることなく この世に教えを弘めるのだ。 その場合 余は霊妙は力によって みづからの姿を現わし そしてすべての人々に加護を垂れるのだ。 人々は理性が転倒して愚かであり 余がそこに立っているにもかかわらず 余を見ることはない。 (《正しい教えの白蓮 Saddharma-pundariika 》十五 〈如来の寿命の長さ〉 岩本裕訳 岩波文庫《法華経》・下) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ また わたし自身は 経験済みだと臆面もなく言うのですが それは 大馬鹿者になるでしょうか。つまりむしろ このように語る人間(ブッダ)がいたと言って伝えながら その人を崇めるとすれば そのほうが 間抜けであることを免れないのではないでしょうか。《人を崇める》のであればです。つまり ブッディスム批判としての質問にもなるのですが いかがお考えになるでしょう。
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あー、少し分かった気がします。 ブッダ葬送とはいわゆる親離れ、ひとり立ちのことですね。 それは正しいし必然だと感じます。 自分が求めているものが真理なのか依存なのか、そこら辺が運命の分かれ道ですかね。
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つくづくこの、仏教ってのはなんなのかなぁと思うわけです。 自分がブッダになったとかどうとか言う以前に、 自分が仏教徒だと名乗る人は一体何を根拠に 仏教徒と名乗っているのかなぁ。と思います。 信じている人?→認識の宗教でしょ。 経典の内容を知っている人?→批判してばかりの私よりも知らない人が多いし。 出家してる人?→じゃあ、在家は? 在家?→それ以外の人は? 生まれによってですかね?行為が大事なはずなのに。 私が批判する仏教徒とは? と考えるのが悲しくなった時期もあります。 浄土教、法華経、上座部、禅、密教、華厳、その他色々。 学者はブッダではないのでしょう。 浄土教は今生ではブッダではないのでしょう。 禅は?悟れない人もいるわけでしょ。 密教は?全員密教徒ではないでしょう。 法華は?末法思想で、法華経以外駄目なんでしょ。 上座部は?自力だから悟れない人もいるでしょう。 そもそも、仏教徒っているんですかね。
お礼
お話しにつられて つい 笑ってしまいました。 いちどは こういうふうにも述べて ほんの少しさげすみの気持ちをも表わして 対話に臨んだほうがよいかも知れません。あまりにも 社会共同の心理や雰囲気や歴史的なたとえば檀家制度などの繭のなかに包まれているようなので その或る意味での危機の情況が分からないのだと思いますから。 でも やはり 一つひとつの項目ごとに じっくり きちんとした批判の目を向けて進めていくべきなのでしょうね。 yukiyama20さんが 自信を回復されてきた様子は まさに自信に満ちております。(変な言い回し!?)さらに突っ込んでいってください。もちろん わたしたちも 同じ側にあるのですが 見解は多様性をもっているはづですから。
- shift-2007
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そもそも釈迦(敬称略)は自分を崇めろとは言ってないはず、 それを神様に祭り上げたのは釈迦と同じ境地に立てなかった取り巻きたちじゃないでしょうか。 それゆえに釈迦の言葉が超自然の信仰になってしまったんじゃないでしょうか。 哲学を理解できない腹癒せにブッディスムを宗教にしてしまった そんなところじゃないでしょうか。 >余は最勝の《さとり》に達し このセリフが嫌い。
お礼
ブッダの《臨終のことば》は 次のようだと言います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そこで尊師は若きアーナンダに告げられた。―― ――アーナンダよ。あるいは後にお前たちはこのように思うかも知れ ない。《教えを説かれた師はましまさぬ。もはやわれらの師はおら れないのだ》と。しかしそのように見なしてはならない。お前たち のためにわたしが説いた教えとわたしの制した戒律とが わたしの 死後にお前たちの師となるのである。 (中村元訳《ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――》 第六章〈一〉以下) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ その前にも 自分の死後どうすればよいかについてアーナンダに語ったことばが記されています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ アーナンダよ。王族の賢者たち バラモンの賢者たち・・・で 修行完成者(如来)に対して浄らかな信をいだいている人々がいる。かれらが 修行完成者の遺骨の崇拝をなすであろう。 ・・・(中略)・・・ アーナンダよ。これら四つの者は ストゥーパをつくって拝まるべきである。その四つというのは 何であるか? 修行完成者・真人・ブッダ〔および独覚〕については 人々がかれのストゥーパをつくってこれを拝むべきである。・・・ 〔* 《どのような道理によって》そうすべきかについては〕 《これは かの修行完成者・真人・正しくさとりを開いた人のストゥーパである》と思って 多くの人は心が浄まる。かれらはそこで心が浄まって 死後に 身体が壊れてのちに 善いところ・天の世界に生まれる。・・・この道理によって・・・ストゥーパを拝むべきである。 (同上・第五章〈一〇〉以下) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ というような情況ではあります。 (まぁ わたしは 仏教が信仰であるかないかで振りまわされたところがありますが ブッダその人にうらみがあるものではありません)。 (日本人は ブッダあるいはブッディスムについて そして一般的に宗教ということについても いろんな誤解や曲解やその膨らましがあるのではないでしょうか。わたし自身も 上に言ったように そうでした)。
ついでに。 日本では数千年前の、あるインド人を崇拝する人が多いので この思想を批判したり、否定することが許されていません。 経典は後で別人が書いたものです。 経典を素晴らしいと言っても、そのインド人が すばらしいことにはなりません。 国をなくした人間が、悟ったと言ったとたん、別の王様になれるのだから すごいですよね。
お礼
たしかに 理論的にして実用に耐えうるおしえが あったのでしょうね。我が子を亡くして途方に暮れている母親を諭す逸話など 貴ばれるのだと思います。 あとは すでにお応えに書いたことを重ねます。下から つまり社会的にも人間存在としても 単なる身体の次元からというかたちにおいて下から 生命の理論を見出したというものが いつしか これが 有り難いお経となり説教となり 上から 降ってくるかたちになった。 お上には弱いのでしょうか。お墨付きがあって上から来るものは 何でも有り難く いただくというような刷りこみが はたらいているのでしょうか。この仏教関係の経済活動が 国内総生産の付加価値を高めているということなのでしょうか。
訂正。 ×悟るとはいえない。 ○悟ったとはいえない。 上手くやったものです。 どうしたら悟れるのだろう。どうしたらブッダになれるのだろう。 どうしたら解脱できるのだろう。 そうやって悩んでいた修行者たちの中で、 自分は悟った。解脱した。と名乗った。 そして、他に悟ったものは認めない。 そして、方法を教えよう。 コロンブスの卵です。 誰が最初にやったか知りませんがね。
お礼
これは どうなのでしょう。方向としては そしてその気持ちとしては 分かるのですが さらにそして 見方によっては かなり辛辣な理論的な《宗教批判》になっているとも考えるのですが まぁ 中身についての議論で 結着がつけられるということになると言わざるを得ないものでしょうか。 わかったような(分からないような)言い方をしてしまいましたが おっしゃっていることは 確かに明らかに 人が何人か集まった場合のその意味としても宗教の問題になるようですと言っていいですよね。 次は 《Q:〈我れ〉はある?ない?・・・》において bonbonnierさんにおしえてもらったサイトです。 ・宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html 修行者たちの間から ブッダが抜きん出たという事情(つまり さとり)を 簡潔に 説明していると思いました。ひるがえって捉えてみると 《コロンブスの卵》ではないかという感覚も なきにしもあらず・・・となりますかねぇ。うーん。そう言うには たとえば十代で それと同じさとりを悟ったという人でないと むつかしいのではないでしょうかねぇ。 といったふうに感じました。
いまさら異教について言及しても仕方ないけれども。 面白いことに 悟ったと言うと 新興宗教か、カルトの教祖に認定されて 排斥されるシステムがあるようなので こうすれば悟れますと言っても 悟るとはいえない。 つまり、悟れます詐欺をやっているわけです。
お礼
yukiyama20さん ご投稿をありがとうございます。 やや なにか意趣があるのではないかと勘ぐらせるところのある文面ですが まづは そもそもとしては ともに追究していきたいと存じます。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 面白いことに 悟ったと言うと 新興宗教か、カルトの教祖に認定されて 排斥されるシステムがあるようなので こうすれば悟れますと言っても 悟る(→悟った)とはいえない。 つまり、悟れます詐欺をやっているわけです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 一つには こういう情況の問題でしょうか。つまり 《悟った》という経験は 大小合わせて 誰でも あるはづなのですが 一般に そう言うのは稀れですし まして《わたしはブッディストであり ブッダです》とは言わないようです。 けれども その過程にあるという意味では まともに考えれば 真面目な求道者であるなら そういう表現になるということは認めるし 自認するものだと思うのですが いかがでしょうか。一つ間違いを犯すと もうそれが前科になって 評判をことごとく落としてしまうという社会心理 これも手伝っているでしょうか。韜晦のほうが 不健全になる場合もあるように思うのですが。 一つには みなさんおっしゃるように インチキ・ブッダの問題があるのでしょう。
- shift-2007
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我はブッダなりの問題点は、 誤解を招く ですかね。 本意でないとしても誤解を招くことを言うのは正しい言葉の使い方とはいえないかもしれませんよ。 お釈迦様がこの法華経の表現を見たらいい顔しないと思います。 『慈悲』が抜けているんですかね。
お礼
たぶん 《招いてしまう誤解》には おっしゃるように《『慈悲』が抜けている》と感ずるところと もう一点 あるように思います。ブッダのおしえが この世を超えた領域にも触れるかたちでの信仰の問題になるのかどうか わからなくさせてしまうところではないでしょうか。 《誤解》の点は ほかの回答者の方々も 等しく触れておられるようです。もともと 生命存在と言いましょうか きわめて普通の人間生活について その苦や煩悩などを受け止めて その無明とそしてこれを転換する明知とを明らかにして訴えた。これが 格上げされ観念化し神棚に祀り上げられるようになった。言わば下から生命の理論を説いたのに いつのまにか 上から有り難いお経の説教を垂れる恰好となった。うんぬんだと考えます。 ところが そのような誤解と悪用とは もともと おしえが さとりとして説かれ それが 果たしてふつうの生活態度であるのか それとも 超自然の信仰にかかわるものであるのか この判断が分からない部分を持っていたということも あるかも知れない。うんぬんだとやはり考えます。 わたしの見るところでは これは 仏教の外から 物言いを言うだけではなく その中から しっかりした見解を明らかにする必要があるとということではないでしょうか。つまり そのような要請をわたしたちから提出してもよいように考えます。そういう質問になると思います。
- bananasand
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《われはブッダなり》 これが大馬鹿者 経験済みだと臆面もなく言う これが利口です ブッダの教えなど存在するわけがありません。 それが存在してしまうからブッダ葬送になるのは当然の帰結でしょう。 しかし、ブッディスムの真髄はこのパラドクスにはないのです。
お礼
bananasandさん ご回答をありがとうございます。 たぶん おっしゃるとおりだと思います。 いささか乱暴かつ簡潔に書いていただいたのですが 次のNo.7のご回答とも 同じ趣旨だと理解しますので――そちらへのお応えを先にわたしは書いたのですが―― その補足欄をも参照いただければ幸いです。 もっとも 《ブッディスムの真髄》が まだまだ 捉えられていないよというご指摘もいただいたような感じですので この質疑応答の成り行きにも応じて また再び ご回答を寄せていただければありがたいです。お待ちします。(今回の文面だけでは いまひとつ その先へは筆が及ばないように自認しました)。
- shift-2007
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>ブッダたちが集って そこで行なわれる対話・議論がどうなるのか いわゆる布教活動が行われるだけじゃないですか。 自分たちのようなブッダをもっと増やそうって。
お礼
なるほど 要するに インチキなブッダが出てくる場合をおっしゃっているのですね。まぁ 偽者は この際 論外としてください。 そして ふつうの真面目な〔自称〕ブッダたちの間で どういう話が交わされるかですが わたしの推測としては 直前のお礼欄にも書いたように けっきょく もうブッダのことは 忘れていくと思うのです。 なぜなら ふつうに人間の思想として・つまりもっと簡単に言っておのおのの生活態度として 人への思いやりを実践することと変わらないという結論に達するのではないか ということからです。 したがって その場合には 《布教活動》などありえないでしょうし あとは たしかに逆の見方として あなたの言われるように 上で論外とした《ブッダ増殖運動》が 出てくるということなのでしょう。なぜなら 直前のお礼欄に書いたように 幻想のブッダが 人びとの頭の中にまだ 漂っているという後遺症がある限り それに乗じて 詐欺・偽者が横行します。 要するに――ブッダに対して 好意を持っておられる方にはわるいですが―― 行き着くところは ブッダ葬送になると考えています。これは 健全な思想の方向とあり方だと考えるのですが みなさまは いかがお考えになるでしょう。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
んー、 法華経のことは知らないのですが、そもそも 私はブッダである は矛盾しているじゃないかと思うんです。 『私』がいてはブッダではいられないと思うからです。 私は優しい という人を信用できないのと同じです。ブッダを否定しているのではなく、自称ブッダを胡散臭く思うわけです。
お礼
んー。 早い話が ブッディストであると言う人は 大勢いるわけです。そのような人たちは 当然のごとく すでに今 実践をおこなっているわけです。そのとき 《わたしはブッダである》――《 I am a buddha.》というように表現したほうがいいでしょうか――と 言うか言わないかを別として けっきょくは みづから認識し自覚しているということではないでしょうか。小型のブッダであるのではないでしょうか。 そして――そしてです。ここからが もう一つの質問のミソなのですが―― もしそうではないと言う場合 つまり 《わたしはブッディストですが 小型でも何でも ブッダではありません》という場合 この場合には 次の二通りがあると考えられます。 ・ ブッダからおそわったのだけれど もうブッダのそのおしえを揚げて 棄てている。実質的に保っているが そのありようは すでに別の思想と して わたしの中に 生きている。 ・ ブッダは 人であったが もはや人ではない存在〔のようなもの〕 となっている。つまり その存在のあり方・生き方を わたしは崇めてい る。その間には 隔たりがある。だから わたしがブッダであるとは 考えられない。 たしかに これはまだ わたしの勝手な推測なのですが もしこのような二通りの場合に限られるとしますと とどのつまりは どちらも ブッディスムは 存続していないという結論に達すると思うのです。 揚げて棄てられた場合と 単なる幻想の観念と化したブッダを――つまりそれが《宗教》のわるいところだと考えるのですが――唯だ心理の中で漠然と思いに浮かび上がらせている場合とです。 どちらも 経験論としての哲学思想であった部分は それこそ大いに学ばれ活用されたとは思われるのですが あとは 要らなくなっている。つまり ふつうの倫理学などの問題であったという認識になるのではないでしょうか。後者の場合には 副作用として後遺症が現われていると わたしは 見るのですが。いかがでしょう。
- shift-2007
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ん~、brageloneさんの言葉は難しい。 もう少し平素な言葉で書くとこのQAももっと面白くなると思うんですが。 修行によって悟れるのですか? 別の言い方をすれば体系化されたシステムによってそれは可能なんですか。 それが出来るなら学校や習い事と同じですよね。 誰がこれに対して卒業証書をくれるんですか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。今回の質問は 同じブッディスムでも まったく見方・捉え方がちがっています。 すでに《さとり》を持ったという時点から出発します。それも ブッダと同じ程度のさとりです。 あとは そのことをはっきりと 宣言しますかという問いです。宣言したと同じ状態にあるという場合を含みます。 そして その場合 この法華経の文句と照らし合わせて どう考えるのか そのように問うています。 さらには もしこの法華経の表現が 気に食わないという人の場合には それでは とうぜん ブッダを対象として信じたり崇めたりはしないでしょうね?という問いを添えています。 (おそらく ここまで来れば ブッディスムは その人の中で破綻を来たすのではないかという わたしの魂胆があります。そうではないでしょうかという質問になっています)。 ですから 自称としての自分だけが認証したという形ででも われがブッダなりと宣言する人は その限りで すでに《卒業証書》を持っているという仮定です。仮定のまま――つまり わたくしが 質問趣旨にほざいたように 仮定・自称のまま―― ブッダたちが集って そこで行なわれる対話・議論がどうなるのか というもくろみです。いかがでしょうか。
お礼
如来寿量品の一節が 評判が悪いようですが その前後をも掲げておきます。(20080310記) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 考えられないほどの幾千万億劫の昔・・・ そのとき余は最勝の《さとり》に達し それ以来いつも余は教えを説いている。 多くの求法者たちを鼓舞し 《さとり》の智慧に安住させた。・・・ 〔《さとり》の境地を示し・・・の一節が入る。〕 かれらは余の肉身が完全に滅したと考え 遺骨にさまざまの供養をする。 余を見ることなく 渇望を生じ かくてかれらに正しい心が生じる。 この世の人々が心ただしく おだやかで 愛欲を離れた者となったとき そこで余は弟子の集団を集め ここグリドゥラ=クータ(霊鷲山)に余は姿を現わす。 そして そののちに 余はかれらに このように話すのだ。 《あのとき この世で余は入滅したのではない。僧たちよ。 あれは余の巧妙な手段なのだ。余は繰り返し繰り返し人間の世界にいるのだ。》 他の国土の人々から崇め尊ばれたときには 余はかれらにも余の最勝の教えを弘めるのだ。 ・・・(中略)・・・ 余の智慧の力はこのように光り輝き その際限はない。余の寿命も長く 無限の劫のあいだ続く。余は前世の所行を果たして この寿命を得たのだ。 賢き人々よ この点について疑うではない。疑う心を残らず捨てよ。 余はこの真実の言葉を語る。余の言葉は未だかつて偽りではないのだ。 ・・・ 余は世間の父 みずから存在して 一切の人間の庇護者であり医者である。 愚かな者たちの意識が転倒して 判断力を失ったことを知り 入滅しないで入滅したと見せるのだ。 それは 何故か。余がいつも姿を現わしていることにより 理性なく無知な人々は 信じなくなり 愛欲に狂い 快楽のために不幸な境遇に落ちるであろう。 しかし 余は絶えず世間の人々のあれこれの行為を知り 《どのようにして かれらを〈さとり〉に導こうか。どのようにして かれらに仏の教えを得させようか》と考えて 世間の人々にそれぞれ語るのだ。(岩本裕訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
補足
はづかしながら shift-2007さんは わたしにとって ソクラテスの産婆さんのようなのですね。こんなに多くのことばを費やして翻訳しないと 伝わらなかったとは 残念であり 恥づかしいです。 そうです。ふつうの生活態度の問題として ふつうの思いやりのいとなみであると言えばよかった。つまり ★ ブッダ葬送とはいわゆる親離れ、ひとり立ちのことですね。 ☆ ただ ★ それは正しいし必然だと感じます。 / 自分が求めているものが真理なのか依存なのか、そこら辺が運命の分かれ道ですかね。 ☆ と書いてくださったということは かなり道が開けましたね。そして もしそうなら もっと《われはブッダなり》の問題を指摘して 広く明らかにしていきたいと思うのですが shift-2007さんにも その方向でお願いしたいと存じます。(なにか おかしな運動になってしまったようですが なお質問のかたちで 広く対話を求めていくのがよいと思います)。 あれっ。それはそうと まだ 《補足要求》なのですか? どうしてでしょう? ★ 自分が求めているものが真理なのか依存なのか、そこら辺が運命の分かれ道ですかね。 ☆ この問題は 一方で 個人個人がその考え方や生活態度の模索の上で突き当たるものであるでしょう。そして 他方では ブッディスムが 思想にとってあるいは理論としての構成の上で その性格や特徴が どのようになっているかにかかわっていると考えます。つまり わたしたちにとっては これら両面において 広く対話をすすめていくという務めがあるように思います。 後者としては ブッディスムは あくまで実践思想であり そう言うほどに やはりあくまで 人為としての領域にとどまる理論であるということだと考えます。ということは 前者の生活態度の現場においても じっさいのところ なにかあの世のことであるとか 超能力のことであるとか そういう方面のことがらは まったく関係のないことだと言わなければならないはづです。 このような将来を見越した(あるいは もともと仏教はそうだったかも知れないところの)問題について その具体的なあり方は こうなのだといった視点などをも回答してくださると ありがたいです。また とうぜん 反対という立ち場の方もいられることでしょうから そのご見解を寄せていただいて 回答を深めていただければと思います。どうぞよろしくお願い致したいと存じます。