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キサーゴータミーの説話について
- キサーゴータミーの説話における母親の愛と死の関係について疑問を投げかける
- キサーゴータミーの説話は、子供の死を通じて人間の死と向き合いさとりを得る物語
- 母親の無知から始まり、ゴータマ・ブッダの教えを受けて到達するさとりの境地
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No.7です。 bragelonneさんの考えはわかりました。つまりは この母の物語を仏教の教えの例につかって いるのは いい例ではないと。そうかも知れないと思います。 最初の質問に そう記されていたら あとの私の応答は少しは違っていたでしょう。もっと言えば 仏教の教とは何か を質問されているように思います。bragelonneさんの考えられる 教えの適切な例をあげて なにを問題とされているのか 再質問されたらいかがでしょうか。あるいは そのような 例はなく 教えはない と主張されるのでしたら それを質問されたら どうでしょうか。 以上 失礼しました
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No.9です。仏教の教えの話でいい例がないのか 少し考えてみました、が よく分かりませんでした。 以下蛇足です。 私には、半狂乱の母は 子供の死が誰にでも起きる普通のことだと理解した時点でなぜ納得できる普通の生活にもどることが出来たのか、そこには飛躍がありよくは分からない。あるいはその煩悩消去を理解するには無理した理屈をこね回さないといけない。といったところです。 しかし、例えば、現代の某有名女流作家が青年期、壮年期には愛欲のおぼれ相当に苦悩されたようですが、突如 仏門に入られ煩悩を消去して涅槃寂静を目指しておられるのです。愛欲の煩悩に気がつき 煩悩を消去して 無常の真理に目覚めて自分自身 救済されたのではないかと思います。これは仏教の 例え話としては 理解されやすいようにおもうのです。愛欲の煩悩に共感でき、その煩悩を絶つことによって 空の世界がより理解でき 心が救われる という仏教の教えが 比較的 分かるように思われるのです。 しかし ほかの人にはなんとも理解できない話かもしれません。それは 一つには仏教という間口の広い話になっており 話題が絞れ切れていない ということに起因しているのではないか と思った 次第です。 以上失礼しました。
お礼
おうけい9606さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~ 私には、半狂乱の母は 子供の死が誰にでも起きる普通のことだと理解した時点でなぜ納得できる普通の生活にもどることが出来たのか、そこには飛躍がありよくは分からない。あるいはその煩悩消去を理解するには無理した理屈をこね回さないといけない。といったところです。 ~~~~~~~~~ ☆ 短くお応えするのはむつかしいですが この内容を受け容れるためには ○ ひとがほかの人の死に出会うことが たとえば《病気》や《苦》として人生観や世界観の基本として捉えなければどうしてもならないか? ○ 煩悩とは何か? のふたつの議論が不可欠だと考えます。わたしの立ち場は キサーゴータミーのかなしみをわざわざ議論(説法)の問題として取り上げることが問題だというものです。 次の瀬戸内寂聴のお話は これも同じく ○ 煩悩とは何か? のくわしい議論が出来て初めて判断できるのではないかと考えます。 《愛欲》は 宗教や思想にかかわりなく一般的な事象でありひとつの問題点ですが それを《煩悩》と捉えることは また別の問題なのです。 ですから簡単に言って ブディストは 《苦》や《無明=煩悩》とはどういうことかについて 思想哲学一般の場で説明し得て初めて 互いの対話が成り立ちます。概念が地続きになって初めて 相互乗り入れしての互いの研鑽がすすみます。 寂聴が ブディズムをつうじてその苦悩を克服することが出来たという場合 それの普遍性如何が問われます。愛欲に対してのブディズムの適用の可否・成否が問われます。それが出来て初めて 哲学です。 もしくは 経験科学の問題として捉えるのではなく やはり信仰の問題として捉えるかです。 信仰の場合には それがブディズムであるかどうかにかかわらず・またどれだけいかがわしいものであってもその本人の主観にかんするかぎりでは まづその事態は存在したものと受け留められます。 そして そこからです その信仰の経験事象にかかわる部分の吟味・検証が始まるのは。 口酸っぱいことを申しますが《仏教》とか《煩悩》とかの言葉を出すなら 日本人は 特に疑義もなく受け留めます。だからと言って その話が哲学として成り立つかどうかは 別の問題です。 そのような検証が まだまだ 成されていません。という問題なのです この質問は。 口幅ったいことを言っていますが これはもう数年来言って来ていますし その問題はなお手つかずのままだとさえ見えるほどです。 なぜなら わたしのアンチ・ブディズムの質問について 納得のいく答えを得たことは 最終的には ないからです。 言いかえると ここでのブディズム関連の質疑応答は このようなわたしのウタガイを持つその手前で止まっている。と 残念ながらそして僭越ながら 言わざるを得ない。こう考えます。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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こんばんわー、ぶらじゅろんぬさん。 おいらは仏教のことはあまり知らないし しゃべるのも苦手なので、 ポツッと置いときます。 おりびあを聴きながら。 http://www.youtube.com/watch?v=bZWQQ6Sy1fo 出会い 幻 こんな日。 ほぢゃ。
お礼
こんばんは にゅうとらるさん。ご回答をありがとうございます。 こんなふうに書いたことがあります。 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 次のような図式で捉えるなら いわゆるブディズムは 最初の(α)の自性清浄心を抜きにして話をこしらえている。このような物言いです。 ○ 自性清浄心のはたらき ~~~~~~~~~~~ (α) 自性清浄心をやどす《身と心》 (α‐1) いわゆるクリスチアニズムでは この自性清浄心の状態から《原罪》が生じたという要因を理論(神学)の中に置いて あとでそれがイエスによってあがなわれるという構成になっている。つまり ひとつのマッチポンプ方式でオシエがつくられている。 じっさいには 《へび》は 空である。物語の要素として登場するのみ。 それにしても 仮りに原罪を欠かすことの出来ない要素だとしても イエスのあとでは いちいちマッチポンプは要らなくなっている。 (β) 《有漏の種子》――欲望から何から世間のシガラミのようなものでしょうか――が身と心にくっつく。溜まる。言いかえると アーラヤ識やマナ識はそれじたい中性だが ただちに無明のはたらきが現われてのように 自分の内からも外からも 煩悩のゴミが溜まってしまう。 (β‐1) 修行によってこの有漏の種子を押さえ取り除く。 (ω) さとりにいたる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ですから 即身成仏ないし即得往生を打ち出すなら (β)即(α) というかたちにおいて(ω)のさとりがある。得られる。(β‐1)の修行は要らない。有漏の種子も 空である。自性清浄心でさえ 言葉・概念としては 空である。それらは仮りにこの経験世界にあっては現象しているが 空としてみればこれらを引きずることはない。いくら悩まされたとしても 空である。つまりその意味で 即身成仏なのだというのが――その動態として・過程として―― われわれのすがたである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それでは。
- Tefu_Tefu
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こんばんは bragelonneさん。 人間が病気になった時 より症状を悪化させるのは落ち込むことなんです。 「病は気から」と言うように 人間の自然治癒力を最高な状態にするには 患者の気分を良くすることだと思います。 そこでお釈迦様は 病気の原因を考えられそれを取り除くことにより患者の状態を良くすること=結果を考えられたんだと思います。(原因と結果) 八正道を行い 患者が希望を持てるように死んでも理想郷 涅槃静寂あるいは極楽浄土、天国があるよと言われたのだと思います。私は 何かを信じることは 病も撥ね退けると思います。 この世界の真理は 諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静(数学でいえば10^-24)の四法印だと思います。 涅槃静寂は限りなく0=無である不変の状態だと思います。現実には 変化から変化への一瞬でしょう。たぶん 理想郷です。 bragelonneさん 私はお釈迦様の悟りはこれら全ての事に気が付かれたのかも知れないと思います。釈迦は人間の病気を治そうと思ったのでは?
お礼
てふ_てふさん こんにちは。おひさしぶりです。ご回答をありがとうございます。 みなさん――と言いたくなるほど 《伝統》のちからは大きいようですね―― 穏健で無難なところで解釈されていますね。 でもですね てふ_てふさん この質問は――微妙ではありますが―― ブディズムの教義がどうであるのか? という問いではないのです。 ですから オシエについてはあまり触れません。 ただし そのオシエの説き方 これについては この説話の問題ともからんで来ています。 といったそんな感じなのですが まづは 次のように反応します。 ★ 病気 ☆ ではないと思いますよ。《苦悩》に落ち入ったわけでもなく ただただわが子の萎えた姿を見て茫然自失の状態になった。つまり 一時的な状態でしかないと思いますよ。 たぶん同意してくれると思います。 その上では――じつは 直後のNo.9の ok9606 さんもおっしゃっていますが―― ゴータマブッダのオシエとしては このご回答で述べておられるような内容でしょうし 一般にまづはそのように受け取られている。と捉えることが出来ます。 そして ここでは そのオシエ自体の問題としては触れないという方針です。 この説話にかんする問題としていちばんの難点は 次の要素部分だと考えます。 ☆☆(No.7お礼欄) ~~~~~ それにやはり《死というものを見たことがなかった》という物語の説明は どうも信じられません。 なぜなら カラシの実をもらいに一軒一軒家をまわって分かったことに どこの家でも死者を出しているのだという情況からすれば このキサーゴータミーの住むところの近所でも死者の出たことがあったはずです。葬儀に出たことがあったはずです。 つまり 説話は 登場人物をめぐる履歴について無理な設定をしている。と思われてなりません。 ~~~~~~~~~~~~~~~ これについては ok9606 さんも同意してくださったものと思います。てふ_てふさんも 同じお考えだと思うのですが? そしてそのあと どうするか? これは 追って考えたいと思います。 というわけで とりあえず この質問に投稿していただき ありがとうございました。とお礼をのべることになると思います。
No.5です。以下 蛇足です。 仏教の『一切は空である(変化する)』と説くその言葉は不変の真理と理解されますが、その言葉も一切に含まれおり、不変が変化するという堂々巡りを示しています。これは典型的な論理構造になっていると思います。この原理(公理)に従った各命題は論理命題です。公理を認められないなら その展開命題論理も意味をなさないでしょう。これらの論理系が仏教真理とおもいます。 しかし、真理の理解は仏教の教えの基礎の基礎とおもうのです。それは仏教の目的である救済に結びついてないからです。救済とは 仏教真理を用いて 人の心の苦悩を取り去ることだと思うのですが、このところが難解なところと思うのです。 さきの狂乱の母の例では、子供の死は 一切は変化する中の多くの死のなかの一つなのです。だれにでも普通に起きうる出来事なのです。ここまでは だれにでも理解されるでしょう。真理の理解です。 ここからですが 私は『誰にでも起きうる出来事(真理)なら 不可能な生き返らせる薬を求めることを諦めて 死を受け入れる普通の生活に戻り得る』ことを信じなければ救済には至らないと考えたのです。普通の生活に戻った状態は 煩悩を取り除いた空の状態であり 涅槃寂静というモノではないか という理解です。勿論、信じることができなければ 救済はできないのです。このような言葉を信じるとは 経験の場のなかにあるのです。 bragelonne さんの主張される非経験の場とは 大きく違うと思います。しかし この言葉を信じる ということがないと 私には 仏教の教えが理解できないということです。真理の理解は容易であっても 信じることは大きな飛躍がり 修業を通して信じる に至るようにおもうのです。それは仏教の教え(悟り)ではないか と思うのです。 私自身はNo.1で述べましたように 仏教と同じ目的の救済を考えてみたのですが 仏教以外の救済はいろいろあると思っています。むしろ 仏教以外の方がよく理解できます。仏教の救済の可能性は否定できませんが 限定された領域ではないか と思っています。 以上 失礼しました。
お礼
おうけい9606さん そんなにむつかしく考えるとは思いも寄りませんでした。 こんばんは。ご回答をありがとうございます。 だって 誰でも・つまり十中八九というより 九点九までの人が ひとの死に遭って かなしみ悔いをも覚え無念の思いをかかえ やがて受け留め受け容れざるを得ないようになります。 ここに オシエもサトリも要りません。あるいは 自然とそういう摂理を受け容れる知恵を会得して行くと言えばよいでしょうか。 身の周りのひとに死者を出したこと この事件に際して ★ 救済 ☆ といったことが話題にのぼること自体が 思ってもいませんでした。 ★ 人の心の苦悩を取り去ること ☆ と悲しみをいやすこととは 微妙に違っていて そのオシエとしての抜苦与楽というような理念と実践は 基本的に要らないと思うのですが わたしの認識がちがっていましょうか。 ★ 空ないし 空観 ☆ とは この経験世界とそこにおけるモノゴトは すべて相対的なものであるという意味であり それに過ぎないと思います。 そのあと 空だけれど その空なるものが かたちを持つものであったり人間の心であったりするということ。つまり うつろいゆくものであり言わば仮りの事象である。しかも いわゆる実存という考えをも摂り入れて その仮りのものごとについても 知識を尽くし知恵を尽くし心を尽くしてとうとぶ。そのように生きる。 こういった内容だと理解しています。 つまり どうしても解せません。どうして《オシエ》や《救済ないしサトリ》のほうに いまの話題ないし事件をめぐって 持って行くのかがです。 キサーゴータミーが《死というものを見たことがなかった》ことが信じられませんが もしその物語のまま受け取るとしても あとは《死んだ子が生き返らない》ことをさとすということ これだけの問題だと見ます。 経験則で いちど死んだなら もうそれっきりなのだという事実をつたえるしかないと考えます。 そして それだけです。 オシエなんか 関係ないと思います。 おうけい9606さん よく考えてください。 ブディズムの教義は どういうものか? という問題ではないのです。キサーゴータミーの困った状態 これについて ひとはどう対処したらよいか? です。 それにやはり《死というものを見たことがなかった》という物語の説明は どうも信じられません。 なぜなら カラシの実をもらいに一軒一軒家をまわって分かったことに どこの家でも死者を出しているのだという情況からすれば このキサーゴータミーの住むところの近所でも死者の出たことがあったはずです。葬儀に出たことがあったはずです。 つまり 説話は 登場人物をめぐる履歴について無理な設定をしている。と思われてなりません。 つまりは その設定の無理を超えて わざわざゴータマブッダの出番をつくって さとりや救いのことを織り込んでいる。ただの宣伝物語である。――このように考えざるを得ないというのが 正直な物言いです。 たぶんこの疑義を晴らす説明は もう出て来ないのではないかと思います。 一方的で決めつけた見解ですが それはぎゃくに すっきりする説明を求めているということですし あとはあるいは ブディズムに親和的な人たちは ほんとうにこの説話が 設定も中身もよく描かれていると思っているのか? こう問い続けるということを意味します。 申し訳ないですが 今回のご説明は おおげさである。率直に言って こう思います。 ★ 仏教真理 ☆ とほかの《真理》とがあるというふうに言われているのでしたら それは その問題もあって おかしい。これも率直な物言いです。
- kurinal
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bragelonneさん、こんばんは。 では、「人の死」とは?
お礼
くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 またまた するどいツッコミですね。 大上段からぢゃないですか。 ★ では、「人の死」とは? ☆ ゴータマブッダの言うことには納得が行かないと大見えを切ったからには では 答えます。問い求めの一過程としてください。 ひとの死とは何か? 1. 百年内外の時空間を生き動き存在するということです。 2. うつろゆきます。 3. その上でわが心なる非思考の庭について言うことがゆるされるならば その一世紀ほどの人生とその後のあり方というのは その存在が 《真理がすべてにおいて真理である》世界に憩うことです。 4. ここで《真理》とは すべてにわたって何があったか・何がどうしてどのように起こったか・すべての人においてそれぞれ どのように考え何を思っていたのかなどなどがすべて分かっているという状態を言います。 5. 特には一般に中傷誹謗による誤解を受けたりさらには社会的生命の剥奪などといった仕合わせに遭ったわが心の情けなさや怒りや悲しみやそのほかいっさいの思いについて 分かっているよという存在が信じられるという状態を言います。某エコノミストのような境遇が 例になります。 6. 以上が 死ぬということです。 なおNo.5のお礼欄にかかげたスッタニパータの語句で 次の表現には 留意してよいと考えなおしました。 ▲ (スッタニパータ) ~~~~ 1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 ~~~~~~~~~~~~~~~ 《怒りを制する》必要は 基本的に言って ないとわたしは考えるものですが そのあとの ▲ ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 ☆ には注目しました。というのは 《旧い皮を捨て去る》というのなら 本体――存在――は無くならない。存続すると言っていると思われるからです。 上のわたしの説明の(3)以降は ふるき人を脱いであたらしき人を着ることを言っているからです。 このように考えます。どうでしょう。
No. 1です。仏教が分かって回答しているわけではなく あくまで私の理解から出発しています。少しでも参考になればということです。 死をしらない母がいたとしても 仏陀の教えを語る上では問題ではないと思います。まずは日常の死とは何かを教えることから物語は始まるというだけのことように思われます。 難解なのは「不死の境地(涅槃)を見ないで百年生きるよりも 不死の境地を見て一日生きる方がよりすぐれている」と仏教真理を説く場面です。『不死の境地』の代わりに『涅槃』を用い、涅槃を仏教の説く理想世界としますと 理解できない命題ではないと思われます。しかし 子供の死に対して半狂乱の母に この言葉でなぜ説得しなければいけないのか、これでどうして説得できたのか、あるいは無常を説く仏教なのになぜ不死をとくのか などよく分からないというのが実感です。 分からないままですが、私の理解は以下のようなところです。 (1)仏教を語る核心の言葉に空があります。森羅万象を観察すると全て因果によって変化していきます。『不変なモノはない』という真理です。論理構造の原則(公理)の役割に相当していると思います。原則は証明できないが固定(不変なもの)されているとして論理展開されるわけです。『一切は空』の言葉は不変であるが 展開される森羅万象はすべて変化します。不死の境地は死がない永遠の境地であって、不変という意味で空という言葉と同じと思われます。ここで なぜ不死という言葉を使用したのかですが、不変な空を 子供の死という身近な変化を捉えて 母用に解説したのではないでしょうか。しかし 不変なものがあるということが理解できたとしても なぜ問題母は救済されたのでしょうか。空という真理の中で生かされていると理解すれば 人は安心できる 納得した人生を得るのでしょうか。いやそうではなく 真理の理解から救済までにはあるギャップがあると思います。それは真理を信ずれば救われることを信じたのではないかと思うのです。信じることで わが子の死は多くの変化する普通の心の大きな負担にはならない付属的現象の一つと理解し 安心、納得人生を得ることになるように思うのです。真理から信じるまでは 修業工程ということではないでしょうか。 (2)あるいは不死の境地を拡大解釈します。言葉は絶えず変わっていきますが一度発した言葉は記録(記憶)することができます。記録された言葉が理解される限り 言葉は延々と不変ということです。記録の世界は不変です。そこには生から死という変化はないのです。瞬間瞬間の森羅万象を切り取った不変の世界があると理解されます。子供の生きている瞬間瞬間は不変であり不死なのです。もちろん死後の世界も不変(不死)なのです。瞬間瞬間の∑は 日常の現象(生活)を見方をかえてみていることに相当しています。不死の境地とは ありのままの日常現象を見方を変えて観ることと等価ではないか と思うのです。不死の境地を理解するということは 不変な世界があることの理解であり 子供が生きている不死の真理の世界なのです。その世界の存在を信じことにより安心、納得人生を得るということではないかと思うのです。もちろん 子供の死後の不変な世界が重なっていても問題ないのです。重要なことは不死の境地とは日常現象を見方をかえてみるということです。日常現象(死も含め)は だれもが経験してきた普通の不変とみることもできるでしょう、だから子供の死を受け入れ 安心して納得人生を得てほしい。ここにおいても このような不死の境地の存在を信じるに至る修業工程は必要と思います。 仏教の救済とは 真理の理解の上に信じることが加って はじめてなるものではないかと思います。 以上 失礼しました。
お礼
おうけい9606さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 残念ながら 納得行きません。 たとえば ゴータマブッダは 次のように語ったと言われます。 ▲ (スッタニパータ) ~~~~ 【ブッダのことば】スッタニパータ<中村 元訳> http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm 【 第一 蛇の章 】 <1、蛇> 1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ キサーゴータミーがどのようにわが子の死を受け容れ 生き返らせることを断念したか また何をさとったのか この問いを立ててブッダのおしえを理解しょうとするその意味は たとえば ここに引いたオシエとはいったいどういうことなのか? これを理解することにひとしいと考えます。 《不死の境地》とは何か? という問いが立てられてしかるべきなのと同じように ここで ▲ この世とかの世とをともに捨て去る ☆ というのは いったいどういうことか? と問うことだと考えます。 ★ 不死の境地は死がない永遠の境地であって、不変という意味で空という言葉と同じと思われます。 ★ 不死の境地とは ありのままの日常現象を見方を変えて観ることと等価ではないか と思うのです。不死の境地を理解するということは 不変な世界があることの理解であり 子供が生きている不死の真理の世界なのです。 ☆ 失礼ながら おうけいさんは この説明で納得されましたか? しかも スッタニパータの伝えによれば ゴータマ氏は 《この世と かの世とをともに捨て去る》と言っています。いったいどういうことか? 《永遠の境地》ですとか《不死の真理の世界》ですとか もしそれらが《かの世》なら それをも捨て去るとはどういうことか? 問いは いくらでも出て来ます。 最初に わたしは悪役をすでに引き受けていますから その《本性》を顕わしましょう。 すなわち ブッダのオシエとは こうです。 ブッダとは 何か? さとりである。 さとりとは 何か? ブッダである。 という堂々巡りの説明方式だということです。中身は説明されていません。玉ねぎの皮を剥くことに通じます。言いかえると 《ブッダの境地があるらしい》ということだけで 二千年来ています。 ▲ (スッタニパータ) ~~~~~ 【 第一 蛇の章 】 <2,ダニヤ> 19 師(=ゴータマ氏)は答えた、 「わたしは怒ることなく、心の頑迷さを離れている。マヒー河の岸のほとりに一夜の宿りをなす。わが小舎(すなわち自身)はあばかれ、(欲情の)火は消えた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ うんぬんとつづきます。 検証しえないことを・あるいは検証しえないかたちで 自己表現している。と捉えます。《ニルワーナ(涅槃寂静)》とは ウソだと考えます。それが何かと尋ねると ブッダのさとりだと答える。さとりとは何かと訊けば 涅槃寂静であると。・・・ ▲ (同上) ~~~~~~ 【 第4 八つの詩句の章 】<6、老 い> 804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳にたっせずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。 805 人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。 806 人が「これはわがものである」と考える物、──それは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理を知って、わがものという観念に屈してはならない。 807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛したひとでも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることはできない。 808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。 809 わがものとして執著したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳(モノオシ)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(アンノン)をみたのである。 810 遠ざかり退いて行する修行者は、独り離れて座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。 811 聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(モノオシ)みもかれを汚すことがない。譬えば(蓮の)葉の上の水が汚されないようなものである。 812 たとえば蓮の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。 813 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執著して考えることがない。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ それは 何か? さとりである。さとりとは何か? この聖者ブッダである。・・・・と《旗印》が延々と堂々巡りで次から次へと繰り返し掲げられるだけである。 ★ 仏教の救済とは 真理の理解の上に信じることが加って はじめてなるものではないかと思います。 ☆ 救済とは何か? 真理の理解である。真理とは何か? 仏教なるオシエである。では《人間が信じる》とは どういう行為か? ブッダを・そのさとりを信じるのである。さとりとは 何か?・・・・ おうけいさんは ご自身で納得が行っておられるのでしょうから それはもう仕方がありません。 わたしは 納得が行きません。と率直にお応えするしかないと思います。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
異論が挟まらないように補足しておくよ。 幼子は自らの命の全てを母に預ける。 赤ちゃんならまるっきりそうだろう。 そして母にとって我が子そは自らの命に等しくなる。 その自らの命の片割れを失った。 そして死について深く考えるように釈迦の薦められた。 この我が子を失った母の心境はおおむね現代でも同じ。 返す返すも命題は死を知らなければ生きる事が出来ないと明言したかのような過去の信仰だ。 処刑されたイエスに学ぶのも同じことだ。
お礼
読み取れません。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
母にとっての子とは我に等しい。 今まで死屍累々と垣間見た死のありようだけでは死は理解できなかったが、我が子の死を我の死と悟った。 その悟りを薦めた釈迦は要するに死を理解しろと言っただけ。 こういう前提でN2は回答しています。
お礼
ごあいさつをはぶく無礼をゆるされたし。というのも 自分の考えやその世界の中にあってその世界のことだけを あなたは 語っています。ひとの話を聞いていない。ということです。 そういう前提で捉えるというのなら・つまり ★ 我が子の死を我の死と悟った。 ☆ と言うのなら 《子どもの薬》を得ようとどうして したのか? 生き返らせたいと どうして思うのか? 答えていません。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
こんばんは。 久しぶりの悪ふざけしないで参加します。 平均寿命が短く死体が野ざらしにされる事も多かったであろう当時に置いて成人した後どころか、物心つく前から死は身近であっただろう。 死んだ。 または、さらされた屍を観る。 これは明白でも、 死ぬ。 これに実感が無かったのではないか。 要するに死を理解しろ。 それがお釈迦様の悟りである。 私はばかばかしいからゴルゴムに置き換えている命題です。 私がぶちあげているのは、死んだまま屍をさらす自らの生きざまを理解しろ。 信教の問題で死を通過する儀式は意義があるのですが、生きる事について切実に死に直面するとは何だろうかと考えています。
お礼
ご回答をありがとうございます。 問い求めとしては No.1のお礼欄にさらに【Q‐4】からつづく問いを掲げましたので それについてもご回答に際して参照していただければさいわいです。 ★ 生きる事について切実に死に直面するとは何だろうかと考えています。 ☆ という主題では この物語においては ないようだと思うのですが いかがでしょうか? そちらへ持って行ってもよろしいでしょうが それとして話は別だというかたちになると思います。 いえ けっきょくは同じ主題になるのでしょうが ことこのキサーゴータミーの場合にかんしては それまで《死というものを見たことがなかった》という或る意味で特殊な場合ですから そこにまづは焦点をあてて行きたいとは考えます。 言いかえると 《死というものを直(ぢか)に経験していない》場合には 《生きる事について切実に死に直面するとは何だろうか》という問いは まだ始まっていないと思われるからです。 つまり 同じ主題になるだろうと考えましたが それは 段階があるということになろうかと考えます。 まづは キサーゴータミーの特殊な場合についてです。 ★ ~~~~~ 当時に置いて成人した後どころか、物心つく前から死は身近であっただろう。 ・・・・ これは明白でも、 死ぬ。 これに実感が無かったのではないか。 ~~~~~~~ ☆ この意味がよく読み取れません。身近であるなら 《実感》もあったのではないかと考えるのですが? ★ ~~~~ 要するに死を理解しろ。 それがお釈迦様の悟りである。 ~~~~~~~ ☆ 申し訳ないけれど これについてもよく飲み込めません。 《死》は すでにそこに朽ちてしまったからだが横たわっているわけですよね。《理解しろ》とか言われても そのままの事実ではないかと思うと どうして そうなるのか? また その理解が《悟り》なのだと言われても なかなかむつかしいように思います。 ならば葬儀関係の人たちは ゴータマブッダと同じさとりを得られたということでしょうか。と皮肉のひとつも出て来てしまうのですが?
分からないままに以下私の感想です。ピントがずれていたらご容赦を。 この物語の理解ですが 私は『子供を亡くして悲しみのどん底の母を救済するために 仏陀が真理を分からしめ 救済した 話』と思います。 第一の問題はこの母の心情は何か です。不条理な死に方をしたと思った母はなんとか薬によって生き返らそうと思ったのですが どのようにしてそれを手にいれてよいか分からなく途方に暮れているという状態と思われます。 第二の問題はその状態の救済とは何かです。薬を追求する方法は 現在でもその薬は発明されていないでしょうが 残されていると思います。i PS細胞を使ったクローン再生はどうでしょうか。あるいは死亡に至った原因を追究し二度と同じ不条理な死には至らせない対策をたて あなたの子供の死は無駄ではない という説得をするのです。あるいは方便を使い子供は見えないだけで生きていると信じこませるのです。いろいろな救済方法が考えられますが 仏教の無常とか空とかの真理を説き 煩悩を取り去り 救済する というは 救済手段の一つではないかとおもうのです。母が薬を求めているなら 多数の同情者は それを一緒に求めて行く のが大きな救済策とおもうのです。それが叶わなければ次善策があると思うのです。結果として母がこれでよしと納得することが救済と思うのです。仏教の真理は あくまで一つの方法と思います。 第三の問題は 仏教の真理を理解したことだけでは この母は煩悩を取り去り涅槃寂静の境地には至らないと思うのです。理解は論理的思考をしているだけと思うのです。理解を超えた仏教真理を信じるという工程が必要と思うのです。修行によるのか万巻の経典を読み解くのか 少なくとも安直にはその境地に至らないと思います。そのような工程を経てこの母は救済されるようになると思います。 仏教の目的が人の救済としますと 救済方法のなかの一つであって しかも大変な努力が必要と思われます。仏教(宗教)の救済の限界を感じます。 以上失礼しました。
お礼
そうですね。まづは おーけい9608さん こんばんは。お久しぶりです。ご回答をありがとうございます。(カントールの対角線論法の質問で 回答してくださるかと思っていました)。 そうですね。 まづわたしは このキサーゴータミーがわが子の死に遭うまで《死というものを見たことがなかった》とは知らず とうぜん知っているものと思って ゴータマの説教は 筋が違うと断定していました。 それはそれとして けれども《死の経験がなかった》とひと言ことわっているから話が通るということがあるのだろうかという思い(疑義)もあるにはあります。【Q‐1】 です。 おうけいさんのご見解は 《救済には限界があると感じられるが それでも〈仏教真理〉を説かれて さらに修行を経る見通しの上で キサーゴータミーはすくわれるであろう》といったところでしょうか。 たぶん 伝統にのっとっているでしょうし 大方の見方もこの見解にかたむくものであると思われます。 ただし 【Q‐2】のごとく 《死の未体験》を前提としたうえで 説話は何を語っているのか? つまり けっきょくゴータマブッダの説教をつうじてすくわれたという内容として受け取るとすれば それは どういう事態か? つまり《説教》の何がキサーゴータミーのさとりをもたらしたのか? この世で人は死ぬという経験則が分かったことが さとりの中身であるということでよいのか? そんなことで よいのか? なぜなら もしそうであるなら およそふつうの人間はふつうにその《預流果》というさとりを得ている。ということになります。そういう事態として受け取ればよいのか? といった疑義は わたしのように天の邪鬼を意図的によそおうのでなくても 生じると思うのですが どうなんでしょう? とりあえず いまは最初のご回答でもありますので 答え(やり取りとしての)を保留して 原文から いまの《さとり》をキサーゴータミーが得るところを抜き書きしておきたいと考えます。 ▲ 〔キサーゴータミーの説話(赤松孝章による)〕 ~~~~~~ 5 ・・・このように考えた時,彼女の子供に対する愛執の弱き心は固きものになった。 5‐1 彼女は子供を森に捨てて,師のところに近づいて礼拝して一方に立った。 5‐2 その時師は「あなたはひとつかみの白カラシの種を得ましたか」と言った。 5‐3 「得ませんでした。尊師よ。村全体において,実に,生きている人より死んだ人の方が多いのです」と。 5‐4 その時師は「あなたは『私の子供だけが死んだ』と思い込んだ。諸々の衆生の常住の法はこれだ。大洪水の如き死の大王は思いの尽きることないすべての衆生を運び去り,苦界の海に投げ入れる」と言って,法を教示しながらこの偈を述べた。 6 「子供や家畜に気を奪われて,心が執着している人を 死はさらって行く。眠れる村を大洪水が(流す)ように」と。 6‐1 (師が)偈を説き終わった時,キサーゴータミーは預流果[=さとりに向かう流れに入った宗教的境地]に到達した。また,ほかの多くの人々も預流果などに到達した。 6‐2 さらに,彼女は師に出家を願い出た。師は比丘尼たちのところに(彼女を)送り,出家させた。彼女は(出家者が守るべき)戒律を授かり,「キサーゴータミー尼」として承認された。 6‐3 彼女はある日,布薩[=仏教教団の定期集会。月に二回,半月ごとに同一地域の僧が集まって自己反省し,罪を告白懺悔する集まり]の屋舎で,(灯明係りの)当番が回ってきて,灯明に明かりをつけて坐っていた。 6‐4 灯明の炎が消えたり点いたりするのを見て, 「かくの如し,かくの如し。これら衆生も,生じたり滅びたりする。 涅槃に達したものだけは(生滅が)知られることがない」 6‐5 と(灯明を認識の)対象としてとらえた。 6‐6 師は香の(焚きこめられた)部屋に坐って,光明を放って彼女の面前に坐って次のように語った。 「ゴータミーよ,かくの如くこれら衆生は灯明の炎の如く 生じたり滅びたりする。 涅槃に達したものだけは(生滅が)知られることがない。 このように涅槃を見ないで百年生きるよりも, 涅槃を見て瞬時を生きる方がよりすぐれている」 6‐7 と言って,結論づけて,法を教示しつつこの偈を述べた。 「不死の境地を見ないで百年生きるよりも 不死の境地を見て一日生きる方がよりすぐれている」 6‐8 と。ここに言う「不死の境地」とは,死のない領域であり,「不死なる大涅槃」という意味である。その他(の語義解釈)は前出と同じ。 6‐9 キサーゴータミーの教説が終って,無碍解[=なにものにも妨げられない理解と表現能力]によって阿羅漢[=小乗仏教における最高の階位。拝まれるべき人。尊敬されるべき人,の意]に住した。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【Q‐4】 [5‐1]で かのじょは《子供を森に捨てて》 師のところに行ったとあります。そんなに簡単に もはやシカバネだからと言って 捨て去ることが出来るのか? これは インドと日本とのナラワシの違いなのか? 【Q‐5】 [5‐4]では 《諸々の衆生の常住の法・死の大王》などと言わずに おうけいさんのようにクローン再生のことをほのめかすとか あるいは 同じく指摘されているように ★ あるいは死亡に至った原因を追究し二度と同じ不条理な死には至らせない対策をたて あなたの子供の死は無駄ではない という説得をするのです。 ☆ といった話を語って聞かせる手もあるはずだとは思うのですが その点では どうか? 【Q‐6】 ★ ~~~~~ いろいろな救済方法が考えられますが 仏教の無常とか空とかの真理を説き 煩悩を取り去り 救済する というは 救済手段の一つではないかとおもうのです。 ~~~~~~~~~~~ ☆ と言えるとき それでは 《死苦》をそのまま受け止め見つめることが 果たして救済策なのか? いえ そうなのでしょうが この場合は 特殊です。なぜなら それまで《死というものを見たことがなかった》のですから。だから 生き返るとも思ったのですから。 つまり 死ぬと もう生き返らないということを どのように納得させたのか? ここでは決して明らかではありません。かのじょは 《5‐3 村全体において,実に,生きている人より死んだ人の方が多いのです》と知っただけです この物語に従うかぎりで。 生き返らないのだぞとさとしたでしょうか? どのようにかのじょは納得したのでしょうか? 【Q‐7】 すなわち ▲ ~~~~~ 6‐6 ・・・ 「ゴータミーよ,かくの如くこれら衆生は灯明の炎の如く 生じたり滅びたりする。 涅槃に達したものだけは(生滅が)知られることがない。 このように涅槃を見ないで百年生きるよりも, 涅槃を見て瞬時を生きる方がよりすぐれている」 ~~~~~~~ ☆ このオシエで 納得しえたでしょうか? その子どもは 《涅槃を見て瞬時を生き》た・つまり 短い生だったが 《涅槃を見た》のだということなのでしょうか? これが ★ あるいは方便を使い子供は見えないだけで生きていると信じこませるのです。 ☆ といった事態なのでしょうか? 【Q‐8】 [6‐7]の《不死の境地》 これは いったいどういう《すくい》なのか? こういった問い求めがなおまだ待っているように思われますが どうでしょう?
お礼
とりあえずひと安心です。 おうけい9606さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 よかったです。 ★ ~~~~~ この母の物語を仏教の教えの例につかっているのは いい例ではないと。 そうかも知れないと思います。 最初の質問に そう記されていたら あとの私の応答は少しは違っていたでしょう。 ~~~~~~~ ☆ たぶん――当事者が裁定者になってしまいますが―― 中を取って 最初のご回答に対して はっきりと《説話の設定》とオシエとの関係が ぎこちないのではないか? と重ねて尋ねていればよかった。ように思います。 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~ Q‐1: 母親になった人が 《人の死を知らなかった》ことがあるだろうか? ☆ ちなみに漢訳経典では 母親は《老母》となっているとか。ならば Q‐1は 《ない》と答えざるを得なくなる。・・・ ・ 前掲 赤松孝章論文 § 4.漢訳経典の説話 ( p.13 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここまでは記したつもりでしたが たぶんいつものゴータマブッダの悪口質問だと受け取られてしまったのでしょう。 もう少し自分の田に水を引きますと: ☆☆(趣旨説明欄) Q‐3: つまり 人間が死ぬということを知って さとりが得られたといった話は そのまま受け取ることが出来るか? いったいどういう説話なのか? ☆ ですから 《さとり》一般ではなくまた《おしえ》一般でもなく このキサーゴータミーの場合のさとりとは何か? が主題であるとは言っていたと思うのです。 ☆☆ 人間が死ぬということを知って さとりが得られた ☆ これは どういう中身なのか? ここに焦点をしぼっていますから。 さて汗をかきつつの自己弁明はこれくらいにしまして: ★ ~~~~~~ bragelonneさんの考えられる 教えの適切な例をあげて なにを問題とされているのか 再質問されたらいかがでしょうか。あるいは そのような例はなく 教えはない と主張されるのでしたら それを質問されたら どうでしょうか。 ~~~~~~~~~ ☆ これがあんがい むつかしいようなのです。 これまで何度となく問い求めの材料を提出して来ましたが そうかんたんではないようです。 ひとつに さとりとは何か? といった一般論は 回答者の回答内容が焦点として拡散します。いろんな論点にひろがります。 具体例を特定して一つ挙げる場合 その特定の主題ないし問題に限定される傾向があります。とうぜんだと思われるでしょうが 特に悪口のばあいには それは特殊であって ほとんど例外だと見なされてしまいます。 ブッダの美女マーガンディヤー事件などは よい具体例だと思うのですが ゴータマブッダのオシエ全般から見てほとんど取り上げられません。取るに足りないとでも思われているようです。 ブッダは神か? というたぐいの問いは ずいぶんと広く回答が寄せられますが 問題が拡散しがちです。ケリがつきがたい。ようです。 あんがい むつかしい。というのが これまでの経験です。 この問題提起につきましては それとしてさらに考えてまいります。 そこで いまふと思ったのですが いまいちどご無理を言うわけにはまいりますまいか。 つまり いまの質問の趣旨に沿ってあらためて回答をいただくわけには行かないでしょうかというお願いです。 ★ ~~~~~ この母の物語を仏教の教えの例につかっているのは いい例ではないと。 そうかも知れないと思います。 最初の質問に そう記されていたら あとの私の応答は少しは違っていたでしょう。 ~~~~~~~ ☆ つまりは言いかえると ★ この母の物語を仏教の教えの例につかっているのは いい例ではない。 ☆ この見解で いちおうの結論としてよいか? という問いになります。 質問者としましては それでよいと考えます。 キサーゴータミーの説話は ブディズムの《説話》としてもオシエの内容説明やその発展としても ふさわしくない。その登場人物の設定に無理がある。この結論で じゅうぶん満足ですから。 つまりのつまりはです: ★ 最初の質問に そう記されていたら あとの私の応答は少しは違っていたでしょう。 ☆ とも記されてありますから いちどうかがっておくのがよいと思ったというところです。 いづれにしましても ゴータマブッダ論はさらに問うてまいります。 あらかじめ 今回のご回答について お礼申し上げます。ありがとうございました。