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無意識を鍛練する方法
無意識を鍛練する方法を教えてください。 曖昧な質問ですが、なんでもかまいませんのでご教唆お願い申し上げます。
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- terraterra
- ベストアンサー率0% (0/8)
無意識を鍛錬するってどういう意味なんでしょう? 気付く もしくは 目を覚ます それだけでしょう?
- metalogue
- ベストアンサー率68% (11/16)
意識可能だということは、意識内容がそもそもデジタル化に向いている場合だけでしょう。内容が矛盾していた場合、無理に意識化しようとするというのは大脳にとっては大変な負担で、もし意識すればYes、No、Yes、No、・・・といった反復に陥ることにもなります。ですから、そこに意識しないでおく必要性が出てくると思われます。 ところで身体は相矛盾するもののバランスの上に成り立っていますから、本来意識すべきものではなく、無意識下に置いた方がうまくいくわけです。 そこで無意識がもし鍛えられたとすれば、身体の動きが鍛えられていることになりますから、禅や武道のように身体からのアプローチが取られることになります。 なお武道と哲学の関わりについては、「韓氏意拳の哲学 FLOW」などが参考になるかもしれません。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
どうも意識とはほんとうに、ちょっと、仮だけ、瞬間のスポットで照らすだけですね。あとは全部そういう昼間の明かりから隠れているというか、透明すぎて気もつけない。 そしてそういう気付けない大部分のところのどの部分を、どの側面から、何に向けて(何のために)鍛えるのか。 鍛えるというのは、何かの力や能力をつけることなのか、自分の都合のいいように指揮・命令・実行させることなのか。エゴのその場での、一時的な便益のためなってもらうことなのか。 それとも、真理や、人類愛、世界愛のため、或は宗教的真理・理念に生きていくことに抵抗したりしないで、むしろそれに沿って存在できるようになることを鍛える、といっているのか。 ご質問の次元のことは曖昧なのは、当然なのですが、何をどう回答したらいいのかな。 “教唆”って、何。“教唆犯”って知っている? つまり、“教唆”ってね、入れ知恵してね、唆して(そそのかして)、こちらに都合のいいことへと差し向けることではないですか? それでは何を“教唆”申しあげましょうか。何を“示唆”もうしあげましょうか。 1. 自分の目的と願いをしっかり確認することが第一です。 2. 次はそれに沿って、全ての行為と生活、呼吸、食事、睡眠をすることです。 3. 数時間でも、数分でも全てを取り払った後の、とことんの何もない自分に為ることです。その仕方を教えているのが、いろんな宗教にも、禅宗にもあるということです。自分と世界って、畢竟して何か。 言葉や分析や知識ではなく、何もかも取り払った自分として。 4. そういう中での、習慣をけいせいしていくことです。 ご質問者の無意識ですか、これって、スポットの当たらない意識でしょう?そこに習慣というものがあるのではないですか。どんな習慣にあるか。いい習慣を形成することが、その無なる意識に抵抗されたり、軟弱性からでていける、基本でしょうね。 がんばってください。
- noname002
- ベストアンサー率36% (97/264)
「無意識」と仰っているのは、精神分析方面で言われる潜在意識とか意識下の領域ということを意味していらっしゃるのでしょうか。 それでしたら結局は「顕在意識を鍛えるに如かず」ということになるかと思います。 とくに宗教的な方法にこだわらないと仰るのであれば、ふつうに日常の生活のなかの大小あらゆる経験・体験を、ただ流されていくのではなく、自覚的に、大切に、しっかりと味わいながら積んでいくというような生活態度を心がけることでよいのではないでしょうか。 それによって顕在意識から潜在意識へフィードバック的に鍛えられることに繋がっていくだろうと思います。
- adaypajimy
- ベストアンサー率20% (201/964)
他の回答者が言うように、無意識は判断を司りません。単に無意識を教化して意識に改善をはかりたいでしたら、禅を組んで自己の無意識を探索するか、成功哲学の本やスピリチュアルの本を毎日読んで、自分に暗示をかけることで、意識に変化を生じさせることができるかもしれませんね。
- magga
- ベストアンサー率15% (56/359)
無意識は他の方も言っているように、なんともいえません。たとえ無意識があったとして、鍛えられると、仮定しても。認識できないので鍛えられたかどうなのか。あるかどうか。…無意識だとしているところを認識すれば無意識ではありませんw 上座仏教ではサマタ瞑想の無色界禅定の最後の段階で悲想非非想処定があります。そこを目指してみては如何でしょう。 まずは色界禅定から。 問題の起こりにくい「生きとし生けるものが幸せでありますように」などに集中する慈悲の瞑想かアーナパーナサティ。慈悲の瞑想はオススメです。暇な時間は常にこの念で埋めてみてください。 いつの間にか人間関係が円滑になっていく感じがあります。 ヴィパッサナー瞑想も平行してオススメしておきます。無意識を探求するより、意識可能な範囲の探求を進めてください。
- Diogenesis
- ベストアンサー率49% (859/1722)
哲学カテでの御質問なので,あえて反問してみます。 御質問の内容は 無意識なるものが実在し, それを知覚したり操作したりすることができ, かつ筋肉のように鍛錬できることが前提となっていると考えられますが, この前提に疑いの余地はないでしょうか? 明確な定義も共通認識もないままに無意識をあれこれ論じても 空虚なことばの羅列にしかなりません。 無意識よりも前に鍛錬すべきものがあるように思います。
- atyaatya
- ベストアンサー率17% (170/959)
座禅を行います。 リラックスした体勢で行ってください。無理な姿勢ですと、其の姿勢から来る圧迫感に耐え切れず、座禅に没入できません。 姿勢を正しくなどと言われますが、そんなしきたりや、作法など無視します。 何もかも無視し、自分が最も安楽であると認識された姿勢で、静かに雑念から逃避してください。