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この世の全ては…

哲学がすごく好きでした。 子供の頃から、そういう分野に興味がありましたが、そういう学科はなく正直餓えていました。 ネットが普及したおかげで、気軽に色々な疑問や考えをネットで議論することができ、同じように考える人もたくさんいることを知り、その種の本もいくつか読むことができました。 どうも色々考えた末、この世の全てのありとあらゆるものは愛によってできているという答えが自分なりに出てきて、自分なりに納得がいき、確信みたいなものも持てるようになりました。 それは大分前のことになりますが、それからも色々実践や勉強を重ねていき禅のほうも勉強しました。ちょっと不思議なことも色々と起こりました。 東大級の学力を持つ方とお話ししたところ、それは文学的ですね というお答えでした。 この世で最も尊い方にお話したところ、それは辛かったろう というお答えでした。 皆さんはどう思われますか? ちなみに最近のものに限って言えばそうではないものも多いのではないか ということでした。 永く生き、色んなことを経験した場合、どうも因果律、行ったことの+と-がきっちりと計算されていて、その分が本人に返ってくるようにはなっているのですが、それよりも、愛やら感情やら、もっと複雑な物に傷ついたり、与えたり、或いは解き放ったりした場合のほうが、エネルギーやら評価が高いようなのです。

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回答No.9

愛は執着があるような さらりとしてないような いろんな感情がくっついているような つながっていたい 欲求のような 複雑さがあるが 朝のすがすがしいすっきりとした空気のような 冬の冴え冴えとした星空のような 澄みわたった波紋ひとつない 水面に映る月のような さやけさ がない

hosiboshi
質問者

お礼

そうですね。 丁寧なお言葉(詩?)をありがとうございます。

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回答No.16

むずむずと腹の底から湧き起こった我欲(個人的に実を食べるという行為)のために 生命の木の 決まりもしくは掟もしくは絆が破られ調和が崩れた 調和的世界から個の私利私欲の発生 禁断の実をこっそり食べていた それがばれた イブの欲望なのではなく蛇のせいにした 蛇の力(ヨガではクンダリーニ)の生ずるところを隠した。 だから蛇は恥ずかしがって 葉っぱで隠してくださいと言っています とイブは言った 私利私欲のために禁断の果実を食べ それを他のせいにする その知恵の使い方が邪、潔くないことが神は気に入らなかった イチジクの葉っぱで隠したのは そばにイチジクの葉っぱがあったから アダムとイブの食べ実は林檎ではなくイチジク 現行犯で見つかったときに アダムとイブが同時に同じところを隠したとすれば お互いに示し合わせていたということ 見つかったらこう言い訳すればいいと 計画的だったということも 情状酌量の余地はない とみなされた というところでしょうか? agrippaあらためhenokappa

回答No.15

知恵の木の果実は 個の為の欲望を満たすためにあるのではなく 人を生かす為にある 大乗仏教では言う 欲に執着するな と

回答No.14

知恵の木はそのためにある 自然に背き 全体を考えず人の根が腐れば 国家の根が腐れば 生命の木は枯れる

回答No.13

根も幹も枝も葉も 全てその場その立場にいてその役目を果たすだけ 全体に養分がいってはじめて木は全体として活き活きと生命を維持する 人一人も 国家の中の人々も 生命の木の映し絵

回答No.12

日本人は自然と共に生き大地に根を下ろす。 知恵の木 生命の木 自然と共生し繁栄する 知恵の木の果実は食べたが 生命の木に至らず 自然に背けばやがて腐る

回答No.11

頭の世界だけの思考の整然さと 自然と心と体 生の全体でみるさやけさとの違いだな

回答No.10

デカルトなんかはユークリッド幾何に整然とした論理思考をみたのかな 澄んでいるといえば澄んでる 点もあったりして。

回答No.8

私は、因果律は無いと思っています。それ以上の理不尽がこの世にはあるからです。キリスト教の神を信じ人類全体を包括する理論として、人類全体に対して因果律を適合するならともかく、あなたのように1人の人生が抱える何らかの+と-の意味を求める解釈については。 愛は一つ尊い行動だと思っているところはあります。「愛は忍耐強い」という言葉がありますが、この世は愛で出来ているかわかりかねますが、人類の持っている愛の思想は社会的にも大したものだと思うのです。 スピリチュアル人間は、自分の中に意味を見出そうとし過ぎているきらいがあると思っています。愛という行動が社会的に良い影響を与えたら大したものだが、すべてを因果律で説明つけると社会的に破綻することもありうる。 その為に、哲学というあらゆる思想を俯瞰的に捉えなおす思想が必要なのだと思います。

  • magga
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回答No.7

僕の中での、自分の心の性質としての「愛」の定義は慈悲喜捨の心ですね。 対象の、悩み苦しみがなくなり(悲)幸せであることを願い(慈)喜び(喜)一切差別することのない(捨)心で接すること。 全てのものを「愛」とするなら… その全ての因果の大元となる、現実と理想の狭間がうみだす、自分の作り出す業(感情のポテンシャル)は、苦しみを感じることで楽への道がみえ、楽を感じることで楽への道が見えるからという性質があるともいえると思います。 自分の汚れが見え、改善の道が見える。のであれば全ての現象は感謝すべき現象と言えるかもしれません。 感謝すべき現象ならそこには「愛」(善への道を示してくれるのだから)を感じ、全てのものに対し「愛」の性質を見出すことも可能なのかもしれません。 全てのものは「愛」でその「愛」を感謝し、「愛」する。 全ては自分を映し出す鏡。ありがたいことだ。と そんな感じの解釈でいけば、全てが「愛」だと感じるといっても何にも問題ない気もします。 こんな感じの感想を持ちました。 仏教や禅も学ばれたのですね。 サンガ出版から出る「仏法」やスマナサーラ長老の書籍などを学ばれると、善い発見があるかもしれませんよ。 では ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

  • nabayosh
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回答No.6

>この世の全てのありとあらゆるものは愛によってできている 愛とはなんであるか、または、何を愛と呼ぶか、が明確でないのが厄介なところですが。 少なくとも、これは見方の一面であって、愛などないとする見方もまたある意味当たっているのかもしれません。 学力の高い人が「文学的」と評するのは、おそらく「科学的」に対峙させているのだと考えます。 科学というのは実証の世界ですが、「この世の全てのありとあらゆるものは愛によってできている」かどうかは、感覚的なものであって決して実証されるような性質のものではありません。 だからこのような評になるのだと思います。 尊い(hosibosiさんにとってということもくせものではあるのですが)人が「辛かったろう」と労るのは、おそらくhosibosiさんがそのような理論を出すのは、辛いからこそあえてこの世を美しく見ようとしているのではないか、という見方をされているからではないでしょうか。 この手のことは、ぱっと見そうではないようなものがそうであったり、一見そのようだと思っていたものがそうではなかったりする、ということはままあることで、安易に結論を出すべきではないかもしれません。 世界のありとあらゆることを経験することは1人の人間の能力を超えているため、いくら生きようと、いくら経験しようと、やはり経験してない範囲というのは必ずどこかしらに残るのですから。

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