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哲学に詳しい方に質問です。長文ですがお願いします。
友人に発言の大きな子がいて困ってます。 能力的なことや知識、全てにおいて すぐに「自分は出来る」という発想に到ってしまいます。 全てをみての「出来る」ではなく、自分の出来る範囲で 「出来る」と発言しています。 例をあげると、 「勉強すれば東大とおる」 「カウンセリングしてあげる」などですが、 カウンセリングしてあげると言うのは うつ病の別の友人がいて、その子のカウンセリングを しているつもりなのです。 (友人は心理学の勉強をしたことがありません) しかし、自分の考えでは 臨床心理士になるにはそのための勉強が必要で 臨床心理士という世界があり、 素人考えでできるものではないと思います。 それを踏まえて、ここからが哲学についての質問なのですが 「勉強したら東大にうかる」という発言の時に 自分のような近しい友人に言うのはいいのですが 実際、根拠や実績があるようにも思えないので あまり人前では言わない方がいいのではないかと思い、 「哲学の言葉で、人は知れば知るほど何も言えなくなる っていう言葉があるんだよ」と教えました。 すると、「私逆かも~」という答えが返ってきました。 出来ないと思っていても、意外と出来た。ってことがあるから というのが理由らしいのですが、 私は、そういうレベルの話ではなく 物事は最初は何でも簡単だけど 奥深く進んでいくことで、自分の無知に気づき落ち込んだり 一つのことを極めるのは大変だから、簡単に「出来る」という 発言はダメだよ。ということが言いたかったのですが 伝わらなかったようです。 私は仕事柄、日々の勉強が必要で ベテランさんにこの言葉を聞いたのですが 初めて聞いたとき「なるほど!!!スゴイ!!!」 と感心してしました。 私の解釈が間違っているのでしょうか? この言葉の意味を易しく教えていただけないでしょうか?
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とりあえず友人のことは別の問題だと思いますので 質問の本題に集中しましょう。 > 簡単に「出来る」という発言はダメだよ そう思われるなら > この言葉の意味を易しく教えて 簡単に「分かろう」なんて思っちゃあダメですよ。 > 奥深く進んでいくことで、自分の無知に気づき そこまで気づいているなら > 私の解釈が間違っているのでしょうか? 合ってるか/間違っているか?の「答を簡単に出せる」と思っちゃあダメですよ。 人間は「全知全能」ではない筈です。 (それに異論はないですよね?) つまり、全てを知ることはできない。 だから、知れば知るほど「知りえないこと」があることに気づく。 知りうることの「限界」に気づく。 ●語りえぬものについては、沈黙せねばならない。 これはヴィトゲンシュタインの言葉です。 http://blog-imgs-29.fc2.com/o/r/a/orangekick/P_WITTGEN.html http://www.geocities.jp/deepbreathinghp/katarienu.htm 特に 正しい/間違っているといったことを判断するときには 私たちの判断に限界があることを自覚したうえで それでも判断をしないと私たちは進めなくなってしまいます。 とかね。
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- pupurpu
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NO7です。物議をかもし出す質問に再度投稿したくなりました 「勉強すれば東大受かる」のは本当。しかし50年かかる場合もある。 勉強はいいことですが、人はいいことを嫌う。勉強は忍耐の持続ですので嫌がる人が多い。 つまり人はいいことを嫌がるという事実はなかなか現実として認識がされてないんでしょうか? 人は怠けるのが好き、楽がいいとか思います。そういう本音を抜きに考えると、勉強すれば東大受かるとは本当ですが、人はやらない。 言ってる子も東大受けたかというと、受けるとは出願ということですが、出願しないと受かることはありえないというのが1つの盲点です。 つまり、出願という行為すら人はしません。 結果を考えてか挑戦もしないということもあります。こういう小さな決定的行動すら人はしないということを知りましょう。落ちるかもしれないという予想があっても1度出願ぐらいするという挑戦の心は面白い人生を作ると思います。 勉強すれば東大受かりますが、人はやりません、出願すらしません。という人間のできないという部分の認識を知ると、現実がより鮮明に見えてくると思います。できないという認識から人間を理解していくととてもいいです。謝る事や感謝を人はしてるでしょうか?当たり前なんてありません。だから教育します。教育して知らないと言葉も話せません。赤ん坊を見れば人間は何もできない存在として生まれ、できることを獲得し自分の人生を開きます。一郎もやったからあそこまでいけました。つまり自由とは自分がやった範囲しかありません。それが獲得する自由というものです。遊びややりたいことの大半は自由ではなく束縛です。いい例では依存するとは自由ではなく束縛の状態で自由ではありません。また現実の自由はできた、やった事しか自分の自由の範囲はありません。自分の自由とは獲得していくもので、できるではなく、、やった。できた。というのが自分を創ることであり成長であり、獲得した自由です。これが現実だと思います。
- owlsjp
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>「哲学の言葉で、人は知れば知るほど何も言えなくなる っていう言葉があるんだよ」 その通りだと思います。だから、完璧である「神」は何も語らず、人間に働きかけないのだ と言うことも出来ると思います。 しかし、この言葉を人間存在そのものに当てはめると、 「人間は物事を知れば知るほど 男や女として存在することが欺瞞であり、存在すら出来なくなる、存在を主張することすら出来なくなるんだよ」 という事になります。もちろん、これはある意味正しいのですが、そうすると極端な人間の存在そのものが否定されるわけです。
- pupurpu
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いろんな人がいますので理解するようにするといいと思います。 簡単に出来るといわれると腹が立つのはわかります。 しかしそういう「自信」というのは人間の大事なものでこれは壊してはいけないものです。 自分は出来ないという自信のなさから精神病になるケースもあり、信仰の中の信じる力は根本問題です。話が大きいのはわかります。 東大も勉強すれば受かるというのはそのとおりでしょう。 しかし空想家によくあるものはそこに現実実行した場合の苦労が入っていません。 言うのはOKだと思います。しかし現実には何もしないタイプがそういうことを言うと思います。 正直に言うと、頭の中は空想の世界だと思います。 私は腹を立てず、説得もしません。 相手の言うことの上に「あなたは」をつけたり、「誰でも」をつけて聞きます。 ですから、誰でも勉強すれば東大うかると聞いたり、あなたは勉強すれば東大受かると聞きます。そういう人は、難しく考えてノイローゼになってる人を助ける一言を言ったりしますよ。落ち込むと、大丈夫できるよと簡単に言います。しかし案外助ける一言になったりしますよ。 楽観的だと思いますし、現実の苦労が入ってないので未経験を感じますし、あまり現実経験がないのかもしれません。確かに物事は宇宙のように深いと思いますがそういう時は難しく考えてなかなかうまくいかない状況で苦しむのが現実ですが、そういうときに能天気な一言の「できる」という言葉で気持ちの復活を呼び覚ますということがあります。 未経験で大ぼらぐらいに感じて腹も立つでしょうが、そういう人は口だけで現実の苦労は避けますから実行しないのは多いと思いますが、それがわかった上で逆に出来ないで苦労する人だと思います。逆に苦労は現実ですから、そういうことで苦労して苦しむということがつきまとうかわいそうな人と思いますが、時に人を救います。 質問者さんも勉強すれば東大うかります。ということでしょうか。 そのとおりだと思います。 みんなに可能性はあります。楽観は良いですね。 自慢と捉えたりせず、人間の可能性を歌ってるぐらいに取りましょう。また質問者さんはできるといわれてるようにとらえましょう。 現実の経験不足の空想は苦労がないので、幼児のように何でも出来るという全能感が現れているんでしょう。みんな子供は何でも出来ると思うものです。またこれは大事なものですね。しかし、そろそろ何か実行してやり遂げる喜び、苦労を乗り越える喜びという現実の喜びを経験させてあげたいですね。 たぶん、何も実現できてないかわいそうな人かもしれません。 頭の中は空想に近いです。何かをやって現実の実績を出してから言ってくださいなどと決して言ってはいけません。 また結果が出たものは何かあるかという事も聞いてはいけません。 多分何もないと思います。ですからかわいそうなんです。現実に生きるというのは出来るという出発からこれをやった。という生きてる実感にたどり着いて本当の意味で生きてることになると思います。 ゲームなど仮想世界の氾濫で、現実の苦闘や経験、ほんとうに苦しんで乗り越えた喜びのない空虚なむなしい遊びの生活と実感のない人生しかないんじゃないでしょうか。 あなたに希望をおくる人と思うと良いでしょう。真剣になると腹が立ちますし、嫉妬もでるでしょう。相手がそれをやったように思うかもしれません。しかし空想が簡単なのは苦労がないから簡単です。そういう脳の空想でしか現実を把握できてないということは、何かを実現したということがまったくないから出てくると思います。そういう脳の空想の世界から苦労を乗り越えるということで初めて現実感が出てきますが、私には、夢遊病者のように、夢の中から現実を見ているということで、ここから抜け出すのは、1つ1つ実行していくという経験をつむしかありません。ですから言ってもわかりませんし、経験つむしかありません。 そういう人がいるということだけ知って対処したほうが良いでしょう。 何も出来ない典型の空想家は実感ある人生はないと思いますよ。かわいそうですが、そこからはなかなか抜け出せません。しかし希望と楽観はすばらしいですね。また自信もすばらしい。 アメリカでは日本語しゃべれるかというとYES「今日は」 とかいいますが、日本人は英語しゃべれますかと聞くとNOといいます。 NOは英語ですから、しゃべれますというのが本当です。外国はそういう認識です。もっと自分に自信をもっていいと日本人には思いますよ。大事なものですから。
- kigurumi
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哲学に詳しくは無いのですが、、、 言葉のあやなのか、万能感からそう信じているのか、親が「○○をすれば△△になれる」と何気なく言い続けた結果、その一部に適用される言葉を全部に当てはめてしまっているのか、、、 経験に一つの法則は全部に当てはまるわけではないとわかってくると思うので、言うより実際体験してもらって、理解してもらった方がいいように思います。 大人になっても、一つのことを人の生き方に当てはめてしまった人もいます。 例えば、太陽は北半球のある地点から観察すると、12月22,23,24日あたりで、地平線すれすれを通過する。 まるで太陽が死んでいるかのようです。 12月25日になると、一度上に上昇する。 そこには十字星があり、まるで太陽が十字架にかけられたかのように見える。 12月25日以降、日の出が徐々に長くなり、太陽は復活したかのようになる。 この一部で観察された現象により、太陽を神とし、神は十字架にかけられ、3日後に復活したとして信仰している集団がある。 日本でも布教していますが、、、12月25日は日本では一番日の出が短いわけじゃない。 ましてや南半球では、12月25日は夏で日の出が長い。 ましては地球の外では、そういう観測はされない。 にもかかわらず、これが万物を想像した神だから、崇めえろと強要する。 そういう一部のことが、全てに通じると思っている経験不足すぎる大人たちが、その子をそう育ててしまった。 従って責めるは大人であってその子じゃないです。 さようなら青い鳥の主人公のようにならないように、大人の作り出す妄想に惑わされず、妄想を真実だと思わされ、大きくなって絶望を感じないで済むように、願わずにはいられないです。 東大に行った人が価値があり、それ以外の人はクズなわけじゃない。 人によって価値あるものは違い、他の人と違っても、優劣はつけられるものではない。 一部の大人の価値観を打ち破るときが、その子にくればいいです。 ちなみに、一部の大人の価値観を大きくなるまで打ち破れなかった人々が、2ちゃんねるってことろのあるスレッドに投降していて、その言葉を拾い集めてできたのが、さようなら青い鳥ってフラッシュです。
- mmky
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>>私の解釈が間違っているのでしょうか? ですか。 ○すぐに「自分は出来る」という発想に到ってしまいます。 ●光明思想ですね。短期的に勇気がわくのですね。これは自身を奮い立たせ、他人に強い意志を表現する表向きの言葉ですね。 ○「哲学の言葉で、人は知れば知るほど何も言えなくなるっていう言葉があるんだよ」と教えました。 ● 己の無知を知る。ということで意味は無上の向上を目指すということで、例えば、個人的に立てた長期目標に向かう時の心構えですね。 これはどちらも正しい言葉ですね。ただ使い方によっては問題も起きるのですね。 「勉強すれば東大に入れる。出来る。」などの光明的言葉は塾の学生やがんばるぞという前向きな人にはとても効果的ですね。 一方、内向きの鬱病の患者には逆効果であることが一般的ですね。 「人は知れば知るほど何も言えなくなる。」この言葉は、ある程度勉強し修めた人には効果的なことばですが、勉強途中の人には発言を抑制する、精神的圧力を与えるということで逆効果になりますね。 このように、どれも正しい考え方あるいは言葉なのですが、その人の性格や状況・心情において使い分ける必要があるということです。 ことわざや言葉は人・時・場所で有効にもなり悪にもなるのですね。そういうことを踏まえて使うものなのです。
その子の言っていることは正しいと思いますよ。 >全てをみての「出来る」ではなく自分の出来る範囲で 「出来る」と発言しています。>自分の出来る範囲で出来ると語る ことが嘘であるはずはないではないですか? 自分が出来もしないことに対して出来ると語っているのならまだ 話は分かりますが出来る可能性のある時点ではその子の発言に問 題があるとは思えません。逆に問題なのがその発言に対して嫌悪 を抱いている側の方です。軽く受け流すなりなんりしてりゃ良いだけの 話であってなぜそこまで問題視するのかが問題となると思います。 その子の年齢にもよりますが現実が理解できるレベルの感じの子 なんでしょうか?それとも多少知能遅れの感じなんでしょうか? それによっても違いますが知能遅れでないと考えるとおそらく当人 自身は現実を理解出来ていると考えられます。つまりわざとそのよう な発言をしているということになるのではないかと思います。 おそらくなにかを隠蔽するためにわざと全能表現をしていると 考えるのが妥当だろうと思うわけです。その隠蔽物が何かは分かり ませんが当人の自然治癒力で解決出来るレベルなのかどうかはわか りませんが脳的に問題がなければ基本隠蔽の線で考えたほうがいい でしょう。
お礼
最後の方の言葉・文章が難しく、理解できていないのが残念ですが 回答ありがとうございました♪ 全てを知らずして出来るという発言は浅薄だと思っていました。 物事を一つの角度からしか見れないのはダメですね。 気をつけます☆
- cyototu
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ある意味でそのお子さんは、思春期の典型の一つのように思われます。 質問者さんは電車の中などで4才くらいの子供が「ウンチ」などの不浄な言葉を使い、親を困らせている場面を見たことがあると思います。親が制すれば制する程面白がって、その言葉を繰り返しています。実は、これは自然なことで、この幼児はいよいよ「言葉」には、人を動かす力があることに気が付き始めたのです。その子供の発する言葉によって、大人達が困惑していることを面白がっているわけです。 一般に人間の成長には何回かの相転移が伴います。相転移とは本来物理学で使う言葉で、周りの環境や自分自身の内部の状態が変わることによって、気体が液体になり、液体が個体になったりと、物質の相が変わることを指します。上の幼児の例はその相転移の一つです。成長の過程でホルモンのバランスが変わり、前と同じ状態には居られなくなってしまったのです。 次の相転移は思春期にやって来ます。その新しい則面の一つは、「論理は人を説得できる」と言うことに気が付くことです。ですから思春期の連中はこの発見に歓喜し、やたらに理屈を述べるようになります。何せ、これは発見したばかりですから、「論理」に対する認識は大変未熟です。その未熟さの典型的な現れは、「言葉で全ての論理が表現しきれる」という大変な誤解を持つことなどに現れます。 大抵の場合には、成長の過程でいろいろな痛い目に会い、その誤解に気が付いて、論理にはもっと深い奥行きが在り、この世の中は「言葉」だけでは表現しきれない「論理」や「合理性」が存在し、実はその方のが圧倒的に多数派を占めていることに気が付く物です。そして、その新たな相転移を経験して、一皮向けた大人に成長して行くものです。ですから、そのお子さんを放っておいて幾つもの挫折感を味あわせてやれば、自然と世界観も変わってくるはずです。 しかし、世の中にはその相転移を迎えることができず、一生未熟な思春期のままで成長が止まってしまう人もいないわけではありません。もちろん、屁理屈を理屈と思い込むような、そんな連中が周りにいたら目障りでもあり、迷惑でもありましょうが、こればかりはそのお子さんの運命次第ですので、周りからはどうすることも出来ないと思います。 私は心配しません。確率的にはそのお子さんがもう一度相転移を起こす場合の方が圧倒的に多いからです。万が一、その相転移が起こらなかったら、そのお子さんの存在によって、貴方は宝くじが在ったくらい稀な現象にお目にかかれたという幸運を噛み締め、味わって下さい。
お礼
>「言葉で全ての論理が表現しきれる」という大変な誤解を持つ >この世の中は「言葉」だけでは表現しきれない「論理」や「合理性」が存在し、実はその方のが圧倒的に多数派を占めていることに気が付く物です。 私にとって新しい考え方で 大変勉強になりました☆ すごく納得できる言葉です。 これから気をつけていきます♪
- mainPC
- ベストアンサー率21% (62/287)
認識は間違っていないと思いますよ。 同じく哲学の言葉で、「無知の知」というのがありますね。
お礼
回答ありがとうございます☆ 無知の知という言葉もあるのですね。 気づき、言葉にする人達は本当にスゴイなぁと思います。
お礼
回答ありがとうございます♪ 物事をあらゆる面から見ることの大切さを考えさせられました。 状況によって臨機応変に思考を変えれるようになるため 努めていきたいです☆