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神様って本当にいる!?
私は、なにかと嫌なことがある度に近くの神社に足を運び、おまいりをしてきます。最近感じたのですが、学校をサボったり、お金の無駄遣いなど自分にとってマイナスの行動をすると、後からその分嫌なことが必ず起こることが分かりました。やはり、神様っているもんなのでしょうか?
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おおざっぱですみませんが、 いると信じることと、いるかどうか考えることは別です。 考えによって出る結論は、いると仮定すれば旨くいろんなことが説明がつく、だから神様がいるという風に考えることは有意義だ、ということになるんじゃないでしょうか?論理では、これ以上の壁を越えられません。 神様がいると思うと、限りなくいろんなことが上手く行くし説明ができるからとてもいいーというのと、実際にいるのを信じることの間には、紙一重ですが、同時に論理では越えられない溝があります。 つまり神様がいるかどうか疑って考えても、神様はいるのだという結論に限りなく近づきますが、いるということの証明は出てこないです。いるという仮説が成立するということは、多分いないという仮説も成立します。つまり2択になるので、 結局、最後の最後には、信じるか信じないか、という2者択一の問題になります。これは言い換えると、信じる信じないは論理の問題じゃないということです。 ただ論理的に考えることで、この信じるか信じないか、以外の枝葉の問題を振り落とすことができ、それによって純粋にこの2択に集中できます。つまり問題の切り分けができるなーと思います。 ごちゃごちゃした文章ですみません。
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- kigurumi
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普通に考えて >学校をサボったり、お金の無駄遣いなど自分にとってマイナスの行動をすると、 自分にとってマイナスとなることをしたから、嫌なことが起こったと、わかっているじゃないですか。 つまり、嫌なことが起こった原因は、そうなるとわかっていながら故意に自分にとってマイナスとなることをやったからですよね? 経験上 それらがマイナスとなるとわかっていて、それでもやったのだから、結果はその通りになる確立が高いわけです。 神様による罰とか遠くに因果を求める必要は無く、原因わかっているから、それ以上 でも 以下でもないように思います。 私もよく小さい頃、車が来ると前を走って渡って遊んだりしました。 スリルを楽しむわけですが、車にひかれることはしなくても、危ない目に何度もあうわけです。 運転手から怒られたり。 もし 車が来ると走って前を横切るということをしなければ、運転手に「こらー」って起こられたりすることもなく、他の車に気づけず、対向車にひかれそうになったりする確率はうんと減るわけです。 これは神様いなくても起こるわけです。 もしいるというのなら、神無月は犯罪天国月になっちゃてます。 人は不思議なもので、自称霊能者って人に言われると、すごく気にして、起こったことを霊能者の言ったことと関連づけて「当たった」ってしてしまうんですね。 どこからそういう関連づけをしたのだろうって思うくらい無関係なものまで、当たっているとしてしまえる能力を持っている。 もしこれが親だったりすると、ガミガミ言われても「当たった」ってならないんですけど、そういう能力がある とか 白衣を着ている とか 制服を着ているってだけで、本当は医者でも警官でもないのに、何かしら すごいオーラを発しているかのように思えて、普通考えたら「ありえない」ってことも「そうなんですか」と疑うもせず受け入れてしまう。 ある実験をテレビでやっていました。 ガスの音を被験者に聞かせると、「臭い」って感知していました。 実際は音だけガスなど出ていないんですけど、「確かにガスの臭いがした」って言いはる。 結構な人が、音に騙されて臭覚まで狂ってしまってました。 そういう風に騙されやすい 自己暗示にかかりやすいって人結構いる。 それを利用して霊感商法ってものが大流行できるわけです。 騙される人は何度も騙されるんですね。 霊とか神とか超能力とか、そういうのを信望してしまいやすい人って、暗示にかかりやすいんです。 だから、自己暗示により、「やっぱり」ってなりやすい。 自分でやっぱりを引き起こしているってことに、なかなか気づけないんですね。 で、自分以外のものに原因があると、遠くの方に原因を求めてしまい、本当の原因から目をそらすので、何度もまたやってしまい、お祓いしなきゃってなる。 確かにそういう意味では不幸を呼び寄せていることになります。 でもそれはその人が不幸を呼び寄せる超能力があるからじゃなく、本当の原因から目をそらし続ける体質だから。
- harepanda
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いません。 全ては個人の努力と、偶然と、環境による結果です。 神と話をする機会があったら、私に代わって質問しておいて下さい。「なんで世界を作る時に、悪などという有害なものまで作ったの?」と。
マイナス行動を取ると、罰的なことが起こるとのことですが、 そういうのをキリスト教では「摂理」と言います。 最近では、スポーツ選手などもインタビューで、何かに 導かれてる「的」なこと(サボると罰的なことが、頑張ると よいことが起こるような意味のこと)を言っているのを 耳にします。 「西遊記」で孫悟空が仏の掌を飛び回る(=人生は仏の掌の内 で導かれて起こっている)とか、古代ギリシアのホメロスって 言う詩人の物語で登場人物の人生の帰趨が様々な神々に帰せられ たりしているのは、形は違えど、「摂理」を表現した ものと言えると思います。 w43tw43saさんは若いのに、敏感に「摂理」を感じ取って、 「摂理」に気付かれたのだと思います。 「摂理」の導き手が仏なのか、神なのか、神々なのか、あるいは、 運命なのか、それはご自分で興味があれば、勉強されて見つけて 行けば、よいことだと思います。 いずれにせよ、「摂理」(だろうと何と呼ばれようと)なる現象がある ことが面白いですよね。世界は目に見えることだけから出来ているのでは ないんだ。 僕的にはそういう感覚を持って生きたほうが、豊かな人生を送れると 思っています。
- bananasand
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一番身近なところで、 自分にとって自分が自分であるという意識を創造したのは、 自分でもなく、まして、両親でもありませんね。 その創造主は、自分にとって神の領域ですよね。
この場合は 気持ちのあり方・感性・こころの動態を問題にされているようです。そして とにかく 日本語では 《かみ》という言葉が あるということから その言葉と こころの動きとが やはり自分のこころの中で つながっているように捉えているとおっしゃっているようです。 ことばだけではなく いわゆる良心というやはりこころのあり方とも じゅうぶん 生きたかたちで かかわっていると思います。そして 良心は あたかも神を代理するかのような自分自身の内奥のこころを あらわしていると感じられるというのも 一般に 人びとに見られるところのようです。 (日本語での《かみ》という言葉 この言葉であることだけを取り上げてみた場合 多くの人びとに共通のことだと推し測られます)。 《こころの清い人は 幸いだ》と聞きます。《かみを見るから》と。わたくしもまだよくわかりませんが よろこび勇んで歩んでまいりましょう。
- nabayosh
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私がもし神社の神様なら、 「嫌なことがあるとここに来るけど、いいことがある時にはお前来ないのな」 とか言うかもしれませんね。 まるで困った時だけに神がいるみたいじゃないですか。 神というのは人間の都合でいるいないを決められるもんじゃありません。 だから、いるというのもちょっと間違ってるし、いないというのもちょっと間違っています。 悪因悪果とかいう法則は、完全なものではありません。 努力は報われると信じている人にとって、悪因悪果、善因善果は理想ですが、現実というのはそうじゃないことだってあるのです。 悪いことをしているのにいい結果が出たり、いいことをしているのに悪い結果が出たりします。 理想の強い人にとってこの世は不条理にできています。 「必ず」起こるというのは、いままで体験された範囲だけの話であって、100%ではないと思います。
- ANASTASIAK
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神はいます。 いるから信じるとかいないから信じないというのは 論点がずれています。
- compequal
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なぜに、この質問を哲学カテゴリーにお張りになられたのかが気になるところですが……私は無神論者です。 ただ、哲学の世界は、むかしむかし、そのむかし、神学の世界と不可分でした。中世ヨーロッパ哲学とか、そういう時代に、超ホットトピックでした。 参考:「神の存在証明」 * http://www.rd.mmtr.or.jp/~bunryu/god1.shtml * http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%AD%98%E5%9C%A8%E8%A8%BC%E6%98%8E ここで言われておりますように、昔はヨーロッパの哲学の世界では「神は居る」派が多数でした。アンセルムスさんとか、トマス・アクィナスさんとかが頑張って論陣を張っておられましたそうです。 彼らの議論が本当ならば居るってことになるのでしょう。 あと、教えてgoo!の過去質問でも神の存在証明の質問はありますね。 * http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1347114.html * http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1053157.html そして、まあ、むかしの哲学の人はがんばっていたわけですが、最近の哲学の人はぶっちゃけ興味ない人も多いんですよね。わたしもぶっちゃけ、いわゆる「神さま」の話はあんまり興味ないです。というか、よく言われる「我々の認識を超え出た何か」を「神」とよぶならば、神はいるかもね。みたいな程度の貧弱な発想しかないですが、まあ、そんなかんじです。 ただ、一点だけ質問者さんの質問にまともに答えておきますと、 >学校をサボったり、お金の無駄遣いなど自分にとってマイナスの行動をすると、後からその分嫌なことが必ず起こることが分かりました これは神様を持ち出さなくても説明可能だと思います。 もし、質問者さんが何でもかんでもいい方向とかに解釈しちゃうタイプの人でないとすれば、ふつう、人にとって「マイナスのこと」はいずれかのタイミングで起こるわけです。嫌なことをまったく体験していないという幸せな人は世の中にまずもっていないと思います。ですので、問題はむしろ、<嫌なこと、が利己的な行動(マイナスの行動)の結果として起こったのだ>という因果関係を考えてしまう質問者さんの解釈こそに神様を信じる気持ちの芽生えが存在しているように感じます。 わたしもずるいこととかやっちゃうことはありますし、嫌なことが起こることはありますが、必ずしもその二つのことが因果関係をもった事柄だとは考えません。「寝坊した」→「だから遅刻した」とかみたいな明かな因果関係を持っている場合もありますが、「ずる休みした」→「彼女に振られた」みたいな因果関係とかは、成立すると考えたことがありません。 神様どうこうよりも、「なぜ、嫌なことが起こったのか?」という原因を考える発想を別の形でされてみる、というのではいかがでしょうか。 ちなみに、ぼくが彼女に振られた理由は、ぜんぜん別のところにありました。余談です。はい。 ではでは。
- code1134
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●私自身としては(神は)いないと思い、信じ込んでいる派ですが、一方で(神の存在を)信じ込む層があって不思議には感じません。 ●更ににべもない言回しですが、神(や主)は宗教関係者や一部の芸術家にとっては"なくてはならぬ商売上の概念!?"とさえ思える時があります。
- toto07
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キリスト教やユダヤ教の例を出さずとも、日本は八百万の神の国です。 ただしそれを信じるか信じないかは、個人の自由です。