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徒然草第八十五段で兼好法師は賢=正直と考えているのですか?
[徒然草 第八十五段 人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから、正直の人、などかなからん。己れすなほならねど、人の賢を見て羨むは、尋常なり。至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。「大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽り飾りて名を立てんとす」と謗る。己れが心に違へるによりてこの嘲りをなすにて知りぬ、この人は、下愚の性移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず、仮りにも賢を学ぶべからず。 狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば・・・(以下略) 御回答よろしくお願いします。
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- noname002
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古文には(古文でなくても、なんですがA^^;)全然詳しくないので十全におこたえできませんが兼好法師は好きなので、ホンの露払いのつもりで参加してみます。 >賢=正直と考えている のか? これは、そう簡単に言い切れることではなさそうですね。。。 まず、他サイトを参考にしながら、ごく大雑把な現代文に訳してみましょう。それから考えてみましょう。 「人の心というもの素直じゃないから、必ずしも偽りがないわけではない。けれども、生まれながらに正直な人というのもいないというわけではなかろう。自分自身すなおでなくても(だからこそ)、人の賢さを見て羨ましく思うのは普通のことです。ところが極端に愚かな人は、たまたま賢い人を見ると、この人を憎みます。「エエカッコしやがって、もっと大きな利益を得るために、ちっぽけな利益は敢えて受けずに、本性を偽り自分を飾り立てて名をあげようとしてるんだろ」と悪口を言う。自分の思いと違うからといって、こんな嘲笑いをする。こんな人は、はなはだしい愚かさをどーすることもできない(「下愚の性移るべからず」:生まれつきの極めて愚かな性質は、いかに指導しても賢に移ることはできない。=バカは死ななきゃ治らない)、無理して、ちっぽけな利益を断ることさえできず、表面だけでも人の賢さに学ぶことすらできないということが、バ~レバレなのです! 「キ×××の真似~♪」と言って大通りを走れば(ストリーキング?)、即ちキ×××なのである。「悪人の真似~♪」と言って人を殺せば、即ち悪人、殺人者なのである。駿馬の真似をする人は駿馬のご同類、舜(中国古代の伝説上の聖天子)の真似をすれば舜の仲間になったも同然だ。 要するに たとえ偽りにでも表面からであっても、ぬわんちゃって、であっても賢人に学び真似だけでもするような人をして、賢人というべきなのである。」 聡明な賢い人を見て内心に感じた嫉みを表にモロに出す人は、なるほど正直と言えば正直かもしれないですね。 しかし、こんな人は要するに愚の骨頂なのであって、人の賢明なところを見て羨ましい、自分も、あんなふうになりたいと感じて、表面だけでも真似しようとする人の正直さ、素直さのほうが救いがあるし、それだけ賢い。ということを法師は仰りたいようです。 正直とか素直ということ自体に価値を持たせられるかどうかは難しいところです。感じたこと思ったことを、そのまま言うのは人を傷つけることもありますし、時と場合によりけりですね。 つまりは、何に対して正直・素直であるか、その対象の選びかたに、賢愚の差が出るということではないでしょうか。 心理学カテゴリーからの参考Urlです。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3630079.html
お礼
御回答有難うございました。