- 締切済み
『善意』について教えてください。
こんばんは。 『善意』について教えてください。 (1) 心が善意で満たされた状態は、精神衛生上好ましいように感じるのですが、これはなぜでしょうか? それとも、これは私の勘違いでしょうか? (2) 人から不当な扱いを受けたときに、 心の中の善意が大きいほど、心の中に現れる怒りも大きくなるように思うのですが、 これは、どうしようもないことなのでしょうか? それとも、善意を持ちつつ怒りを抑制するような心のあり方、方法などもあるのでしょうか? そのような心のあり方、方法などがあるなら、教えてください。 よろしくお願いします。
- みんなの回答 (9)
- 専門家の回答
みんなの回答
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
>心が善意で満たされた状態 そもそも、これが勘違いです。 どんな善意で満たされているのでしょう。 善意が大きいほど怒りが大きくなる善意とはどんな種類の善意でしょうか。こんな善意は悪意の裏でしかありません。 両方とも消失したところが答えです。
- hamakkotarou
- ベストアンサー率24% (222/908)
(1)あなたが感じている善意というのはあなたがそう感じたから そう思っているのだと思います。だから必ずしも他人があなたと 同じようには感じていないかもしれないということです。 (2)あなたが善意と感じていることを他人がしなかった時は おそらく怒りを感じると思います。それはあなたの価値基準が怒りを 引き起こしていることなので,あなたの価値基準を変えることが 出来れば怒りを引き起こすことは無くなると思います。 他人が自分と同じ価値基準を持たなければいけないと思えば 同じ価値基準を持たない人に怒りを感じるでしょう。 だから他人は必ずしも同じような価値基準は持っていない ということを理解することが出来れば不用意な怒りを感じることは 少なくなるとおもいます。 そして他人の価値基準を無理に変えようとしなければ,自分の心の 広さを感じられるようになると思います。
お礼
ありがとうございます。 私の独善的な基準に適合するか否かではなく、 客観的な基準に背き、他者を怒らせるような行為を問題にしております。
- nomonomo2
- ベストアンサー率29% (42/143)
>(1) 心が善意で満たされた状態は、精神衛生上好ましいように感じるのですが、これはなぜでしょうか? それとも、これは私の勘違いでしょうか? 質問者様と同じく、自分も「善意」を心地よく感じる事の多い人間だと、自分で思っております。 が、これは人にもよるのではないでしょうか。 俗世に塗れて生きていくには純粋な「善意」を必要としない場面も多いと思います。 複雑な人間関係に揉まれ、裏切りや嫉妬などに対する処世術として「擦れて」しまった方から見れば、 純粋な「善意」は自分の生き方や考え方を脅かすものとして「うざい」「虫唾が走る」「イライラする」などと感じられ、精神衛生上良くない場合もあると思います。 でもやはり、「善意」は元々は誰から見ても善いものだと自分は思います。 善意を「うざい」と感じる今は「擦れて」いる方でも、長く善意と接する事で(又は深く傷つくなどの経験から)、善意を心地よいと感じる人間になると思います。 >(2) 人から不当な扱いを受けたときに、 心の中の善意が大きいほど、心の中に現れる怒りも大きくなるように思うのですが、 これは、どうしようもないことなのでしょうか? 相手を見る時に自分の心を通して見てしまう為、心の中の善意が大きい「善い」人は、相手も自分と同じくらいの「善い」心を持っているだろうと考えがちになります。 そして、自分の「善い」心が大きければ大きい程、相手にも同等のものを期待してしまい、結果としてその気持ちを裏切られた(不当な扱いを受けた)時のダメージも大きくなるのだと思います。 >それとも、善意を持ちつつ怒りを抑制するような心のあり方、方法などもあるのでしょうか? 難しいですが、自分と同じ程の善意を相手に期待しない事だと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >難しいですが、自分と同じ程の善意を相手に期待しない事だと思います。 私の場合は、相手に対して、自分と同じ程度の善意を期待しているのではなく、 客観的かつ最低限の基準に適った行為を期待しています。
- ANASTASIAK
- ベストアンサー率19% (658/3306)
善意というのはすべて偽善です。 自分の内にそれがあると思うのはおごりです。
お礼
ありがとうございます。 根拠や理由等を欠いた回答では、判断のしようがありません。 失礼ですが、そのような回答こそ『おごり』の表れだと思います。
- ruehas
- ベストアンサー率68% (816/1194)
こんにちは。 >(1) 心が善意で満たされた状態は、精神衛生上好ましいように感じるのですが、これはなぜでしょうか?それとも、これは私の勘違いでしょうか? 「心が満たされる」ということは、脳内に何らかの報酬が発生しているということです。 善意といいますのは利他的な行為でありますから、具体的な報酬は他人の方に与えられます。ですが、この場合はそれを行いたい、他人に喜んでもらいたいといった自分の欲求が達成されますので、それが報酬となり心が満たされます。そして、このように脳に不満がないというのは、心にも身体にも間違いなく良い状態です。 >(2) 人から不当な扱いを受けたときに、心の中の善意が大きいほど、心の中に現れる怒りも大きくなるように思うのですが、これは、どうしようもないことなのでしょうか? 「怒り」といいますのは自分の欲求が阻止されることによって発生する情動です。 只今申し上げました通り、善意が大きいということは他人のためになりたい、喜んでもらいたいという欲求が強いわけですから、これが阻止されますと不満も大きくなります。ですが、ここで最も大切なことは、それが不利益と判定されてしまうならば善意の大きさに関わらず必ずや不満は発生するということです。 >それとも、善意を持ちつつ怒りを抑制するような心のあり方、方法などもあるのでしょうか? ですから、心に怒りが発生してしまった以上、それは抑制する以外に手段はありません。では、怒りが発生しないためには、それを不利益と判定しなければ良いわけです。 >そのような心のあり方、方法などがあるなら、教えてください。 「善意」というものの解釈をもう少し広げますと、それは他人に対する行為だけではなく、全ての結果を好意的に受け入れるということになります。これにより、自分の身の回りに起こる様々なことに不満が発生しなくなりますので、それが報酬となり心は満たされます。このためには、仮に相手が自分の欲求を阻止したとしてもそれを不利益と受け取らないようにしなければなりません。 仏教ではこれを「慈悲」といい、この世の全てを受け入れることによって心の平安が保たれるとお釈迦様は仰っています。このため、仏教では不満の基となる様々な欲求を「煩悩」としています。ですが、我々凡人にそこまではちょっと無理ですから、このお釈迦様の教えに習うならば、この場合は自分の利益・不利益に対する価値観を広げ、なるべく大きな心を持つ努力をするということになると思います。このようにして、ご自分の心を満たして下さい。
お礼
ありがとうございます。 >「心が満たされる」ということは、脳内に何らかの報酬が発生しているということです。 おっしゃるようなことは私にも想像できるのですが、その「何らか」が何なのか、 そして、その学術的根拠や理由等はどのようなものなのかを提示して頂きたく、質問をさせて頂きました。 >全ての結果を好意的に受け入れるということになります。これにより、自分の身の回りに起こる様々なことに不満が発生しなくなりますので、 どう考えても好意的に受け取ることができないような状況を問題にしております。 また『善意に基づく行為』ではなく、『善意』を問題にしております。
「不当な扱い」というもののスケールが気になりますね。 それはほっぺたをぶたれるような程度ですか、それとも頬骨が砕けるような強さですか。(あくまで一例ですが) それからあなたは相手に自分と同じ考えをしてほしくて善意を与え、通じさせることで見返りを求めているのですか。 私見ではそうではなく自分の内側にある善意と外側(貴方以外の全て)とを切り離して考えているように見受けられるのですがどうなんでしょうか。 まずはそれを教えていただきたいです。
お礼
補足要求ありがとうございます。 >「不当な扱い」というもののスケールが気になりますね。 私が問題にしているのは、客観的な基準に照合した上で不当と考えられる行為です。 その行為が同じスケールであるにもかかわらず、心の状態によっては、怒りの感じ方が異なることを問題にしています。 >それからあなたは相手に自分と同じ考えをしてほしくて善意を与え、通じさせることで見返りを求めているのですか。 私見ではそうではなく自分の内側にある善意と外側(貴方以外の全て)とを切り離して考えているように見受けられるのですがどうなんでしょうか。 まずはそれを教えていただきたいです。 質問文にもある通り、ここで問題にしているのは『善意』であって、『善意に基づく行為』ではありません。 自分と同じ考えをして欲しい、とも考えてはおりませんし、見返りを求めているつもりもありません。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
(1) 一方的な善意というものは多分ないと思いますけどね。 善意を与えられた方が助かるのは確かでしょうが、実は善意を与えた方はそれ以上の恩恵を相手から受けるのが常だと思います。 なぜかというと、人間はリビドーという愛欲の源泉を抱えており、それが出口を求めて常に待機状態になっています。 そして、このリビドーは通常、他者に対して発露されて初めてその本懐を遂げることができます。 「>心が善意で満たされた状態は、精神衛生上好ましいように感じる」のは、そのためでしょう。 リビドーが生のままであれば愛や恋になるわけですが、昇華した形のひとつとして善意という形をとることになります。 貯まっているエネルギーが有効な状態で発散されたという物理的(=心理的)効果も伴なうことになります。 善意は与えてあげたもののように見えますが、実は受け取ってもらったものでもあるわけです。 他者に対しての発露が何らかの原因で拒絶された人は、どうしてもナルチスムスの傾向が強くなるはずです。 (2) もうおわかりと思いますが、 「>心の中の善意が大きいほど、心の中に現れる怒りも大きくなる」のは、善意という形をとる自分の欲求が拒絶されたためで、欲求が大きければ大きいほど拒絶された時との落差が大きいわけですから、欲求の大きさに比例して怒り(=ショック)も増大する、ということではないかと思われます。 「>怒りを抑制するような心のあり方」としては、(感謝されるなどの)精神的見返りを期待せずにできる善意だけに留めておく、ということで、それが相手に対する礼儀でもあり、お互いの精神的健全性のためにも大事なことだろうと思います。 つまり、逆説的ではありますが、あくまで自分の気持ちに忠実に、ということになるでしょうか。
お礼
ありがとうございます。 『善意に基づく行為』等ではなく、『善意』を問題にしております。 また、私の主観的な基準を他者に期待している訳でもありません。
- miracle3535
- ベストアンサー率20% (306/1469)
(1) 心が善意で満たされた状態は、精神衛生上好ましいように感じるのですが 人間が持っている本来の姿が、何の疑いもなく現れたからです。 (2) 人から不当な扱いを受けたときに、 人間は多種多様な生き物です、相手が自分と同じ考えをしなかったから と怒るのはお門違いです。貴方の善意が通じなかっただけです。 小さな親切余計なお世話です。
お礼
ありがとうございます。 >人間が持っている本来の姿が、何の疑いもなく現れたからです。 おっしゃるようなことは私にも想像できるのですが、学術的な根拠や理由等のある 信頼できる理論を提示して頂きたく、質問をさせて頂きました。 >人間は多種多様な生き物です、相手が自分と同じ考えをしなかったから >と怒るのはお門違いです。 そのようなことを問題にしている訳ではありません。 客観的なルールに背き、他者を怒らせるような行為を問題にしております。 >貴方の善意が通じなかっただけです。 そのようなことは問題にしておりません。 『善意に基づく行為』等ではなく、『善意』を問題にしております。
- nebura71
- ベストアンサー率23% (177/743)
(1)精神上満足を感じるのは、自己満足だからだと存じます。 逆に考えてみて、「悪意を以て悪を完遂したとき」も同様の自己満足に陥るとすれば、やはり自己満足ゆえだと思います。 (2)自己の満足を裏切られるわけですから、怒りはそれに比例して大きくなるでしょう。 >善意を持ちつつ怒りを抑制するような心のあり方、 >方法などもあるのでしょうか? 「善意」とは「自己欺瞞ではない」ものだと思い直してみるのはいかがでしょうか? 2000年前のあるユダヤ人も言っているように、右のほっぺたをぶたれてすぐに怒るようでは、人間が小さいのでは?(^_^;
お礼
ありがとうございます。 完遂云々等は問題にしていません。 『善意に基づく行為』等ではなく、『善意』を問題にしています。 >2000年前のあるユダヤ人も言っているように、右のほっぺたをぶたれてすぐに怒るようでは、人間が小さいのでは? それは、そのような思想を持った人間にしか当てはまらない理論です。
お礼
ありがとうございます。 信頼できる根拠や理由等の無い回答では、判断のしようがありません。