• ベストアンサー

理解があって嫌悪や憎しみがあるか?

人は、自分の信条主張性格性質その他もろもろを理解してくれる人(必ずしも賛同はしなくてもよい、とにかく正しく認識してくれる人)を、憎んだり嫌悪することができるでしょうか。 つまり、一般に「憎しみ」や「嫌悪」というのは、相手の自己に対する無理解と一体になっているということがあるでしょうか、ないでしょうか? あるいは、理解があっても仕打ちがひどかったりすれば当然憎悪し、また無理解であっても丁重に扱われれば感謝し好意を抱くでしょうか?その相関性はどうなんでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • frau
  • ベストアンサー率28% (56/199)
回答No.8

私も人の理解が欲しいです。安っぽい10人からの「好き」よりもたったひとつの深い理解が欲しい。 >理解があっても仕打ちがひどかったりすれば当然憎悪し、また無理解であっても丁重に扱われれば感謝し好意を抱くでしょうか? 恋愛の例、また個人的な話で申し訳ないのですが、今片思いの好きな男がいます。彼のパーソナリティはもう恋心という「後光効果」を含めてみても客観的にみればどうしようもなくレベルが低くて(笑)私への対応の仕方(というより女性一般的かな)「憎しみ」や「嫌悪」に容易に移行するような人です。「本当の私」は彼とは精神性のレベルで合わないと言っているのですが、恋愛における情熱はそんなの耳を貸さないんです。でもそういう人が意外に自分のことを見てる、誰も指摘しなかった長所を言ってくれると「愛憎」ある相手の「愛」の部分がさらに増す「意外性」の効果ですね。これは恋愛という特有の感情ゆえかもしれませんけれどやはり冷めたり、恋が報われずこの気持ちを無碍にされたりしたら憎しみのほうが増すかもしれません。 理解は頭でするもの。理解する人がその対象に対し同じ経験にもとづいた共感や、また違う経験によるが想像力によって相手を理解しようとする(これが重要な意識の姿勢、だと思うのですが) カウンセラーなどは患者の悲しみへ共感する姿勢を教育されますが、理解というのとは違うと思いますね。だから私は心の痛みを知らない医者は最悪加害者以上の功罪を作ると思うんですね。理解されてないと察するのは痛みをもつ患者のほうが敏感です。「人工的な医者」にかかることで彼の無理解を知ると患者は憎しみを感じるのは当然ですね。 でもカウンセリングは感情失禁しても許される場ですから、患者の自分の感情を投影します。一応そういう目的があるのですが患者自身が何を求めているか、たとえば自分の気持ちを吐露し整理することですっきりすることもあれば、カウンセラーを肉親に見立てて投影するのであれば理解と共感を欲するでしょう。 私の話に戻れば、仮に彼もこちらを情熱的に好きになってくれても無理解のまま男女の仲として好きになってくれるよりも、人として遠い位置にいても客観的理解をしてくれるほうが「しあわせ」なのかもしれないなとも考えます。もしお互い普通の男女として結ばれても、彼と私のパーソナリティは相対的に合わないところ(知的レベルや経験、価値観の違い)、また絶対的な共通項(価値観や趣味)は明確に分かっているので、カップルとして成立しても続かないことは目に見えている(苦笑)。としたらいつしか憎しみに変わるのかなと。 たとえば親。親なんて自分とまったく違う人間ですけれどやっぱり個人が生まれ落ちて最初の世界じゃないですか。親から虐待されても自分が愛されるべき子供として理解を求める。子供が大人になってまた自分なりの自我や価値観をもつと肉親としても間逆の存在と知る。すれば自分にされたことの悲劇を知るにつれ憎しみや嫌悪が生じてくる。しかし家族というのは自分のルーツですから「かけがえのない存在」としてやはりひどい人間であっても彼らがしてきたことの功罪への理解と子供自身の痛みの理解を求める。要するにインナーチャイルドは癒されないままになる。となるともう二重の悲劇、地獄ですよね…。 さて恋愛のことに戻りますけれど、実は10年以上一緒にいる男性がいるんです。彼は私に対してまったくの無理解なんですね。もう男女の仲じゃないから、というより恋人という関係が終わって気づいたのですけれど。彼は理解しようとする姿勢さえない。とするとこちらも憎しみを通り越して、お互い無関心ですね。感情が提起されないから逆にこのようにずるずると愛のない同棲生活を続けてしまう(苦笑)。 >「憎しみ」や「嫌悪」というのは、相手の自己に対する無理解と一体 なので嫌悪はしてませんね。やはり長年一緒にいるという「情」があるからそれだけで割り切れない。感謝しているところもあるんです。でも情熱的に好きな前者の男性は私に対して無関心なんです。でもたまにそういう理解を示されるとますます好きになってしまうという悪循環(笑)。だから相関性については比例するとは限らないと思うんですね。 でも「理解」とは「赦し」と同義語と思うんです。そして私にとって「愛」そのものなんです。私の人生は不幸の連鎖のようなもので、孤独ですし、「普通の人」には共感したくても想像すらできるのが適わないほどの苦しみを抱えてるんです。だから通常の理解は求めてません。求めれば逆に空しくなるし傷つきます。だから人の理解ほどうれしいものはない。 でも理解してくれた人と無傷の関係が作られるというのは不可能ですよね。尊敬する人も何かのきっかけで自分と同じレベルに陥るように。でもやっぱり私にとって人と確執や憎しみがあったとしても、理解してくれたという事実に勝らない。その2人の男性とも愛し、傷つけあったりしましたけれど一方は共通の趣味(ジャズ)をサポートしてくれるし、まだ技術的には未熟な私であるがセンスや長所を指摘し潜在的な可能性を顕在化してくれる。一方の男性は経済的にサポートしてくれてる。 恋愛は90%の苦しみをやりくりして10%の喜びを得ることに意義があるということを誰かが言ってたのですが同様、人間関係も9割嫌悪する部分があっても1割純粋な部分があればよいのではないかと思うのです。その1割の価値には当然量的質的に個人差があって、こういう考え方に気づかない場合もあればその人は相手を切り捨てるだけだろうし、葛藤の末9割の部分に凌駕されてしまう場合もある。1割の質的な自分にとってだけの価値を感じること。それが相手の思うそれと合致していれば、無駄ではなかった関係ということになる。 彼らのこと吐き気がするほどイヤな奴。と思ってます(笑)。でも時間的空間的に一緒にいるとかそういうのではなくて、やっぱり一方はこれまでまともに付き合った唯一の相手ですし、一方は世間的に言えば不純な関係だけれど、ジャズというこれまでの人生を二分する新しい世界のきっかけになる人だった。まあ相手方はどう思ってるのか知らないけれどそれが私にとっての彼らへの理解です。 「人と他人は違ってあたりまえ」「人を変えることはできない」とはよく言われますよね。そういうの当然とも思うのですがなんかクールな感じで好きじゃないんです。違うからこそその差を理解し共感するのが本当のあたたかな人間関係なんじゃないかと。でもそういう人を「理解(許す)」のがさらにもういっぽ進化した意識じゃないかと。 理解しあわないから諍いがおきる。そしてそれが人種や国家レベルになると戦争になる。同じでなくとも自分の経験に近いことをちょっと想像するだけでだいぶ違うのになあと思うのですけれどね。 嫌悪や憎悪は感情です。だから水のように流動的だけれど、理解は大地のように自分と自分との自我の相関、相手との自我を感情という国境を越えてリンクさせるもの、なのではないかと考えます。

garcon2000
質問者

お礼

たいへん、勇気の出るご回答でした。 人との理解というものを、何か80とか90パーセント合致させようと思って、そんな相手とあったことがないことを不運だと思っていましたが、10パーセントの合致でも貴重であるということ、あるいは、人間の多様性や自身の変化など、とてもこの世でそのような出会いはないという悟りを早くするということも大事でしょう。一種の健康的な「あきらめ」かもしれません。 しかし、なんだかんだ言っても、frauさんの例は、よりかかって得るところがあるという恋人関係であって、共感できないけどというのはそのまま受け取るものではない気がします。一方は音楽の上でメリットになるし、他方は経済的に。立派にかみ合っているんじゃないでしょうか? しかし、「理解」の問題はやはりちょっと違いますね。あきらめれば健全だが、欲や「あきらめ」なくていいんじゃないか、もっと融通の利く可能性があるのではないかという気持ちが捨てきれないと、なかなか穏やかにはなれない。私の状態では難しい状況かもしれません。 しかし、私自身「普通の人にはわからないだろう重荷を背負っている」という感覚はあるし、それでもいろいろ経験不足のせいか、まだ「わかってもらう」可能性を捨てられない。そのジレンマですね。 尊敬できないが、芸術的である人間というのに興味ありますね。私も潜在的にそうなりたいと思っているんですが、なかなか性分は動かないのが難です。

その他の回答 (8)

noname#80116
noname#80116
回答No.9

人を《理解する》というのは 具体的な性格や考えについて その部分ごとにです。《好く・嫌う》というのも 同じようだと考えます。  拡げたかたち・つまり《自分の信条・主張・・・を理解》するというかたち これは ありえますが 一般に それは 動態として・少しづつ実現する過程として あるいはつまり 一生の経過を見て 判断する問題であるように思われます。   ただし こういう場合も 議論になると考えます。つまり《人の生命・存在を認め合う》という意味で《理解する》ということ これは やはり拡げたかたちですが さりとて 部分を全部集めたというものでもなく 一人の存在について 全体観を言っているということになるでしょうか。その場合の《理解》は 証明する必要のない普遍的な常識ですが ここぞという時つまり《嫌悪や憎しみ》が頭をもたげてくる魔の時に 案外 弱い理解とその力でもあるようです。 《嫌悪・憎しみ》で 一つひとつの性格や仕種・振る舞いに対するものは 一般に 人それぞれです。ほとんど趣味の問題です。右利きか左利きか あるいは 右側通行か左側かどちらが正しいかのようであって 一般には 問題になりません。(感情は 激しいわけですが)。 別様に 《考え・思想》に対する嫌悪・憎しみ これは ありえます。そして 問題になる場合があります。つまりたとえば 上に触れた全体観の場合であって 人が互いに《存在を認め合う》という意味での理解が 破られるときです。  このように 存在についての相互理解という常識を否定するという場合は その思想に対しても 行為(つまり犯罪)に対しても わたしたちは 例外なく 徹底した憎しみが湧くのではないでしょうか。憎しみが軽い激しいの問題ではなく その生命無視の行為や思想に対して 条件反射のようにしてでも 感情は 相関して 起こるものと考えます。   Q:《一般に「憎しみ」や「嫌悪」というのは、相手の自己に対する無理解と一体になっているということがあるでしょうか、ないでしょうか?》 A:《一体になっているということがある》のですが 基本的には 別です。人それぞれ・場合に応じてであるでしょう。というよりも 《相関性》は ないと言うべきでしょう。  ここで――やはり――事例は少ないでしょうが 例外としてではなく問題になるのは 存在否定の思想と行為〔という無理解〕に出会ったときだと思われます。無理解と感情とが《一体となっている》と言っていいでしょう。 Q:《あるいは、理解があっても仕打ちがひどかったりすれば当然憎悪し、また無理解であっても丁重に扱われれば感謝し好意を抱くでしょうか?その相関性はどうなんでしょうか?》 A:そういう心理のうごきは ありえますし ありますが 基本的には 人それぞれです。話し合いで解決しましょう。相関性は――あると思うという人の存在を 無視することはできませんが―― ありません。(つまりは 《理解》の定義によります。その内容によって 相関性が 一義的にあるものと ないものとがあります)。  わたしたち人間は 感情の動物ですが それほど 愚かでもないので 一般の無理解と感情的な反応とのあいだに相関性があると主張する人に対して 説得してゆけると思いますが。

garcon2000
質問者

お礼

ご丁寧にありがとうございます。 はじめ質問したときは、どうしても理解と好みというのが結びついているのではないかと思いましたが、ご説明を聞いて、必ずしも相関は高くないということに納得してきました。人間なかなかいけるものだと考え直しました。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.7

>一般に「憎しみ」や「嫌悪」というのは、相手の自己に対する無理解と一体になっているということがあるでしょうか、ないでしょうか? 無いと思います。 憎しみ・憎悪に変わるのは、否定されたとき。 ただ、悟っている人は、否定されても憎悪を起こさない。 相手に否定する自由を与えてるが、自分を相手に理解させようと求めない。 他人に理解してもらいたいという欲望があり、理解されないとき憎悪が起こると思います。 ある意味自信の無さゆえに 賛同を求めてしまい、安心感を得ようとするのかも。 でも否定されると安心感を得ようとしたのに、逆で不安になりそれが攻撃として現れる。 個性は・・・ 人格を否定されると、普通は怒ります。 なぜなら切り離すことができないこの世に他はないこの個性を、存在価値が無いかのように否定するのだから。 捨てろと言われても、これで自分を形成しているのだから、死ねと言うようなもの。 「あなたのこの部分 あの部分 その部分はとてもいい」  こういわれると ルンとしますが、「でもね この部分は」といわれた場合、この部分も あの部分も その部分も今まで誉めたこと全てが無かったことになるばかりか、持ち上げすぎたため、落下距離が激しく、地面に大激突することになる。 3ついい点をあげて1つ悪い点をあげて、総合評価2じゃない。 「でもね」以降ででマイナス100くらいの衝撃。 だから仲よくつきあいたい場合、思っていてもマイナス点を一切言わないようにする。 逆に相手を遠ざけたいとき、けなすと効果的。 前、駅のホームでこれでもかと私の性格の批判を知り合いがしたんですね。 周りでは電車を待っている人が何人かいてギョっとした顔で、主に言われている私の顔色を伺ってた。 「くるぞ くるぞ くるぞ」って期待?なのでしょうか。 しかし私は皆さんの期待を裏切り「そう そうなの そう思っているんだ」って平然と聞いていた。 そうしたら、相手はいきなり甲高い叫びに近い声で「どうして! どうしてなの! これだけ言われてどうして腹立たないの?  言い返しなさいよ!!!!」悲鳴をあげたんですね。 こういうの不戦勝っていうんでしょうか 笑 相手の敗北。 私は一切相手の欠点を言わなかった。 相手だけ私の人格を否定させ続けた。 憎しみは起こりませんでした。 相手に「どうしてここまで言われて何も言い返さないの」と聞かれても、「さあ なんででしょうね」って思うだけです。 「だって私のためにと言ってくれてるわけでしょ?」というと、ぶちきれた。 後でわかったが、仕事に失敗してむしゃくしゃしていて、誰かをいじめたかったらしい。 ダメージを与えられたから、誰かにダメージを与えることで、自分を慰めたかったようですが、相手が悪かった。笑 私は自分の欠点も好き。 私の欠点をあげつらっても、それで私は否定されたとダメージを受けることはない。 何故なら欠点も私の特徴だから。 それも含めて 私というものが形成されているのだから。 直すと自分じゃなくなるし、直せないし直すつもりもない。 丁重どころか私の性格を攻撃されましたが、その相手に好意は抱くことはありませんが、危険人物としてこっそり心の中でラベル貼りました。 「自爆テロ」って。笑

garcon2000
質問者

お礼

真摯なお答え、ありがとうございます。 たいへん共感しました。 kigurumiさんは、たいへん実直で曲がったことが嫌いで、しかも素直であるという感じを受けます。それは、ちょっと私と似ている点もあると感じました。長所としてはです。私はほかに限りない短所を持ってます。 憂さ晴らしの知人の標的となって、しかし内心好意などでなくやっぱり憂さ晴らしかもしれないと感じつつも?それをアドヴァイスととろうという姿勢を貫くという点、共感しますね。私も、ここで、同じ手を嫌味な相手に使ったことがあります。内心気持ちいいものではないですが、筋は通った気はする。 興味がありますね、その「ぶち切れ」というのに。私自身憂さ晴らしで忠告もどきをするとか、そういう類のことをことをしない人間なので、それが「好意」としてとられるとどう「ぶち切れ」るのだろうか? 私は、kigurumuさんより、よほど心に余裕のない人間なのか、理解を渇望するし、穏やかさは足りないです。

noname#78143
noname#78143
回答No.6

#3のllamaです。お返事拝見いたしました。 なるほど理解のボーダーラインですか。うーんどうなんでしょう。 私は絵を描くのですが、全く理解に苦しむような私と違った 表現様式を持った人と友達がいるんですが、なんなの?と 訊くことはあっても憎んだりはないですが、言葉というか 感情が伝わらないもどかしさは確かにあります。 質問者さんはたぶん言葉や言語などの助けを借りて相手を理解 する比重がかなり重そうですが、私が絵を通じて感じたことは 絵で表現することも言語で表現することもある限定された要素 や一部分の感情だけしか人に伝わっていないということです。 厳密に言うと伝えたいことすべてを100としたら絵だと10~15% 言葉だと30~50%ぐらいでしょうか? ああ、伝わったなと思うことは。 理解、無理解よりも自分がこうなって欲しいという願望や欲求に ついて果たせなかったことに、憎しみや嫌悪を抱くことのほうが 多い気がしますね。私の場合。 願望や欲求の満足度と理解、無理解が表裏一体のように は思いますが、どちらも一要素のような気はしています。 あと、理由なく嫌いというのがたまにありますが、あんまり ちゃんと理由を考えたことがないのですが、好き嫌いが 先に来て、理解したくないと話をきかないということはたまに ですがありますね。

garcon2000
質問者

お礼

再度、ありがとうございます。 今回も納得しました。 私も、完全に感性の差を問題にしているのではなく、かみ合うか?というのが条件になる気がます。場合によっては、理解できなくてもかみ合う場合があって、それはそれで満足できる。 なにか相関があるような期もしますが、もっと大きな「人間性」トータルの問題なのかと思えてきました。

  • ruehas
  • ベストアンサー率68% (816/1194)
回答No.5

こんにちは。 >つまり、一般に「憎しみ」や「嫌悪」というのは、相手の自己に対する無理解と一体になっているということがあるでしょうか、ないでしょうか? これはないと思います。 「憎しみ」や「嫌悪」といいますのは自分に対する相手の理解度とは直接の関係はありません。「憎しみ」や「嫌悪」とは、「自分にとって不利益と判定される対象」に対して発生するものです。 我々人間には「理解されたい」「受け入れられたい」という欲求がありますから、これが阻止されるならば当然不満が発生します。ですが、厳密にはこれは「不理解」に対して発生しているのではなく、自分の欲求が阻止されることによって産み出される嫌悪感であります。 このように、自分が理解されているかどうかといいますのは、相手が実際に理解しているかどうかではなく、理解されたいという欲求が実現されているかいないかによって判定されるものです。このため、それが相手の理解と一体になっているように見えてしまうのだと思います。 そして、このご質問に対する私の回答は「全て自分しだい」です。 >人は、自分の信条主張性格性質その他もろもろを理解してくれる人(必ずしも賛同はしなくてもよい、とにかく正しく認識してくれる人)を、憎んだり嫌悪することができるでしょうか。 そのひとが自分(私)の立場というものをきちんと尊重してくれているならば、少なくとも意図的に不利益な行動を選択するということはありません。ですから、それが自分にとって利益と判定されるならば嫌悪感が発生することはありません。但し、飽くまでこれは、自分がそれに対して正しい判定を下せた場合の話です。従いまして、果たしてそれは「全て自分しだい」ということになるわけです。 >あるいは、理解があっても仕打ちがひどかったりすれば当然憎悪し、また無理解であっても丁重に扱われれば感謝し好意を抱くでしょうか? >その相関性はどうなんでしょうか? このふたつは「情動行動」と「理性行動(計画行動)」という相反する関係を結びます。 情動行動といいますのはその場の価値判断に従って選択される「無意識行動」です。これに対しまして、「理性行動」といいますのは結果を事前に予測し、最終的にはどちらが利益であるかに判定を下す「意識行動」です。 我々の行動選択といいますのは常に「利益・不利益の価値判断」に基づいて行なわれます。ですから、利益と判定されるならばそれに対しては「報酬行動(接近行動)」が選択され、これが阻止されるならば嫌悪感が発生し「回避行動」が選択されます。「憎しみ」や「怒り」といいますのは「行動選択の動機」として発生するものであり、このようなものは問題解決のための「能動的な回避行動」に分類されます。 「理性行動」といいますのはこのような情動に従って選択されるものではなく、「未来報酬」というものを想定して行なう「計画行動」です。このためには、自分にとって何が利益であるかということをきちんと判断することができなければなりません。ですから、子供のうちは誰でも自分の情動を余すことなく発現させますが、やがて成長に伴って様々なことに判断力が備わりますと、情動行動に対する理性行動の比率はどんどん高くなってゆきます。 このように、理性行動とは未知の結果を予測することによって情動行動を抑制し、「より価値の高い結果」を選択するためのものです。では、相手が人間である場合、我々が予測しなければならない「未知の結果」とは、そのひとの心です。 どんなに相手のことを思って親切な助言をしたとしましても、それが伝わらないということは幾らでもありますし、自分にとって都合の良いことばかりを並べ立てられるならば誰でもコロッと騙されてしまいます。 我々は他人の心の中を覗いて見ることはできません。ですから、それが利益であるか不利益であるかは相手の言動や行動から自分自身が判断を下す以外に一切の手段はありません。 自分の欲求が阻止されるならば憎しみが生まれ、嫌悪感が発生するのは当たり前のことです。これが我々の情動反応、即ち「人情」であります。ですが、最終的にはそれが利益にならないと知れるならば、そこで自分に発生した憎しみは間違いであったと判定することができるはずです。 このように、そこでは「情動」と「理性」というものが相反する関係を結んでいます。そして、ここで相手に対して憎しみを抱くかどうかといいますのは、それは全て自分しだいということになり、当てはまる公式というものはないです。

garcon2000
質問者

お礼

ご丁寧にありがとうございます。 いろいろ考えさせられます。 私はどうも、おっしゃるように錯覚しているのかもしれないが、「理解」がある相手、つまり、感性を分かつことができる、価値観を共有することができる、考えを認めることができる相手にには、少なくとも悪感情を抱いたことがない気がします。逆に、感性が合わない、考えが食い違う、心がかみ合わない相手には、何度となく嫌悪を抱くことがありました。それは、人間の質とは関係ないと思うんです。もっともそれは状況証拠で、理解力があり感性が合う人間に、偶然意地悪がいなかったからかもしれないし、逆のパターンになじめない性向がある人物が多かったからかもしれない。もっとも、こういっても割り切って考えられるものじゃないですが。しかしとにかく「理解」「共感」というものが、まず非常に重要なものに思えます。それがあった上で、賛成だろうが反対だろうがいい。しかし、まずこの「理解」「共感」もない状況は嫌悪につながる。そういうことです。もっと細分化すれば、「理解」がある不利益と「無理解」しかない利益とどっちがいいか?迷いますよ。 なので、どうも私にとっては「理解」されることがすなわち利益なのかもしれません。それによる精神的充実ということにおいて。 >どんなに相手のことを思って親切な助言をしたとしましても、それが伝わらないということは幾らでもありますし、 これはもしかすると、相手の理解にいたっていないことの間接証明になっていませんか?自分を理解してくれていると実感できる相手からの助言を無碍にする人間は、そう多くないと思われます。 >自分にとって都合の良いことばかりを並べ立てられるならば誰でもコロッと騙されてしまいます。 これは、言い方を帰れば、「よく把握している」と思っているから。悪いたとえで言えば、最近の「振り込めさぎ」的口上でしょうか。 お答えの論旨はよく理解できたつもりです。 しかし、疑問に残りますのは、「情」言葉を変えれば「理解されているな」とか「共感できる」という感情というものが、利益不利益を超えたあるいは精神生活の基礎となるものではないだろうかということです。あたかも空気や水のように。

回答No.4

理解することで嫌悪感は薄まるので、 相関性が無いわけではないが、 理解できていても憎しみや嫌悪感を抱くものです。 相手を理解する、または、自分を理解する、 ということは、 不確定な嫌悪感などの感情を解析する行為です。 しかしながら、 解析したところで誤解が少し解けることはあっても、 感情をリセット(ゼロ)にできないのが人間です。 >無理解であっても丁重に扱われれば感謝し好意を抱くでしょうか? 当然、嫌悪感と理解は一律ではないため、 無理解で嫌悪感を抱く人へ感謝することは困難かもしれませんが、 その人のあらゆる点が理解できないけど、 自分が親切だと思うことをしてくれる、 嫌悪の無い相手には感謝できると思います。

garcon2000
質問者

お礼

納得しました。 私がこう思ったのは、どうも「無理解」に対して非常に嫌悪感や拒絶間があるのです。つまり、相手が自分のレヴェルにない、私を理解不能であるということに対しての嫌悪感。もちろん相手の立場からすれば逆かもしれないが、場合によっては、一方通行的な場合もある(こちらだけ相手を把握している)ともかく、その「理解」ということが、非常に対人感情の決定的要素なのではないだろうかとまで感じてしまいます。それだけ私が「理解」に飢えているんでしょうかね。

noname#78143
noname#78143
回答No.3

まず自分ではない第三者が100%相手の心を理解することがまず 難しいです。 出来たとしても一瞬だったり勘違いだったり、また理解した としても証明も出来ませんし。 だからといって自分以外の人間全員が憎いとか憎くないとか ないでしょ? シュチュエーションの問題だと思います。 また相手や自分の心の状態にもよりますしはっきりと割り切れる ものではないと私は理解しています。 複雑な感情や状態の要素が絡み合ったりしながら判断するもの だと思いますから、 質問者さんが述べたことはその要素の一つに過ぎないと思いました。

garcon2000
質問者

お礼

この人理解力あるな~と感じられる人と、全く通じねぇなと思える人とのさということです。もちろん100パーセントの理解はありえないが、ボーダーラインというかそんなものがあるのでは。 どうも私の場合、理解力があった相手に悪感情を抱いたことがないのです。もちろん何パーセントかはわかりませんが、自分の仮想評価空間とでもいうべき表があるとすると、その割合を大きく占めるように感じられる相手に、少なくとも悪感情を抱いたことがない。その点がはっきりしないところですね。

  • mi-dog
  • ベストアンサー率6% (92/1479)
回答No.2

基本はひとそれぞれです。 限界を越えれば誰でも仕返しを考えますし。 度が越えれば、犯罪にもなります。 理性で押さえてるだけです。 理解があっても、度がこえれば会いたくもないし、関わりたくもないです。 だから、無視を考えます。 小島よしおではないですが。 度が過ぎます。

garcon2000
質問者

お礼

度を越えるのは論外でしょうが、なにか、理解というものが非常に感情を緩和する働きがあるのではないかと思えます。

noname#50499
noname#50499
回答No.1

医者なんかはあれだけ過酷に働かされても医者であることをうれしく思うでしょ? 頑固者は周りの対応によって自分の意見が変わることはありません。 人間なんておかしな思い込みは誰だって持っているのでしょうから、 おかしいと思ったらそれはその人が今迄の人生でも治ることのなかった頑固な部分としてその人の生まれ持った性格として受け入れた方がいいのでは?

garcon2000
質問者

お礼

そう思いますが、質問とどうつながるのかいまいち理解できないです。