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形容詞と構造

イディアを想起しあいまい的言語化(とくに形容詞など)それが妥当であるかの様に人が感じるという現象に対してですが、そこにはそのあいまい的言語化(とくに形容詞など)が妥当化され得る現実があるということを意味するのではないかとつねづね思っています。例えばいじめが陰湿化する背景にはそれを抑制できない現実があるのではないかとおもいますしいじめに至るまでの経緯も存在すると思います。他の例でいけば「克服しなければいけないのです」といけしゃあしゃあと語る人がいますがその背景には「考え方があまい」とか「危機」だとかの現状が背後に在るからこそ「克服しなければいけないのです」という言葉が正当化されてしまうのではにないかとそう感じます。しかしこれが仮に「克服できている現状」の場合は「克服しなければいけないのです」という言葉が正当に思えるとは到底思えません、逆に「慎重に事を進めていかなければいけません」の方が妥当に聞こえてきます。何が言いたいのかと申しますとつまりあいまい的言語を発する人が出てくると言う事は外界情報の構造がその言葉があたかも妥当かのような構造をしているのではないでしょうか?しかも言葉が曖昧なのですからその言葉が現実を変える力など持っては居ないはずです(例えば「科学の公式ならその公式は新発見となるが曖昧言語はそうならない」「何かしらの絶対的解決方法を教えてくれればその何かしらのを解決することができるが曖昧な言葉は解決の糸口すらもない」という意味で現実を変える力がないという意味です)そう考えると曖昧な言葉はただの無駄であって構造を変える力を持っていないと思います。しかしその言葉が出てくるというのは外界情報が曖昧言語を派出しており決して曖昧言語が外界情報を派出させているのでは無いのです。つまり曖昧言語には何の力も無いのではないかと思うのですがどうでしょうか?

みんなの回答

noname#91067
noname#91067
回答No.2

ANo.1です。 >例えばいじめが陰湿化する背景にはそれを抑制できない現実があるのではないかとおもいますしいじめに至るまでの経緯も存在すると思います。 >「何かしらの絶対的解決方法を教えてくれればその何かしらのを解決することができるが曖昧な言葉は解決の糸口すらもない」 「いじめ」の定義とは? http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2742031.html でANo.5でもありますが、「悪の本質的契機」の裁定を下す権限は、虐められている被害者でも、虐めている加害者の存在にもなく、悪の真偽判断の成立に絶対要件は第三者の存在如何が得られからと事後に後天的にされるものです。 虐めの既成事実があっても、第三者が正当とするなら虐めと呼べない、種としての人間の存在から独立し普遍な虐めの表明がないものだから、と現象学的にはありますよ。虐めの背景は虐めに共謀している第三者が居て、それを別の第三者が真偽を「陰湿な虐めである」と決めつけて表明してくれればいいのですが。 大昔であったなら誰もが種として、社会の必要不可欠な構成員でいられた。 「人の痛みは我の痛み」と捉えて慎ましくも支えあってこれた。 今じゃ「人の痛みは我の喜び」ということにもなり、なぜそうなるのかと、嫉妬や羨望や劣等感、恨み辛みという愚痴をこぼせるほどに寿命が延びて死や苦悩を覆い隠せるほどの余裕な生活と、分業が進み連帯感なしで生きれてしまうという、ありがたい便利さを人類は手にしたせいかもしれません。 「形容詞と構造」の質問の主意からどんどん外れていますね(苦笑…汗) 明確な答えは他の方に譲ります。失礼しました。

noname#91067
noname#91067
回答No.1

皆一番可愛いのは自分です。それで「ポジティブな言語の力」を受け取った場合は納得しやすい=妥当だとし克服され得るよう方向つけることや危険や不安の善処、正当化にならし次の段階に進める。 しかし、「ネガティブな言語の力」を受けた想像力はあらゆる良からぬ可能性から我を守るため拡大していきやすい。注意深くなるし注意も散漫になる。と方向に納得しにくくなりますね。 語り手の表現の自由が示されても受け手にも感受の自由があるから、他人が一つの言葉でも同じように感じてはいないもので、思考の範囲が広がり自由度が増すことは方向を定めるには不自由なことでもあり、ネガティブな思考には曖昧なものは避けて説明が厳密で絶対的なものとして納得させて自由をなくし拘束しておくのがいいかもしれませんね。私には曖昧より厳密は難しいのですが他人へ配慮することとしてそういうのがあります。

noname#82286
質問者

補足

脳という考え方での在るなしは別としてまあそれ以外の現実を直接変化させることは無理なのではないかと思っているんですがどうでしょうか?