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幕末の伊達前田について
(1)幕末の仙台藩は近代化に立ち遅れていたのですか。 (洋式軍備等の点で) (2)石高が多いにもかかわらず伊達や前田は幕末期にほとんど情勢を傍観してるだけだったんですか。
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- DieMeute
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(1)遅れていました。 77万石の薩摩藩は大砲を約290門、小銃を約2万2600丁装備し、40万石の長州藩は大砲を約290門、小銃を約2万4000丁装備していました。 それに比べ62万石の仙台藩は大砲を約84門、小銃は約6260丁しか装備しておらず、しかも大砲の中に新式の旋条砲は一門もありませんでした。 西洋式の戦術で戦うには小銃も大砲も少なく、また大砲も旧式だったと言えるでしょう。 仙台藩は英国式の訓練を施した「額兵隊」という精鋭部隊を作りましたが、慶応四年四月という非常に遅い時期に編成されたものであり、部隊も800人でした。その為、官軍が仙台藩に迫ってきても部隊の装備と訓練が未だ整わず、藩から出撃命令が出されても、隊長の星恂太郎が、準備が整うまでの猶予を求めたと言われます。額兵隊の準備が整った時には、仙台藩は戦況の悪化から既に降伏を決めていました。 一説によると星恂太郎は独断で額兵隊を率い出撃しますが、途中で藩公の説得にあい、戦う事なく兵を引き、その後、榎本艦隊に身を投じたとも言われています。 (2)仙台藩は奥羽越列藩同盟の盟主として、官軍と戦っているので、ただ傍観していたとは言えないと思います。戦い始めてすぐ降伏していますが、それでも戦死者を1226人も出しています。負傷者はもっと多かったでしょう。一説によると仙台藩の兵力は2万人という話もあるので、それから考えると、かなりの犠牲者を出したと言えるのではないでしょうか。 加賀藩は、始めは幕府に味方しようとしましたが、まだ参戦する前に、鳥羽・伏見の戦いで幕府が敗北した事を知り、薩長に味方する事を決めます。まあ、勝ち馬に乗ったとも、日和見したとも言えますが、その為、薩長からはあまり信頼されず、重要な役を担う事はありませんでした。
- a-koshino
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仙台藩には洋式精鋭部隊、額兵隊がありましたが、仙台から出撃することはありませんでした。消耗を恐れたのでしょうか。仙台藩降伏後に榎本艦隊へ加わり、蝦夷地で活躍しました。 仙台兵は多数派遣されましたが、ドン五里と揶揄される始末(大砲ドンで五里逃げる)。細谷十太夫の烏組だけが勇名をはせましたが、烏組が結成されたのは郡山なので、仙台藩の人たちは少なかったでしょう。
幕府軍が江戸に迫る中、小栗は、 箱根の山頂で敵を挟み撃ちにし、海上から軍艦の艦砲射撃をすれば勝てると進言します。(実行すれば確実に殲滅出来たはず。) 敵は中山道だけになります。 小栗は翌日、勘定方の暇を言い渡され、国へ帰ります。 中仙道には大砲を与えただけの新撰組を送り込み大敗走します。 (殆どやる気が無い。) 「これでも」 江戸城の無血開城以降も、東北の諸般は全て幕府派でした。 軍艦は無傷で残っています。 一戦構える準備もあったようです。 しかし、会津藩が降伏すると、ことごとく新政府に付きます。 軍備の違いなどを痛感し降伏したとありますが、 旗頭の松平に喜んで付いて行ったが、これがいなくなったので もう駄目だと思ったのではないでしょうか? 時代が変わったのだと言う認識です。 当時の軍艦には、軍資金の金、銀の延べ棒が満載されていたそうです。 日本海の荒波で難破した軍艦が発見され、サルベージをした結果、 全てが鉛にメッキをした棒であったそうです。 これで東北諸国を安心させていたのです。(だましていた) また、銃の性能が違いすぎ、相手の射程であってもこちらは打てない状況が頻繁に起きました。 錦の御旗だけで大敗走し、船で逃げ帰っています。 方や、子供まで動員し、「切腹するまで頑張ります。」 上に立つ人間の方がこれでは頑張りようが無い状況とも受け止められます。
- 6dou_rinne
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1.伊達は他の西南の諸般に比べれば大身の藩士が多く、藩の軍隊というのはそういう藩士たちの手兵の寄せ集めで、装備もそれぞれにばらばらで、藩士直属の一部を除けば戦国以来の装備の部隊が多かったようです。 2.伊達は奥羽越列藩同盟の盟主として新政府軍に対抗しましたが、早くに降伏しました。 前田は藩内がほとんど旧守派だっために、鳥羽伏見のおりには幕府側につこうとしたようですが、参戦前に幕府側の敗北を知って新政府側につき、重要な局面で活躍することはできませんでした。