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河合隼雄と村上陽一郎の文章について
今、受験で現代文に取り組んでいるのですが、私は村上陽一郎(敬省略)の科学哲学の本をしばしば読んでいるのですが、河合隼雄が村上陽一郎の人間科学の研究の仕方を批判されていました。 河合隼雄をは人間の科学が真の分析法で、哲学は誰が学んでも同じ答えが出てくると解説されました(○ゼミ講師に) 哲学とは本当にそういうものなのでしょうか? 低次元な質問ですみません。
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実は、わたしは村上陽一郎については、何も読んだことがありません。ただ、彼の方法についての批判というようなものは、少し耳にしたことがあります。他方、河合隼雄の方は、かなり本を読んでいて、彼の立場は或る程度分かっているつもりです。村上氏について何か著書を読んでいましたら、この質問に答えることができたのですが、読んでいないので、回答はできないと思ったのです。ただ、どういう批判を河合氏が行ったかは、ほぼ予想が付いたとも言えます。 補足回答を読みまして、「哲学とは何か」というような大問題についての、ごく短い簡単な私見を述べさせて戴くこととします。 >> 哲学とは本当にそういうものなのでしょうか? と尋ねられていることからも、哲学とはどういうものでしょうか、という広い意味の質問を、村上氏の「科学哲学的人間科学」に対する河合氏の批判を具体的きっかとして尋ねておられるとも解釈できるからです。 そこで、まず知らない方の村上氏ですが、氏は「科学哲学」の立場に立ち、「人間科学」の研究をしているとのことですが、科学哲学とは何かということです。これは、「科学的な哲学」ではありません。村上氏の場合は、あるいはそうなのかも知れませんが(はっきり分かりません、というか知りませんので確認できません)、「科学哲学」というのはわたしが理解する処では、科学の哲学的基礎付けを行う「哲学の範疇」のことのはずです。フッサールの哲学は、現象学と普通言われ、科学哲学とは言われませんが、フッサールは、元々科学者で、「真理」の客観的基礎付けはできないのかと考え、現象学的還元というものを提唱し、現象学的還元によって、「真理」を人間は把握できるようになるはずだとの構想で思索し研究したのですが、結果は、「真理」を客観的に基礎付けることはできない、ということになります。 ポパーの「反証可能性」を科学の条件とする科学哲学が、科学の哲学的基礎付けとして、現在では、有効とされているのだと思います。 しかし、科学哲学と呼ばれるものは非常に多様であり、またニュートンの物理学が立てられたのが17世紀ですが、その頃すでに、あるいはそれ以前から、科学の哲学的意味や、科学の論理的構造などについての研究や考察はあった訳です。20世紀であれば、ラッセル・ホワイトヘッドの大著 Principia Mathematica は、数学を論理的に基礎付ける試みであったのですが、これはまた、「論理」とは何かという問題の現代的提起にもなります。ホワイトヘッドの科学論や、ヴィトゲンシュタインの言語の分析は、「論理実証主義」という20世紀の哲学の一つの潮流を生み出し、これが20世紀の科学論・科学哲学において大きな位置を占めているとも言えます。しかし、20世紀には、論理実証主義だけではなく、それとは立場を明らかに異にする、ディルタイやベルクソン等の「生の哲学」があり、またハイデッガー等の「実存主義哲学」があり、ソーシュールの言語学に源を発するとも言える、「構造主義」もあり、それぞれが、相応に科学の哲学的意味というものを提示しようとしたのも事実です。マルクス主義は、科学的唯物論哲学だと称し、総合的な科学と哲学の連関の展望を描こうとしましたし、カトリシズムは、また科学に対し、独自の深い考察を行ったとも言えます。 村上氏は「人間科学」だそうですから、人間の存在についての「科学哲学的解明」を目指しているのだと思えます。しかし、人間科学は、「人間についての《科学》」である訳で、科学であるという条件を前提にしたものと言えます。その場合、村上氏の立場は、「科学としての心理学・行動主義的心理学」にも近いものではないかと推測されます。村上氏の人間科学では、人間の行動を扱うだけではなく、その心理や、また、人間の大脳構造の大脳生理学的・神経生理学的知見を元とした、「人間の存在・意識や思考力/認識や知覚」の構造解明が主要な課題になっているのではないかと思います。このような大脳生理学や神経生理学による科学的知見は、いわば、人間を考える上での基礎資料・データとなる訳で、しかし、それをどのように人間存在の論・基礎付けと解明に位置付けるかは、研究者の立場や方法や思想で多様となります。 河合氏が、「人間の科学」をむしろ強調したのは、「科学」である前に、「人間についての学」は、「生き方 way of life」の問題であり、「人間の存在」は、近代/現代科学的分析の対象として、没価値的・(擬似)客観的に把握できるものではないという認識を示したものでしょう。大脳生理学や神経生理学や行動主義的心理学や比較心理学の知見を元に、何を「人間」について描くべきか、何を人間について把握し了解すべきか、それは、人間は、人間的交通(human communication)のなかで、「誰であるか」が了解されるもので、誰でもない人間についての「何であるか」の科学は、現代科学の方法として、妥当であるかも知れないが、人間を「科学の対象」として分析できるとする考えがむしろ、傲慢なのであり、間違っており、科学の検証にも配慮した「人間の学」または「魂・心の学」が本来の人間存在の研究方法であるというのが、河合氏の主張であり、考えなのではないでしょうか(これを、「人間科学」に対し、「《人間》の科学」と河合氏は述べたのでしょう)。 これについては、「心理学とは何か」という質問に答えた、わたしの回答のなかで、「科学としての現代心理学」と、「心・魂の学としての心理学」という二つの心理学について説明しました。以下のURLにその文章があります。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=173615 「哲学とはどういうものなのか」については、以下に、或る質問の回答として準備したものの、回答として出さなかった文章での、「哲学と科学」について、わたしなりにまとめた形の短い説明があります。(こんな大問題を、簡単に勝手な言葉で説明するわたしは、かなりいい加減なのだと思いますが)。 ====================================================================== まず、「哲学」とは、philosophia ですが、これは元々「愛智」の意味で、このような用法は、「魂への気遣い」を述べたソークラテースから始まっているとも言えます。ソークラテースは、「人間にとって善とは何か」ということを考えつづけた人です。ソークラテースは、「言葉嫌いになるのはよそう」と述べたと、プラトーンが伝えています、この場合、「言葉」は、ロゴス(logos)のことで、これは理性とも知性とも、ものごとの理(論理・原理)とも言える概念です。つまり、「論理嫌いにならないようにしよう」と、ソークラテースは言ったのです。 逆に言うと、「論理」や「知性」が哲学においては重要であるということになります。哲学はその原義、その起源から言えば、世界をいかに把握するかという方法において、論理や知性に基づいて探求するという面と、善とは何か、従って、人はいかに生きればよいのかの二つの大きな柱があるとも言えます。哲学は、自然現象の観察とその理性的・論理的解釈=把握である「自然学 Physica」と、アリストテレースの書物の呼称からその名が来た、世界や人間、存在者の存在の根拠や、ありようの機構を超越的に求める「形而上学 Metaphysica」と、人間の生き方を尋ねる「倫理学 Ethica」の主に三つの基本主題から成り立つことになります。 哲学とは、従って、世界把握の論理的方法であり、形而上学的問題把握を持ち、また倫理学的な問題把握を持つということが分かります。これがとりあえず哲学です。 次に「科学 science, scientiae」とは、元々分科学の略ですが、西欧の言葉の起源からいうと、これは「知識の学」となります。「知識」とは何かというと、scientia(スキエンティア)であり、これはサピエンティア(sapientia)の対語ともされ、サピエンティアとは、智慧・叡智的知識で、善とは何か、共同体と個人の関係の理想は何かなどの智慧に属する知識の謂いです。サピエンティアは、哲学における原義「愛智」に対応し、これを問題にするのが哲学であるとも、特に、善を尋ね、人の行為の規範を求める倫理とは何かを問うのは、「倫理学」になります。しかし、科学は寧ろ、「自然学」に近く、先の哲学の三つの主題の一つである自然学分野を扱うものだとも言えます。科学は、客観的に(複数の人のあいだで、そうだと)認められる現象を元に、世界の像を部分的に築き、これらの部分像の総体として、世界のありようと科学的本質=原理を提示する学問となります。ポパーは科学の定義を立てましたが、それは客観的に検証可能な、現象についての理論であり、「反証可能性」をクリアーしている理論となります。哲学の三つの主要主題の一つである「自然学」は、科学が今日では扱い、更に倫理学の課題であった部分を、法学・社会学・経済学・政治学などが部分的にカバーしているとも言えます(哲学の主題を科学が囓り取ったとも言えます)。 ======================================================================
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- gelgel
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村上さんは、西洋の近代哲学の方法論に則って人間を研究しています。そこでは人間は対象として客観視され、分析されます。 ところが、そのようなやり方で分析された「人間」というものは、しばしば我々生の人間とは無関係な代物になりがちです。人間の分子構成がどうであろうが、自分の日常生活には直接何の影響も及ぼさない、という訳ですね。 そこで外側から分析する、というのではなく一緒にその人間を「生きながら」共に経験したり、分析したりしていくという手法を一部の哲学者、特にユング派の心理学者はとるようになりました。そこではカウンセリングという独特の経験が色濃く影を落としています。 カウンセリングでは相手を突き放して観察すると、患者は心を開いてくれません。相手と同じ世界観を共有し、なおかつどこか覚めた眼で観察するというヌエ的な立場が要求されます。その手法は科学ではありませんし、西洋哲学というより東洋哲学、実践哲学に近いものですが、河上さんはそのような行動を通して、初めて人間を全人的に把握し、分析することができると考えているようです。 どちらが正しいとはいえませんし、「分析」という意味自体が両者の間で食い違っているようなのですが、一応河上さんの手法は西洋の学問の伝統上では異端とされるユング派、そのユング派からも氏は破門同然の扱いを受けていた、ということを言っておきます。もちろん、異端=間違い、という訳ではありません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 凄く分かり易くて、ホント嬉しいです。 まだまだ未熟は承知ですが、これからの学問の意欲に繋がりました、 本当にありがとうございました。
- starflora
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河合隼雄の村上陽一郎批判とは、どういうことを批判していたのか、説明してください。貴方の理解できた範囲で構いません。他者に分かるように説明してください(他者に分かるように説明する文章を書くというのも、現代文の訓練というか、学習の一部ですよ)。念のため、数行とかではなく、最低でも4行か5行は書いてください。数行で説明できるものとできないものがあります。この場合は、できないはずなのです。また、しても、他者にうまく伝わりません。
補足
ご返答ありがとうございます。 河合曰く、人間の科学こそが人間の学問としてふさわしい.なぜなら、村上式の人間科学では人間は分析され、もののように扱われ、本来の自分も人間であるということを欠いている。 人間の科学というのは、対等な立場で対象(この場合人間)を扱って初めて、この学問は成立するのだ。 という解釈でした。合ってるかは定かではないです(涙) でも、人間科学と人間の科学は違うのだという事が重要と思われます. そこで、今まで村上の本を読んでいた私は「え?ダメなの、村上の科学哲学?」と驚いたので他者のご意見を伺いたかったのです. 科学的な哲学っておもしろいなと思っていたのですが、他のものはソクラテスとラケスの対話とか、別物って感じだったので。 でも、ソクラテス大好きです。 未熟な補足ご容赦下さい.
お礼
ご回答ありがとうございます。 しかも、若輩者に丁寧に分かり易く、長く述べてくださって本当に有り難いです。 哲学は、奥が深いですね。でも、楽しいですが今の段階では全く愛読者という感じなので、少しは大学で知識つけられたらいいな等と明るく前向きに考えられる糧となりました。本当に感謝しています。