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米俵の中味

江戸時代、米は米俵にいれて年貢を納めたと思いますが、米俵には籾米をそのまま入れたのでしょうか。それとも籾を取り除いた玄米の状態で入れたのでしょうか。人によってさまざまな回答があってよくわかりません。宜しくご回答くださいませ。

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  • Pinhole-09
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回答No.3

年貢米は普通は籾米でした。   信濃松本の水野忠職の貞享3年の年貢収納の改定で、 1.これまで年貢米は禾(のぎ)をつけたままであったが、今後は禾を除いたものを納めさせる。 2.前は年貢米は1俵に籾5斗3升を入れ、玄米にして2斗5升と計算していたが、今後は3斗5升と計算する。     とあります。 籾5斗が玄米2斗5升に相当する「5分摺り」(籾3升分は手数料)というやつです。 藩は玄米より保存がきく籾米を年貢とし、必要に応じ玄米にして札差に渡し、金銀に替えました。 しかし藩によっては、また藩のなかの一部の地域によっては、玄米で年貢を納めさせることがありました。 また松本藩のように、途中で納入法を替えることもありました。    江戸時代は玄米1俵は3斗5升が原則で4斗ではありません。 玄米を搗いて白米にした最終流通段階でも同様と思います。

shimizu9
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。すっきりしました。長野のような寒いところでも籾米が普通なのですから、南国地方の藩など特にそうですね。また、一石が大体二表半ぐらいということもわかりました。 これで、ある藩では石高が籾米高で表示している理由もわかりました。感謝申上げます。

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回答No.5

磯田道史:「武士の家計簿-「加賀藩御算用者」の幕末維新-」、新潮新書という本を読んでいますがここに記述あります。アマゾンや楽天で買えます。加賀藩の場合ですが、 1.武士に支給される場合は玄米を入れている 2.1俵に5斗入。俵に詰める量を「俵入」という。地域ごとの「俵入」は大石久敬「地方凡例録」が詳しい。 3.余談:本書によると加賀藩で切米50俵から功績で知行取70石に昇格した武士がいた。切米取より知行取の方が格上で出世したが、実際の手取りは25石から22.5石に減少した。切米は支給量だが、知行取は知行地の生産高なのでそこからの年貢が実際の収入になる。 以下はまったくの私の考えです。史料、文献の根拠はないです。  「人によってさまざまなによってさまざまな回答があってよくわかりません」とのことですが、用途で分かれていたのではないですか。  籾米よりも玄米で詰めたほうが実米量はあがるので輸送するなら玄米、保管するなら籾米。だから籾米1俵と玄米1俵では資産価値が違うわけです。ただし、藩の収入や武士の棒禄支給は玄米換算で表す、と考えたら妥当だと思います。  これは実務をしていれば似た事例がでてきます。私はメーカー勤務ですが、工場である化学薬品溶液を大量に仕入れ、タンクに貯蔵して使用しています。用途によって溶液濃度何%かを使い分けて仕入れ、タンクも濃度ごとに何基かあります。しかし、取引上は50%が標準なので、仕入先に仕入代金を払う場合は50%溶液1リットルあたり何円と決め、 仕入れた液の量÷濃度×50%に換算しています。 また経理上も20%液と50%液では資産価値も異なります。決算期に仕入れて未使用の液の棚卸資産額を算定するのですが、これも同じ方法で50%液換算します。20%液100リットル、50%液100リットルがタンクにあれば経理帳簿上の原料在庫は50%液140リットルであるとみなします。  つまり、支払伝票上や帳簿上は1種類の濃度しかないが実際には何種類かの濃度品があるわけです。  机で数字ばかりいじっていて実務を知らない経理課の社員がこの帳簿を見たらこの溶液は1種類しかないと思いこんでも不思議はありません。  本件の米俵も同じことがいえるんじゃないでしょうか。もちろん、この化学薬品溶液のようなことが江戸時代の米でもあてはまるかどうか何の根拠もありません。しかし、年貢徴収も年貢米輸送も現代でみれば企業実務です。帳簿上は玄米換算、実際は玄米、籾米併用ということは十分考えられます。  また、お上から年貢は玄米で納めろとお触れが出たからといって、末端現場が「ははあー、おおせに従います」といって長期保管が必要なものまで玄米詰にするわけがありません。これは「年貢納入報告書は玄米詰の米俵に換算統一しろ」という意味だと思います。そう、本社の経理が工場に向かって「棚卸在庫報告書は50%品で統一しろ」というのと同じことです。

shimizu9
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。納得しました。実際の帳簿扱いなどは、目からうろこでした。感謝申上げます。

  • m-jiro
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回答No.4

私もこれについては疑問に思っていました。年貢を米で納めたことはよく知られていますが、籾だったのか玄米だったのかについては明確に書いてある史料には出会えていません。どうもないらしいのです。 以下、私が調べたものを断片的ですが、記してみます。 ★薩摩の年貢は籾米。「霧の木曽三川淵」瀬戸口良弘より ★年貢の納入については田租は米(籾)、畑租は貨幣というのが一般であったが・・・「農民生活事典」柏書房 ★年貢納入にあたっては「もミ・ぬか・くたけ米」が皆無であるように・・・総社市史(浅尾藩の触書より) ★幕府の米蔵は浅草以外は備荒用で籾倉。「江戸の米屋」土肥鑑高 ★「お蔵米取り」というのは幕府直轄領から年貢として上がってきた玄米を収納する「お米蔵」から支給されていたから・・「江戸の下級武士」高柳金芳 これらを総合して解釈すると藩によって違っていたように思えます。また備荒用など用途によって変えていたとも思えます。 余談ですが、俵に詰める米の量は4斗が多かったようですが、3斗とか5斗など何種類もありました。幕府は3斗5升だったようです。私の出身地では3斗3升3合3勺入り、つまり3俵で1石でした。ただしこれは公称で、実際には俵の隙間から漏れた量を補填するために6%余分に納めねばなりません。実際俵に入れるのは3斗4升5合で、6%には少し足りません。不足分は銀で納めました。 以上、満足して頂ける内容ではないと思いますが、ご参考まで。

shimizu9
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。納得いたしました。普通、籾米を俵に入れていた(長野の場合など)という回答をくれた人もいましたが、やはり、藩や用途によってまちまちだったというのが一番納得できますね。  薩摩藩では、石高まで籾米計算だったいうのは有名な話ですが、暑い地域では、痛みが激しく、籾で保存しておくのが、昔から一般的だったからでしょうね。余談も納得です。ありがとうございました。

  • komes
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回答No.2

年貢は玄米で納入する決まりですから米俵の中身は玄米でした。 これは当時は玄米を食べる事が多かったのと、精米による保存性が下がることを避ける為でした。 精米を食べるのは都会や武士階級の習慣でした。  「頼まれれば越後から米つきに」という言葉があるように、江戸まで米つきに出稼ぎする人もあるくらいでした。

shimizu9
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。最初、私もそう思っていたのですが、輸送の途中(船で大坂等に送る場合など)で、水に濡れる(雨に濡れても)と玄米でもほぼだめになってしまうのだそうです。ですから、籾の状態だと乾かせばすむので、そういう状態にしていたのだそうです。玄米も劣化しないのは、せいぜい3ヶ月ほどだというのです。そう云われると、米が水に弱いのは実感としてわかるのですが・・・。

  • SAYKA
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回答No.1
shimizu9
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。もっと具体性があれば、助かるのですが・・・。