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信じると判断するの違い
「信じる」と「判断する」というのは たとえば、「Aがあると信じる。」と「Aがあると判断する。」というのは「Aがある。」というのを疑わない、または否定しないときであると思うのですが、何か、「信じる」と「判断する」というのは違うような気がします。 また、「信じる」とは論理的でなく、断定することだと思ったのですが、「人間が石油を燃やしているから、温暖化が進行していると私は信じています。」と結構正しそうな根拠や基準があるときでも信じるというのは使うと思うのです。 そうすると、「信じる」と「判断する」というのは同じなのでしょうか?それとも違うものなのでしょうか? ご教授お願いします。
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客観的にも100%肯定できることは、●●である。●●だ。●●する。ですね。これを信じるという人はおらず、いまさら判断する必要すら無いので当たり前のように肯定して終わりですね。 例えば、動物は確実に死ををむかえる。光は直進する。の類ですね。 あとは、確率論的、相対的、あるいは、精神論的なことであって、その事象の、確実性、蓋然性、可能性を如何に相手にうまく伝えるかではないでしょうか。 一般には、 99.9%以上でも100%とは言えないことは「判断する」や「断定する」を使いますね。本来信じるでも良いのですが、0.1%のリスクやその責任を発信者が負わないというイメージを与えてしまいます。 例えば、DNA鑑定で犯人を断定する。ですね。 誰かが如何に強く信じていたとしても、責任あるものが断定しないと有罪にはできませんよね。 95%以上でも「判断する」を使います。 例えば、ある薬剤の臨床実験で統計学上95%有意で効果が認められる。ですね。 これに信じるを使うと、その効果を疑う余地が大きく感じられます。 製薬会社は、効果を信じているだけではだめで、効果があると判断しないと(責任を負わないと)一般に販売することは信義に反しますね。 以上の対極で・・ 神、愛、正義、道徳などの抽象的概念に対して相手の共感を得るためには、やっぱり信じるのほうが自然ですね。そもそも責任を負いようがない対象ですから、判断することと信じることに差異はなく、判断するを使うと無責任な印象がありますね。 温暖化に関して、研究者、専門家は、「判断する」を使わないと論理性が欠如している印象を受けてしまいますね。一方、その報告を受けている側は、CO2と温暖化の因果関係の説明を聞いてただけで確認をしている訳ではないので「信じる」で良いし、それで十分だと思います。
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「家事だ!」 主語が省略されていますが、これはは真偽が問えるので判断です。 しかしそれを信じるということ自体には真偽はありません。
お礼
しかし、それが家事だと信じていたけど、本当は家事じゃなかったと真偽が問えるような気がして、ちょっと区別がつかないような気がしました。 ご回答ありがとうございます。
- ganesha_me
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言葉の使い分け程度でよければ、参考意見に・・。 「信じる」ことは感情を伴って「信じたい」という肯定的な時にも使います。 「判断する」のは冷静に白黒付けたい時ですね。
お礼
>「信じる」ことは感情を伴って「信じたい」という肯定的な時にも使います。 「判断する」のは冷静に白黒付けたい時ですね。 しかし、たとえば、何かの理由によってAが生じると判断したいとか、結構冷静でなくても白黒付けたがっているような気がするのですが。 どうなのでしょか。 ご回答ありがとうございます。
- adaypajimy
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「あたし、 間違っててもいいから、 あなたを信じたい」 トルストイによると、 愛の反対は無関心だそうです。 信じるの反意語は信じないじゃなくて、 愛と同じく無関心なのではないでしょうか。 信じるor無関心 信じるor信じない ←これは判断です。 AorB ←これも判断です。 指向性が常に一方的なものが、「信じる!」ではないでしょうか。 リスクや間違や仮定も、判断して人は信じます。 信じるとは、判断の結果です。
お礼
>信じるとは、判断の結果です。 確かに、「Aがある。」と信じるとはあまり言わず、「Aがある。」と判断して、それを信じると言う方が多いような気がしました。 ご回答ありがとうございます。
補足
>指向性が常に一方的なものが、「信じる!」ではないでしょうか。 リスクや間違や仮定も、判断して人は信じます。 これはリスクや間違いなどがあると判断して、信じるということなのでしょうか? 補足お願いします。
- tabibito34
- ベストアンサー率29% (31/105)
例えば、状況判断をするときには、情報を分析した結果自分の考えを出しますね。 しかし、それが100%確実でないときはどうでしょうか? もう答えはおわかりだと思いますが、必ずしも比較するものではないと思います。 人生においては、100%確実でないことの方が多いと思います。私の答えもそうです。
お礼
>人生においては、100%確実でないことの方が多いと思います。私の答えもそうです。 こういう場合、信じればいいと言うことですね。ご回答ありがとうございました。
世界がどのように始まったか どのようなもので出来ているか あるいは 人間存在も どのように生まれてくるのか どのようなもので出来ているのか こういったことは 経験合理性で分かるものです。(分かるようになると考えられています)。 ビッグバン宇宙で時間の世界が始まったとか 基礎粒子などで出来ているとかと《判断》します。 ただし 生命がDNAで出来ていると判断し分かっても なぜそうなのかは 分かりません。時間の始まる前のことは 分かりません。おそらく 分かるか分からないかが 分からないのだと判断します。 分かるかどうかが判断できないことがらは 絶対の領域です。この領域のことについて あると仮りに言ってみるとき それは あると判断するという要素も伴なっているかも知れないのですが そもそもは あると《信じる》というかたちになります。ないと仮りに言ってみる場合も 同じです。無いと信じる あるいは あるとは信じないのように言い表わすという決まりです。 絶対の世界については 信じないと信じる場合を含めて 一般に《信じる》という態度を採ります。その他の世界については 経験思考によって《判断する》です。 いま 経験世界について 判断するというとき まだ未知の部分が残っているとき 方便として 《「人間が石油を燃やしているから、温暖化が進行していると私は信じています。」》というふうに 《信じる》という言葉を使う場合も出て来ます。一般に 強調する場合です。 逆に 信じる対象(もしくは 非対象)である絶対の世界について 何を思ったか 《神を見た》とか《私が神である》とかいうふうに《判断する》かたちで表現する人が出たりします。超経験を経験した(???)のだと言おうとしている場合のようです。 このような表現の問題だと考えます。
お礼
経験世界について 判断するというとき まだ未知の部分が残っているとき「信じる」を使ったり、信じる対象のものでも「判断する」とすることがあるんですね。 分かりやすい説明ありがとうございました。
- shift-2007
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信じるは、心理 判断するは、論理 じゃないですか。 信じるには必ず、恐怖が含まれています。 来世を信じることは死への恐怖が含まれるんじゃないでしょうか。
お礼
>信じるは、心理 判断するは、論理 確かに信じるというのは、たとえば、「神が存在しない」と思うのが嫌だから、「神が存在すると信じる」と使いますね。また、「神が存在しない」と思うのが嫌だから、「神が存在すると判断する」とはあまり使わない感じがしました。 ご回答ありがとうございます。
お礼
>客観的にも100%肯定できることは、●●である。●●だ。●●する。ですね。これを信じるという人はおらず、いまさら判断する必要すら無いので当たり前のように肯定して終わりですね。 例えば、動物は確実に死ををむかえる。光は直進する。の類ですね。 そうすると、この例でも、疑おうと思えば、動物は確実に死を迎えるとは限らないし、光が直進するとは限らないのではないかと疑えるので、疑ってしまったときは、論理的にも実験的にも確認できないときは、動物は確実に死を迎えると信じるや光が直進すると信じるとかになるのですね。 簡潔にまとめてもらい、勉強になりました。 ご回答ありがとうございます。