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「信じる」と「判断する」の違い

 「信じる」と「判断する」というのは  たとえば、「Aがあると信じる。」と「Aがあると判断する。」というのは「Aがある。」というのを疑わない、または否定しないときということでは同じであると思うのですが、何か、「信じる」と「判断する」というのはどこか違うような気がします。  「信じる」と「判断する」というのは同じなのでしょうか?それとも違うものなのでしょうか?  ご教授お願いします。

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  • ベストアンサー
  • Vwiyoonn
  • ベストアンサー率35% (162/455)
回答No.3

 根拠/客観性の有無です。  なにも乗せていない机の上を指して「わたしはここにリンゴがあると信じる」と、いわれてもそれに対して反論はしにくいですよね。『信じる』のは個の内的な働きなので、他者がそれに口出ししても「それでもわたしは信じる」と、いわれてしまえばおしまいです。  同じように「わたしはここにリンゴがあると判断した」と、いわれたとき、それに対して客観的に反論できるはずです。  また、それぞれの語を「信じられない」「判断できない」と、いうように否定形にしてみると、それぞれの意味の違いがより分かりやすくなるのではないでしょうか。  「信じられない」人を「信じられる」ようにするには、客観的な証拠を集めるよりも共感させるべきでしょうし、「判断できない」人に「判断させる」には共感よりも論証が必要というように、心情的/論理的という違いではないかと思います。

spitzer3
質問者

補足

>なにも乗せていない机の上を指して「わたしはここにリンゴがあると信じる」と、いわれてもそれに対して反論はしにくいですよね。『信じる』のは個の内的な働きなので、他者がそれに口出ししても「それでもわたしは信じる」と、いわれてしまえばおしまいです。  「判断する」というのも個の内的な働きなのではないのでしょうか?  たとえば、よく自分の論理で判断を下すと言うと思うのです。 >心情的/論理的という違いではないかと思います。  少し疑問なのですが、「人間が石油を燃やしているから、温暖化が進行していると私は信じています。」と結構正しそうな根拠や基準があるときでも信じるというのは使うと思うのですが、どうなのでしょうか?

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その他の回答 (2)

回答No.2

「信じる」は主観的な信念であって、「信じたい」という希望もニュアンスに含まれるような感じがします。 「判断する」は、客観的な裏付けがある場合の認識だと思います。客観性に乏しい場合は、「判断ミス」になるわけです。

spitzer3
質問者

補足

>「信じる」は主観的な信念であって、「信じたい」という希望もニュアンスに含まれるような感じがします。 「判断する」というのも主観なのではないでしょうか?  たとえば、他の人が宇宙人がいると言わずに、自分の主観で勝手な因縁をつけ、客観性がなくても「ある他の人に分からない理由で宇宙人がいると私は判断した。」と言えると思うのです。 >「判断する」は、客観的な裏付けがある場合の認識だと思います。客観性に乏しい場合は、「判断ミス」になるわけです。 しかし、たとえば、「人間が石油を燃やしているから、温暖化が進行していると私は信じています。」と結構正しそうな根拠や基準があるときでも信じるというのは使うと思うと思うのですが、どうなのでしょうか?

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  • hekoshiki
  • ベストアンサー率33% (46/139)
回答No.1

「Aがある」と思う事の根拠があるかないか(薄いか濃いか)だと思います。 「判断する」という言葉を使う時は何らかの根拠や基準があっての事だと思うので。

spitzer3
質問者

お礼

>「Aがある」と思う事の根拠があるかないか(薄いか濃いか)だと思います。 「判断する」という言葉を使う時は何らかの根拠や基準があっての事だと思うので。  しかし、たとえば、「人間が石油を燃やしているから、温暖化が進行していると私は信じています。」と結構正しそうな根拠や基準があるときでも使うと思っている感じのもします。  ご回答ありがとうございました。

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