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都市文化について?
日本のような高度産業社会では、さまざまな面で「都市」の境界が拡大し、逆説的に「都市」そのものが見えにくくなっています。そこで、「都市」とは何か?「都市文化」とは何か?を教えてください。
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the phantom city of tokyoに訂正
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- ken-deleuz
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どうも 古代ギリシャの話だったんですね。”滑らかな空間”というのがちょっと理解できませんが、補足への回答ありがとうございました。 「都市文化」とは何か? これについていろいろ考えたんですが、結局うまくまとまらなかったので、簡単に書き込みます。 文化にもいろいろな見方があると思いますが、テクノロジー(携帯電話)と東京で考えたいと思います。 携帯電話はいまや、誰もが(もちろん持ってない人もいます)街中で持ち歩き、どこでも情報を引き出したり、コミュニケーションをとったりすることができると思います。僕は詳しくは知らないんですが、最近、街中で記号(バーコード?)を携帯で読み込むことができるらしいですね。そこから情報を引き出すことも可能だとか(ネットで見たことがあります、以前は雑誌などについていたような気がしますが...)。まず、この携帯電話(テクノロジー)の文化と都市を考えたとき、時間と空間の圧縮が考えられます。(これは何も携帯電話だけではなく、インターネットもそうです)。suzuki akiraという 作家が『Do android crows fly over the skies of an electronic Tokyo? 』の中で、東京を『the phantom of the city of tokyo』としていました。東京はテレ・ネットワークに覆われてしまった、ネットワーク中心の都市だと。 前にどこかのホームページで、見たんですが、”もし疲れたら携帯の電源を切れ”と書いてありました。携帯を切れば、外部からの干渉を受けなくなる(職場の繋がりや、友達関係など)ということなんでしょう。つまり、携帯のネットワークから離れれば、私たちはこの『the phantom of the city 』から消えてしまうのでしょうね。なんかマトリックス見たいなSFの世界ですけどね。 都市とテレ・コミュニケーション・テクノロジーの文化とは、時間と空間(スペース)の見直し(ネットワーク)、そしてそこで生活する人々の関係(intersubjectivity)ではないでしょうか。 参考まででした
- ken-deleuz
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どうも お礼欄に書かれている通りだと思います。ちょっと質問が幾つかあります。まず、 ”近代以前は、商業都市は、portとう港に閉じこまれていたそうです。portという限定した場所でしか商業がなされずに、そして商業にたずさわる人々は差別されていたそうです。” なんですが、これは何所の国ですか? 近代以前は封建制度が横行していた時代ですよね。monarchy(専制君主)がピラミッドの一番上で次にmerchant(貿易商人)、そしてland owner(地主)、ピラミッドの一番下ががpeasant(農夫)だと記憶しているんですが、そして生産手段を手に入れた人達は、資本家(middle class)へ、そこで働く人達はworking classと階級づけされるわけですけど。商人達が差別されたというのはちょっと初耳なので教えていただけると、今後の参考になります。 そして”都市的なもの”というのはどういう物なのでしょうか?
お礼
政治的都市の自由市民にとって、商業とは「悪の道へと誘惑する」負の存在でした。プラトンが商業について語っています。「自由な市民」には最もふさわしくない、きわめて恥ずかしいなりわいであって、貨幣に誘惑され、術策をつかって、ひそかに、商業を営むものは、先祖伝来の誇りと家名を汚したかどで、罰せられる。商業とはそれ自体が罪であり、毒であり、病気である。という風に差別されていました。商人は、外と接触して、外部のものを中にいれる媒体としての役割でした。その媒体を政治都市としては、必要としながら差別するという、アンビバレントな対応でしか処理できなかったと思います。時の権力者にとって、市場や商人の「なめらかな空間」にたけた技術をもった人々を、共同体と共同体の境界にある港という特異な空間に封じこめて、「なめらかな空間」が拡散することを防いだと思います。
- ken-deleuz
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どうも 今回、補足にだけアドバイスをここに書き込みます。質問の続きは明日にします。 City、townの違いは何なんでしょうかね... 都市にだって居住区はありますから、一概にcity(都市)を政治、産業の中心、townを居住スペースとして切り離すことはできないようにも思えます。イギリスではcityではなくtownと通常呼ぶらしいですよ。townは地方自治体に基づく国と同形の権力、統治団体、それと人口の数など細かい定義があります。僕は思うんですけど定義、そしてイメージとしてCity、townには違いは勿論あると思います。でもこれは権力による区画整理/地理的地図、つまりこのふたつの差異は結局のところ政治的な地理分割によるところが大きいと思います。そして村(village)ですが、これにもしっかり定義づけがされています。 僕はCity、town、villageの定義づけは目に見えない資本の権力下から生まれて来る境界線(定義)だと思います(乱暴な書き方ですけど)。つまりこの三つの単語は資本的に区分されますが、結局、その区分は実際存在せず、資本の大きな権力のながれを生み出す根っこの一部にしかすぎないのだと僕は考えています。 参考まででした
お礼
近代以前は、商業都市は、portとう港に閉じこまれていたそうです。portという限定した場所でしか商業がなされずに、そして商業にたずさわる人々は差別されていたそうです。その対比としての政治都市。政治都市の主役はもちろん王様であり、王は神の代理として、人民に神の言葉を、くもりなく発する責任があるので、そのノイズになる商業は、注意深く一定の区画に囲い込む必要があったのです。 しかし、近代になると、商業都市、政治都市の二元論が破裂して、工業都市なるものが登場していきます。安く資源を調達して、労働力と機械による大量生産を行う産業です。たえず新たな差異を作り出し、それを運動エネルギー源として規模を一方的にインフィニティーしていく都市が出現します。そして都市的なものが、権力、情報、流通を通じて全面化していきます。もう工業都市と切り離して単独としての政治都市や商業都市は成り立たずに、すべてが巻き込まれていきます。政治都市の王は神の代理としての機能は失い、商業都市も囲い込まれることから、どこでもがmarket place,marketed placeとして、商業も全面化して行き、都市がアメーバーのように膨張したのが現代と認識しています。
- ken-deleuz
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どうも City > town < village City > town > villageに訂正します
- ken-deleuz
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参考までに >都市とは何か? きっと広辞苑とか見れば”都市”の定義は分るのでしょうけどそれではつまらないので僕なりに書いてみます。僕は海外に5年住んでいます。僕が住んでいる町は、例えば東京と比べればとても小さな町で、とても”city”とは呼べるような場所ではありません。でもここに住んでいる人達はここをtownとは呼ばず、Cityと呼んでいます。City > town < villageのように辞書には定義されていますけど、その都市の定義って人口やスペースの規模、そしてその上での産業の発展が大きく関係していると思います。でもこの場所は人口もスペースの規模も東京より小さいから、東京から見ればここはやはりtownなのでしょうかね... 僕自信は「都市」という単語自体には無頓着で、特に気にしたことはありません。しかし、この単語をいろいろな側面(資本、権力、経済、文化、言語、などなど)から考慮した時、はじめてこの都市という単語と他の単語(村とか市)との差異を生み出し、特別な意味を読み取ることができるのでしょうね。そう考えると都市という単語、そして境界の線引き(県境/区画整理)、ここには単なるスペースの規模や人口の比率よりも、#1さんの言っていることも考慮して、もっと違う意味があるんでしょうね。 >都市」の境界が拡大し、逆説的に「都市」そのものが見えにくくなっています まずこの境界線というのが、僕には分らないんです。思うんですけど誰が、何のために県境や区分けをしているのか。これを単なる整理のための境界線と見ることもできなくもないですが、僕らが普段生活している中でこの境界線を特に意識しているとは言えないような気がします。そこで境界線を考えた時に、東京を例にとってみたとして、23区と市の設定、そして都市としてのスペースの確保、そこからの区画整理と地図作製(mapping)が挙げられると思います。この区画整理/地図作製には政治的、経済的権力(political, economic power)が大きく働いていると思います;それは地理的(スペース)所有(properties)とその権利など発生、資本としての発展、(super structure/economy basisの成熟)が都市として大きく寄与するもだと思います。(こまかいことは僕にはわかりません。)David Harveyという(有名だと思います)Marxist geographer (マーキスト派地理学者?)のthe condition of postmodernity: an enquiry into the origins of cultural change』 の中の一文を引用します。 geographical knowledge, became a valued commodity in a society that was becoming more and more profit-conscious. the accumulation of wealth, power, and capital became liked to personalized knowledge of, and individual command over, space. (Havey, p244) ※社会において、地理的な知識は価値のある物(商品/産物)になり、それはさらに、利益を求める意識の植え付け、高揚になっていった。財産の蓄積、権力、資本は個人的なその知識、またスペースへの支配に繋がるようになった。 この引用はちょっとあまり良い引用ではありませんが、Haveyは17-19世紀の啓蒙とmodernity、そして地理的、地図作製による資本の発達と支配、につて述べています。スペースの支配と利益と所有、それに伴う境界線(地図作製都)、そして資本主義の拡大。さらにHaveyはフーコーの名前をこの本の中で出して、地図としての地理は権力よる統制と管理だと述べています。そこで質問者さんの”... 見えにくくなって...”なんですが、とても面白い見方だと思います。Dleleuzeという哲学者の専門用語にRhizome/treeというのがあります。Rhizomeは日本語で「根茎」という意味です。木はその幾つもの根を地面の下にのばし、栄養を吸収しています。これを使って説明したいと思います。地図作製、境界線による区画整理によって各都市は運営、管理されています。しかし境界線、区画整理などは地図上の権力の管理でしかないのであれば、私たちには見えなくて当然です。そして、日本で考えて、全国の都市、その中の市や区などネットワークは幾つもの根っこにすぎません。そしてその複雑な根っこのようなネットワークが一つの木を形成しているのでしょうね。ただし、この木は地理的な日本、または都市をさすのではく、権力を指すと思います。幾つもの複雑に絡み合った権力的なルート(根)が地面から飛び出し、しかもそれは目に見えるようなものではなく、全くの切れ目や、境目もない資本のスムーズな流れを作り出しています。またBaudrillardという哲学者は(本のタイトルは忘れました)本当の権力は目に見えない物だと述べていたのを記憶しています。結局、僕がここで言いたいのは、もともと境界線というものは存在せず、地図上の管理と権力による統制にしかすぎないということ、そして権力による搾取ということです。さらに僕にとって都市という単語は便宜上(権力を覆い隠している都市としての定義による表象)のただの文字にしかすぎません。上でも述べましたけど、いろいろな側面からこの都市という単語を見た時に、そこから見えてくる他の単語との差異、そしてそこから生まれてくる意味により、僕たちははじめてこの文字を意識するのでしょうね。 >「都市文化」とは何か?については明日、書かせていただきます
補足
CITY TOWN VILLAGE と分けて考えるのは、よくわかります。 CITYとは政治都市であり、商業都市であるような気がします。東京やロスのような。 TOWNとは、住居が主であって、 VILLAGEは、それ以外で、農産物を生産するのが、主なような気がします。
都市の境界が拡大したといってもよいでしょうが、正確には郊外化です。かつては都市-農村という二元論で理解できましたが、今となっては、郊外という問題を抜きには都市を語ることができません。 都市とは、経済・政治・文化の集積、あるいは源です。都市文化は、かつての言葉でいえば、大衆文化です。数十年前に家電製品の三種の神器という言葉が使われましたが、みながテレビをもち、冷蔵庫をもつといった均質的な消費傾向をもちました。そして生活空間も均質化していきました。典型的にマンションに住み、子供は幼稚園から階段式にあがっていき、親はその子供を通してネットワークを形成していきます。この傾向が都市文化でしょう。
お礼
おかげさまで、考えがまとまってきました。現代のテレコミュニケーションが全面にハリメグせられ、行動をチェックできることや、「なめらかな空間」はドゥルーズの言葉で、平滑空間って訳されてたりもします。おそらく、アンチオイデップスで、ジンギスカーンが空間をオウダンすることを概念化したと思います。大変参考になりました。