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一芸に秀でた者を藩主が援助
囲碁の本因坊秀策は備後の因島から江戸に行き、本因坊家に入門し腕を上げ跡目を継ぎ、最強の打ち手として有名になりました。この間、故郷の藩主から大きな経済的援助を受けていたと、NHKのそのとき歴史で言っていました。藩主としては秀策を援助することで、どういう見返りを期待していたのでしょうか。因島が有名になれば名物が売れるとか?それとも単に名誉なことだからでしょうか。
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当時の藩主が様々な一芸の者をお抱えとして召していたことはあったようです。 絵師や庭師など具体的に物を注文する類のものから、強い力士を抱えて 楽しんでいたようです。 (他には能なども) http://ryogoku.weblogs.jp/sanpo/2005/04/_in__2e3d.html 当代一の棋士を召している藩主にとっては囲碁の勉強や、退屈しのぎにもなります。 囲碁は元来戦の疑似体験として戦国武将に大いに流行りました。 彼らの子孫である藩主達もまた、武人の嗜みとして囲碁は続けていたのでしょう。 (徳川慶喜も趣味としてやっていたそうです。) 御城碁にも出るほどの棋士ならば鼻も高かったのではないでしょうか。
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- Pinhole-09
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その時々の藩主は自分の趣味に合った人材を集め、楽しみや産業の振興(陶磁器などの美術品)に役立てました。 他方藩の名誉を挙げることにも熱心でした。 ご質問の囲碁の達人の話や、藩の子女による他国まで評判になった敵討ちの、表彰などがあります。 これらは直接の見返りはありませんが、間接的に役立ちます。 水戸の商人が上州(群馬県)に旅をした時、「水戸の方ですか、あそこには光圀公と言う名君が居られるそうですね。 そこの方なら信用できます。」と商談がすぐまとまったというような話があります。 藩名が挙がることはそれなりのメリットがあります。
お礼
あだ討ちのひょうしょうとは、今ではかんがえられないですね。やはり有名になると、いいことがあるのですね。
お礼
面白いURLまでつけていただきありがとうございます。やはり、名誉のために援助したということでしょうか。ただ「そのとき歴史」では、藩財政が厳しい中でも援助した、とあったので何か実益を期待していたのかと思ったのですが。