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ソクラテスの対応って?
ソクラテスの「無知の知」ででてきます。 デュルタイは、ピークダウンしたとき、英雄を否定されて、理性によるソフィストの教育が必要とも言われます。 当時、ポリスは民主的で知恵があって、自信過剰に自分は良く知っているという雰囲気が現在の情報過剰な社会の日本と似ているかと思います。 ところで「無知の知」を知っているから知らない知識を語る人より良く知っているという考えもおかしいかと思います。これだとどちらが優れているの言い合いの中で同じ部類なのかと思えるのです。 この場合、知らないので優秀ではなくて、知らないから不完全で謙虚さが大事なのかと思うのですが、この考えってあってますでしょうか?
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あなたの考えでいいと思いますよ。ソクラテスが一番嫌ったのは、自分のことすらよく分からないのに、弁論で他人を丸め込む技術にばかり長け、あたかも己が賢者の如く思い込んでいる哲学者達でした。 ここで、自分のことがよく分からないというのは、人間は何か目的的な行為をする時は、我を忘れるということです。例えば良い商人は自分の商品の欠点を忘れる商人です。自分に支持を求める政治家は自分の無能については忘れています。弁論で他人を丸め込もうとすれは、人間は必ず自分が真っ先に自分を丸め込んでいるということです。 人間がものごとを判断するときは、論理の他に直覚とか想像が必要になります。判断に必要なすべての情報が与えられている場合は、論理だけで一応の結論を出すことは出来ますが、手がかりがひとんどない場合は直覚力がないと手も足も出ず、必要な一部の情報が抜けているときは豊かな想像力が必要になります。 現代の精密科学でも、最初の発見は非常に主観的で神秘的なことが多く、これを後から証明したり検証したりする場合がほとんど。どちらも得意な学者はいないので、前者の学者を非論理的だと非難する訳には行きません。 また、人間にはそもそも判断が出来ない問題もあり、世の中の大事な問題には常に正解がありません。そうしてもこれを判断しなければならないときは、文明以前の社会では占いということが行われたことはよく知られています。現代では占いが流行らないので、ともかくも多数決で決めることが多い、しかし多数決は多くの場合、正解ではないことが知られています。 ともかくも、ソクラテスの言っていることは、文明以前の社会では当たり前のことですが、文明以後の知識人には非常にわかりづらい、分かることが不可能に近いということです。それは現代の学問が、社会に受け入れられるようと、常に説得力を優先し、己がすべてを知っているかのように思い込む癖があるからでしょう。
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- miko-desi
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無知とは情報収集能力がないということかも。 しかし現代では必要な時に検索するなり調べればわかることを覚える必要が薄れてます。 本当の知は自分で身につけた智恵だと思います。 智恵は値するもの。価値、経験値といいますね。 力のことかも、想像力、破壊力、忍耐力。
- 雪中庵(@psytex)
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無知の知とは、「知らないという事を知っている」のではなく、 「知っている事が全てではないという事を知っている」という 事です。 つまり、「知っていない」のではなく、同じ「知っている事」でも、 その外側の広がりをさらに「知っている」という事であって。 今で言うなら、人に自慢するための詰め込みの豆知識を いっぱい知っているのではなく、そうした単発的情報の相関 性(世界像の一環として位置づける)も理解して、体系的な 知識にしている=体系の欠けている所が分かる、という事。
お礼
解説ありがとうございます。 ソクラテスが言いたかったのはおそらくそういうことだったんでしょうね。 ご回答ありがとうございます。
お礼
おっしゃるとおりかと思います。 現代では確かに以前より「智恵」の重大性の比率がましているんでしょうね。 ご回答ありがとうございます。