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飛鳥って……
飛鳥って飛鳥時代以降政治的にとか軍事的権力を持ったことってあるんですか? あと似たような内容なんですけど教科書とかで飛鳥時代以降飛鳥というフレーズが出てこなくなった気がします。なぜでしょうか? 分かるかた教えてください。お願いします。
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飛鳥時代は結構血なまぐさい権力闘争があり、崇峻天皇が殺され、物部氏と蘇我氏が争い、聖徳太子亡き後、山背大兄皇子一族が皆殺しに遭ったりしれいます。大化の改新の後はこの地から藤原京、平城京と政治の中心が移って行ったので、明日香は一寒村になってしまったのです。 なお、明日香は正しくはこのように書きます。この村の枕詞が『飛ぶ鳥の』だったのでいつの頃からか、明日香のことを飛鳥と書くようになりました。しかし現地では明日香の字を今でも使っています。
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- Willyt
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#1です。飛鳥が政治的、軍事的な中心になったことがあるのかという質問に直接答えていなかったので・・・ 推古天皇即位のときから持統天皇が藤原京を造営するまでの100年近い間、権力を握っていた蘇我氏の本拠地であるこの地に朝廷が移っていたので、これは寧ろ奈良時代より長い間日本の中心だったと言えます。また大化の改新後、孝徳天皇から天智天皇までは都が飛鳥を離れますが、天武天皇がクーデターに成功すると、都をまたこの地に還したのです。ここはその出自はともかく、当時はまぎれもなく蘇我氏の本拠地であり、そこに朝廷があったことは蘇我氏の権力が絶大であったことを示すものです。それは平群、葛城、大伴、物部という大和朝廷の重鎮を権謀術策や武力で次々に葬り去るという権力闘争の勝者である蘇我氏の治世の根拠地が飛鳥だったと言えます。
お礼
わざわざ2回も回答していただきありがとうございます。とても分かりやすかったです。
- Kiriyama-taicho
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元々飛鳥地方を勢力基盤にした大豪族がいないということでしょうね。 蘇我氏は葛城系(現在の御所市)と言われていますが、河内南部が本拠とも 言われています。物部氏も河内。大伴氏は河内。中臣氏は飛鳥ですが、 藤原氏が勢力基盤を築いたのは藤原不比等以降で政権の中枢に巣くって 成長したので藤原氏+天皇家がそろって飛鳥から奈良へ移動していった後は 飛鳥に残る勢力というのが無かったということなのではないでしょうか。 それと奈良もわずか70年で都を捨てられたのですが、歴史に名前が出てくるのは 寺社勢力によるものです。これは奈良時代になってから仏教が本格的に 国教化したからではないかと思います。飛鳥には当時から現在に至る寺としては 飛鳥寺がありますが、これも僧侶等は奈良時代に天皇といっしょに奈良に移動し、 元興寺となっています。奈良の寺社は京都へ同行することが許されなかったので 奈良の地で勢力を維持していったのです。
お礼
そういうことなんですか。わかりやすい回答ありがとうございました。
お礼
そうなんですか。明日香では奈良時代からは何も起きなかったのですね。ありがとうございます。