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宇垣一成について

昭和期の軍人について調べています。 いろいろ複雑でわかりにくいところがあります。 特に気になるのは宇垣一成です。この人は、三月事件で首相に担ぎ上げられた人物でありますが、この人の行動というのは軍縮を行ったり、軍部が政治的権力を握ることに否定的であったといえると思います。 にもかかわらず、なぜ桜会のような軍事政権を目指す組織に首相候補とされたのでしょうか?

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  • dollar
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回答No.3

宇垣に興味がある、ということで、蛇足ながらもう少し書きます。 前述の通り、三月事件の時点では、宇垣派の勢力が陸軍内で最も強かったわけですが、特に宇垣派四天王と呼ばれる人たちが軍の重要な役職を占めていました。 杉山元(すぎやま・はじめ)陸軍次官 小磯国昭(こいそ・くにあき)軍務局長 二宮治重(にのみや・はるしげ)参謀次長 建川美次(たてかわ・よしつぐ)作戦部長 陸軍の機構は、人事や予算を切り盛りする陸軍省と、作戦を立案・実行する参謀本部という2つのピラミッドに分かれています。 陸軍省で一番偉いのが陸軍大臣、次に陸軍次官、次に軍務局長。 参謀本部で一番偉いのが参謀総長、次に参謀次長、次に作戦部長。 つまり陸軍省と参謀本部のナンバー2とナンバー3を、宇垣派四天王が占めていたわけです。 さらに陸軍大臣が宇垣本人でした。 これは、宇垣派の協力がなければクーデターなど起こせるわけがありませんね。 桜会の橋本欣五郎は、右翼の大川周明の協力を得ます。 そして、宇垣派四天王にも協力を要請し、OKが出ました。 (ここで、四天王から宇垣本人にちゃんと連絡をやったのかどうか、連絡したとしても具体的にクーデターとはっきり言ったのか、謎です) ところが「数万人集める」と豪語していた大川周明が、数百人しか集められなかったという衝撃的な知らせが桜会に入ります。 橋本はまだ希望を持っていたようですが、折りしもここで宇垣から「クーデター中止命令」が入りました。 そこで、「宇垣は賛成派だったのに、人数が集まらないことを知って成功する確率が低いと思って反対に回った」というのと、「誰も宇垣に具体的な話を持ち掛けないまま計画だけ進んでいて、やっとクーデター計画を知った宇垣が慌てて反対した」というのと2つの説があるわけなのです。 なお、三月事件が失敗に終わり、桜会は今度は十月に同じような計画を立てます。今度は若槻礼次郎首相以下、政府要人を次々暗殺してクーデターを起こすという、三月のやつよりも過激な計画でした。 ここで何と、宇垣は暗殺リストに載せられてしまうのです。 裏切ったやつは許せない、というわけなのでしょう。 たった7ヶ月のあいだでこんなにも扱いが変わるとは……「転落の人生」とはこのことでしょう。 四天王も満州事変の計画にかかりっきりで大忙し。 ところが宇垣さんは満州のことには全く関わっていなかったようで。 一大派閥だった宇垣派はほとんど壊滅状態に陥ります。 それだけ満州事変という事件が陸軍の空気を一変させてしまったということでしょうね。 ちなみに外交官や政治家はみんな(2)説で、軍部は(1)説を採っています。軍人に信用されず、政治家や外交官に信頼された軍人、というわけなのでしょうか。不思議な人ですね。 広田内閣が倒れた後、重臣たちが「宇垣がよかろう」と言ったのに対して、軍部は石原莞爾を中心に猛反対することになるのです。 東京裁判のアメリカ人首席検事、キーナンをご存じでしょうか? 裁判で東条英機と対決した人物です。 そのキーナンが、「戦争に反対した平和主義者」たち4人を招いてパーティを催したのですが、その中に宇垣も選ばれることになったということは特筆すべき事項でしょう。 ちなみに顔触れは、 若槻礼次郎 岡田啓介 宇垣一成 米内光政 でした。

  • dollar
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回答No.2

渡辺昭夫「宇垣一成」という本が中公新書から出ており、その謎について触れられているのですが残念ながら絶版です。 なので私がその本や他の本などを読んで得た知識を再構成してみます。 宇垣は三月事件に対しどのくらい関わっていたのかについて2つの説があります。 (1)宇垣は政権への意欲があり、桜会のクーデターに賛成だった つまり、橋本欣五郎・長勇・大川周明らの説得を受けて心を動かし、クーデター後の総理大臣になるつもりだったのに、いざ本番前になって心変わりして、クーデターを中止するよう命令したという説です。 (2)宇垣はクーデターに反対だった この説においては、「宇垣が反対だったにも関わらず、なぜ三月革命計画が宇垣首班という形で具体化していたのか」という謎があります。 この謎を解く鍵として、昭和天皇独白録(文春文庫)に面白い記述があります。 「宇垣は何かというと『聞き置く』と言う癖があった。そのせいで意見しに来た者に自分の意見が通ったと勘違いをさせてしまう。三月事件でかつがれたのもそのためであろう」 (手元に原文がないので私の記憶で書いてます。多少違うかも) この話からすると、三月事件において、橋本たちは宇垣に対し「政党腐敗を何とかせねばなりません」などと抽象的な文言を話し(右翼にありがちな観念的なしゃべり方というやつです)、宇垣は話半分のつもりで「君の意見はよくわかった。聞き置く」などと答えて、桜会側は何となく計画に承諾したという雰囲気に錯覚してしまったのではないかということが考えられます。(これが渡辺さんの本にも昭和天皇独白録のあとがきにも書かれている説です) 宇垣ファンとしてはこちらの説にこだわりたくなっちゃいますね。 さてもう1つの問題は、桜会のメンバーがなぜ「宇垣首班」を望んだかということです。「宇垣さんの経歴を見ると、クーデターなんかに賛同する人間かどうか、すぐわかるはずなのに何故?」という謎ですね。 これは、当時の陸軍内でまだ「反宇垣」という勢力が出来上がっていなかったからでしょう。 宇垣さんは岡山出身とはいえ、田中義一の子分みたいな存在でした。つまり、長州閥なのです。 当時の陸軍はなんだかんだ言って長州閥がトップに立っていたのです。 それに反感を感じた若手将校たちが、「一夕会」という組織を立ち上げ、「林銑十郎・荒木貞夫・真崎甚三郎」の3人の大将を反宇垣側として盛り立てて行こうと決めたのですが、この頃はまだその活動も本格化していませんでした。(ちなみにその組織はその後統制派と皇道派に分かれて熾烈な派閥争いを引き起こします) やはり1931年3月の段階で、陸軍を使って何かを起こそうとするには、長州閥を動かさないと何にもできない状態だったのです。 その雰囲気を一気に変えてしまうのが同年9月に起こった満州事変でした。板垣征四郎や石原莞爾の大活躍で、彼らは「満州派」などと自称しはじめます。宇垣派なにするものぞ、といった気分だったのでしょう。 この事件に影響を受けて、桜会はまたクーデター計画をたてますね。十月事件というやつです。 こちらの事件では、もはや宇垣の力は必要なしとみて、橋本大佐は荒木貞夫を首班にしようと計画を立てました。 反宇垣という勢力が十分に力をつけてきたということなのでしょう。

kaokao7
質問者

お礼

丁寧なご回答ありがとうございます。 宇垣についての疑問が晴れました。宇垣についての興味もますますわきました。 参考文献に挙げられている文献にも興味があります。探してみたいと思います。

  • imp-dsc
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回答No.1

軍縮についてのみの私なりの回答なんですが・・・ 軍縮と書くとただ単に兵隊の数を減らして予算を確保したり、他国との条約でお互いに実施することで牽制し合って平和を維持する目的があります。 さて彼の行った軍縮は今日では宇垣軍縮と言われていますがこれは恐らく適切な用語が無かった事と実際に兵隊の人数が減った事によります。 今では適切な用語があります。ここまでで既に察していると思いますが「リストラ」って言葉です。当時にこの言葉が普及していればきっと宇垣リストラとでも呼ばれたでしょう。 この場合彼は確かに兵隊を減らしました。それで浮いた予算で新兵器を入手したのです。結局はそれによって総合的な戦力を増強している事になりますね。 これで日中戦争は泥沼になりました。事の良し悪しは別としても軍部は力押しでなんとかなると思える位に自信が持てたんですね。逆に言うと宇垣軍縮がなければ単独で大陸へ侵攻する事は避けたかもしれません。(それ位の判断が出せる人が居たかは疑問ですけどね。)仮に戦争しても更に苦戦して撤退していた可能性も出てくると思います。 これは想像でしか無いのですが、桜会のメンバーで彼の軍縮の効用を理解した人物が居たのかもしれません。だとすると苦しい言い訳じみていますが首相へ推したのもわかる気がします。

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