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グノーシス主義の良さをおしえてください
勉強しても 腑に落ちないどころか 頭にも入りません。 そもそも二元論などということからして――絶対者が 相反する二者であるという想定からして―― はっきり言えば 意味のないことを考えているとしか思われません。 これまでと同じく斥けようと思いますが 念のために 見落としのないようにとおしえを乞います。 ウィキペディアにかなり詳しい紹介があります。(今週の16日の更新記事) http://www.ja.wikipedia.org/wiki/
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二元論的考え方と、グノーシス主義とは、非常に似ていますし、重なり合う部分もありますが、発生は別々です。 グノーシス主義を唱える教派において、二元論的考え方を持つ教派もありますが、二元論ではない考え方のグノーシス派の教派もあります。 そもそもグノーシス主義は、ギリシャ哲学とキリスト教がまじりあって生まれた考え方であるのに対し、二元論は、ゾロアスター教やマニ教などの影響下にうまれたキリスト教です。 善悪二つの神を想定する二元論ですが、二元論的考え方には、唯一絶対神から分かれて二元論となり、将来二つの神は統合されるとする「穏健的二元論」(ゾロアスター教的考え方)と過去から未来永劫合わさる事がないとする「絶対的二元論」(マニ教的考え方)が存在します。 このうちの、穏健的二元論と、グノーシス的考え方に重なり合う部分が多いのです。 質問の内容からしまして、質問の意図が、グノーシス派の考え方ではなく、二元論的考え方であると思われますから、二元論的考え方について説明します。 (グノーシス派の考え方は、「高貴な精神(知性)と俗なる肉体」という考え方が基本となっています) >絶対者が 相反する二者であるという想定からして―― はっきり言えば 意味のないことを考えているとしか思われません。 絶対的二元論の場合、絶対者は一人ではなく二人だという事です。 穏健的二元論の場合、二人の絶対者は、より上位の超絶対者から別れた者と考えます。 これは、ヒンズー教で、維持神ヴィシャヌと破壊神シバを考えますと理解できると思います。 古代において河川の洪水は、畑を流し作物がとれなくなってしまいます。 そのため洪水は無いほうが良いのですが、肥料などが無い時代に畑での連作は地力の衰退を起こし、収穫の減少を招きます。 それを防いでくれるのが、洪水によって上流から運ばれてくる土砂なのです。 つまり、生産性を維持するためには、破壊という災害がなければならないのです。 この維持と破壊この2つを崇める事が、二元論的考え方になります。 この維持と破壊を同価値とするのが「絶対的二元論」で、破壊を従属的なものとみるのが「穏健的二元論」になります。 キリスト教の穏健的二元論として、ギリシャやブルガリア、セルビアなどに広がった「ボゴミール派」があります。 このボゴミール派の考え方では、神には二人の子があり、一人をキリスト、もう一人をサタナエルと言いました。 神は、サタナエルに命じ、世界と人間を創らせました。 これが、旧約聖書では「エホバの神」です。 しかしサタナエルは、神の意志にそむき、人間を隷属化させて、あたかも自分自身が真の神であるかのごとく振舞ったため、神は、サタナエルの弟であるキリストを地上に派遣し、人々の誤った考え方を修正させました。 サタナエルは、地底に逃れ、サタンと呼ばれるようになりました。 一方「絶対的二元論」を唱えました後期カタリ派(南フランスや北イタリアに広がった)では、そもそもこの宇宙には、光(精神)と闇(物質)の二つの神がおり、対立していました。 物質をつかさどる神は、人間(生物)という牢獄を創り、精神をその中に閉じ込めてしまいました。 そのため、物欲にまみれた人間界では、腐敗に満ち溢れます。 人間世界の回復のためには、囚われた精神の解放が必要です。 そのために、色々な戒律などが行われます。 (その戒律の中には、性交渉の絶対禁止{自慰行為も禁止}があります。これは、子供が生まれる事は、牢獄の増加につながるという考え方によりますが、誘惑に負けて性交渉をしてしまった人は、今度は徹底して性交渉をする事が良いとされました。これは、性交渉により肉体を酷使する事で、精神を閉じ込めておく牢獄が弱くなると考えられたためです) 当初カトリック教会もコンスタンティノープル総主教も、ボゴミール派もカタリ派にも弾圧を加えてはいませんでした。 二元論運動の広まりにより、二元論者が、既存の教会を破壊したり十字架を撤去するなどの行為を行うようになったため、弾圧に乗り出します。
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- 1000827313
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bragelone様 仰る意味は分かります。キリスト教は自分に都合悪いものは徹底的に消し去りました。ミトラス教やカタリ派など枚挙に暇ありません。三位一体論を出したアレキサンドリアのアタナシウスは七回?異端とされて追放され最後には流刑地で死んでいます。その時まではまだグノーシス派などが主流だったのでしょう。現在残っているのは異端反論のみでこれから読み解くのが困難と言う事情にあると思います。グノーシス文書とされているナグ・ハマディ文書もデミウルゴスについては書いてありません。私の本の探し方が悪いのだと思いますが、唯一、デミウルゴスやヌミノースからの流出とその回復のためのイエスと言う事に言及していたのがディックのValisのあとがきだったと言う事です。従ってご要望に応じているものかどうか分かりかねますが、私にとっては新しい「知識」でしたので、分も省みずお知らせしたまでです。本屋で立ち読みでもされたら如何ですか?
お礼
おはようございます。(書き始め=8:40amです)。 回答者さまは 可能性を問い求めていらっしゃるのでしょうか。 まだまだ 文献としても出てくるかも分からないし 現在までの文献・研究でもそれらにもとづいて 可能性を追究する価値は 依然として 残っていると。 図書館は十時に開きます。行ってみます。 (全般として言って これでも 批判の調子は加減して落としているのですが。――欠陥を憎み 人を愛する。欠陥ゆえに人を憎んではならず 人のゆえに欠陥を愛してはならず。・・・を念頭においてまいります)。
補足
《ヴァリス》関係の補遺です。 秘密教典書の44(p.392)は 取り上げるべき内容を語っていると考えます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 宇宙は実際には情報から構成されているため 情報がわれわれを救うのだといえる。これがグノーシス主義者の捜し求めた救済のグノーシスである。救済に至る他の道は存在しない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ やや特殊ではないかと思うと 次に正統派の議論が続いています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ しかしこの情報――正確にいうならばこの情報すなわち情報としての宇宙を読みとり理解する能力――は 聖霊によってのみ われわれの手に入る。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ このシンプルさは いいですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ われわれは自身でこれを見つけだすことはできない。したがって われわれは善行ではなく神の恩寵によって救済され すべての救済は わたしにいわせれば治療者である キリストに属するといえる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ さらにいいですねぇ。 ですから 問題は 情報とその読解力の話なのかどうかにあるはづです。信仰という狭き門を つねに例外なく 仲介させていれば いいのだとは思いますが。(信仰とは ここでたとえば 受け容れるという行為です)。
- nacam
- ベストアンサー率36% (1238/3398)
神について、どのように考えるかは、個人個人の自由です。 「神とはこうであらねばならない」とか、「こういったものは神ではない」というような事は、他人に強制すべき問題ではありません。 質問者は、結局質問をしたかったのではなく、ご自分の考え方を主張したかっただけである事が分かりました。 質問者にまじめに答えようとした私がバカでした。
お礼
二元論というばあいには 絶対者を問題にしています。対立する二項といった経験領域のことではないからです。 想像物としての絶対者というのは 矛盾です。そのこと(矛盾があるというわたしの判断)を前提としているとお断わりして それでも 見落としがあるか これをおしえて欲しいという趣旨です。 想像物としての神でしたら 話は別です。個人の自由です。 ちなみに 相対主義は よほど徹底するのでないかぎり その値打ちは無きに等しいと存じます。これは 自分の考え方を主張したいという側面です。無論 このように述べるのは 想定外のことですが。 あるいは もっと単純に言って そもそも 良さをおしえて欲しいというのですから まだ良さだと納得する内容をおしえてもらっていないと その理由を述べて 個人的に自由に判断しただけです。むしろ これは 想定したことです。
- nacam
- ベストアンサー率36% (1238/3398)
1番です。 (1)に関しましては、各個人の主観の問題ですから、回答はありえません。 (2)ですが、 絶対者は、それ以上の高位に上る事はありえず、後は没落しかありません。 唯一絶対神が、没落し、名前だけの絶対的存在になる事があります。 インドのバラモン教時代には、バラモン教の絶対的力を持つ神として、「インドラ」がいました。 インドラの力は絶対的でしたので、インド統一後は敵がいなくなってしまいます。 そのため、インドラの絶対的な力を示す場所がなくなり、人々の信仰の対象とはならなくなり、名前だけの絶対神となってしまいます。 ゾロアスター教においても、絶対的な神アフラ・マズダーがおりましたが、アフラ・マズラーの従属神である悪神アフリマンと戦ううちに、絶対神であったはずのアフラ・マズダーがアフリマンと同等となってしまい、一神教であったゾロアスター教が、多神教へと変質してしまっています。 これらは、唯一絶対神であろうとも、その絶対的な力を使う場所が無くなると、名前だけの存在となりますし、格下の相手にその力を使えば、格下の相手と同等となり、絶対神の地位から没落する事を示しています。 つまり、絶対神が光り輝くのには、その光を輝いてみせるための闇が必要であり、闇が無くなれば、その光も意味を無くして没落の憂き目を見る事になります。 そのため、キリスト教においては、悪魔の存在が必要でした。 その悪魔とは、ユダヤ教においては異民族の神であり、問題が無かったのですが、普遍的な考え方を持つキリスト教においては、重要な問題となりました。 一般的なキリスト教では、その点を深く追求する事なしにすませています。 二元論では、絶対的な力を持つ(人間界において)者と同等の(拮抗する)力を持つ存在を考える事で対処しました。 また、2者を一神教の枠内で合理的に、理論的にかんがえようとしたのがグノーシス派でした。 グノーシス派は、善悪というよりも、肉体と精神(知性)の対立としてこれを考えました。 そして肉体と精神を束ねる存在として大宇宙の意志ともいえる者を考えてゆきます。 その過程において、グノーシス派は、色々な考え方に分かれて行きます。 この問題は、いずれが優れているかではなく、各人が絶対神についてどれだけ真剣に考えたのかによるものでしかないのです。 (4)ボゴミール派の考え方では、神は人間界に対して直接的な力を発揮できません。 絶対神は、この世の大いなる意志にすぎず、直接自分で手を出せないので、子である(精神世界と現世をつなぐ存在)サタナエルに命じたのです。 人間世界に対しては、サタナエルが絶対的な力を発揮できるのに対し、大いなる意志は、サタナエルの行為に対しての対処として、弟キリストの人間界派遣という手しか取れなかったのです。 そのため、サタナエルは、サタナエルと同等の力を持つキリストが派遣されるまでは、人間に対して絶対者として君臨できたのです。 (5) >想定した観念の神が絶対者であるように映るだけだと思うのです。 これで何が不都合なのでしょうか? 絶対者を想定した者がそれを信じる事は、当たり前の事だと思います。 (6) >善悪の二元なる絶対者を想定するのなら 善悪の判断基準は何もないも同然です。悪も善だと言えば良く――言いくるめられるなら良く―― 善に対しては それは悪だと言い続ければ良いはづです。 そのとうりです。 ゆえにゾロアスター教において、人々が光につこうが闇につこうが自由意志で選択できます。 バラモン教での悪神は、ゾロアスター教の光の神々であり、ゾロアスター教の悪神アフリマンは、インドラを指し悪神は、インドの神々を指しています。 インドとペルシャにおいては、まさしく質問者の方が言われるとうりの事がおきています。 またグノーシス派の一部でも、エホバの神が悪魔であり、人間に知恵を授けたヘビこそが真の神であるとする一派もあります。
お礼
まづ 《絶対》と《善悪》の定義を わたしなりにしてみます。一度投稿したものですが それによって 二元論などへの見方の違いが 明らかになると考えます。 (字数制限があるので 後は 補足欄に続きます)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ まづ《絶対》の問題が来ます。 人間は 絶対の存在ではないという意味です。 そうすると 人間が《絶対》に対してどういう関係にあるかという問題になります。 絶対とは 人間が考えても 分からないことです。分かるか分からないかが 分からないことがらです。 したがって それに対する人間の態度は 《考える》以外の精神および身体のあり方ということになります。一般にこの態度を 《信じる》と言います。 従って 《絶対》に対する人間の関係としての《信じる》には その絶対の存在を《信じる》場合と《信じない つまり 信じないと信じる》場合とがあります。 仮りに《絶対》を《神》と表わすなら 有神論と無神論とです。どちらも じつは 信仰なのです。神は存在すると信じる場合と 存在しないと信じる場合とです。 そこで 善悪の問題は つぎのように考えられます。 絶対の存在 もしくは 絶対との関係にある人間の存在 これを《善》と規定することから始まります。生命のことと言ってもよいはづです。 したがって 存在あるいは生命 これを保持し――主観的にせよ――良く保つことは 善です。人間の社会的な行為なり人間どうしの関係なり そのような領域においても 互いの存在と生命とその保持・向上となることは 善です。 ところで 人間は 相対的で時間的にして有限な存在です。精神・知性にも 限りがあります。したがって この上に見た善という事柄を まちがって捉えることもあれば その善じたいを わざと 失おうとすることさえありえます。 《善》が欠けた状態 これが 《悪》です。(欠けた部分が悪です。つまり 《善の欠如》というわけです)。《悪》が初めにあるのではなく はじめの存在とその能力などを まちがって使ったり 捨てたりすることが 悪だと考えられます。絶対の善ではないから そのようなまちがいが生じます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ よって 絶対者は 二分割され得ず。絶対者の善が変化・消滅するということはあり得ず。・・・
補足
(1)~(6)の全体をめぐってです。 絶対者に 二者・三者といった分割や それらの間の上下・強弱や あるいは衰退・没落はありえないというのが わたしにとっては 大前提です。 あるとしたら それは 人間が 自分たちの経験世界でのことがらを 想像上の世界において思い描いた絶対者に仮託しているのだと見ます。 想像は 人間の経験思考です。考える・考えて分かる(未知を含めて)領域に属します。そこには 想像上の絶対者はありえても 想像を超えたところに想定すべき絶対者はありえません。(けっきょく 神の受肉が 特殊の事例ですが これもまづは 超経験の領域にあくまで仮りに想定した神なる絶対者ということが やはり大前提です)。 あるいは別様の言い方では 想像において想像物としての《絶対者》は あくまで 人間がその内容やあり方や行動を考えるものです。経験世界に属し その範囲を出ません。(つまり絶対者ではないはづです。権威といった観念だと思われます)。 信じるべき《絶対者》は 想像を超えて しかも想像(思考)をとおしてそれが経験を超えた領域にあると想定するもので したがって 考えようがなく 何と考えようと その根拠はありません。かたちあるものでは ありません。しかも その絶対者と人間が関係すると捉える限りで 人間は それを信じるという経験行為をも持ちます。何の根拠もなく 捉えどころのない営みです。 信じるべき絶対者は 思考を超えており 観念ではありえません。精神でもありません。それなのにその絶対者が もし自分を際立たせるために・また自己の存在を表明するために 対抗者として《闇や敵や悪魔》が必要だと言うのであれば それは 絶対者を観念として受け取る状態へと転換し その観念ないし精神において 思考・想像の対象としていることを意味します。 悪魔が 或る種の仕方で霊としてあたかも絶対者であると言われることがありますが そうであれば この場合の絶対者の想定は まったく意味をなさないことになります。そもそも信じるべき絶対者として想定したくないと その時点で 表明したことになります。経験領域での物語あるいは経験科学の営みへと 自己つまりこのばあい信仰を変換し変身させ 経験思考を存分に発揮するということなのでしょう。 おもしろいかも知れませんが 相対の世界では――特に想像においては――何ごとでも生じますから 面白いことも 生じるということになります。あとは 面白おかしく物語を編み 面白おかしく人生を過ごそうという思想となります。 多神教ないし汎神論という場合には あくまで主観においてその自己の信仰の動態があると捉えられるかぎりで 絶対者に この経験世界のもろもろの現象・事象が つながっていると感じたことを表わすものだと思われます。根拠はありません。(そして つねに唯一の例外のごとく 神の受肉という事例は 伴なわれているのですが。これにかんしましては 次の質問へのわたくしの回答No.10を参照していただければ幸いです。http://www.okwave.jp/qa3166360.html )。 また 絶対者の霊が 経験存在である人間に宿るということも 言われます。主観において信仰としてです。宿るということを 想像するのでもなく思考によってそう捉えたのでもなく まったく根拠なく 信じるという現実が じつは すべての人にあると 信仰者は信じています。 ・・・・・・ 《グノーシス派は、善悪というよりも、肉体と精神(知性)の対立としてこれ(=つまり 互いに拮抗する勢力の問題)を考えました》――この思想につきましては No.1では間接的に《飲めや歌えや》だと茶化しましたが(いえ 失礼ながら 見くだした言い方をしましたが) 問題は すべてが相対の世界にあるということだと思います。絶対者の問題を避けているのであればです。つまり《各人が絶対神についてどれだけ真剣に考えたのか》をのみ問題とすることは 想像の領域に浸るということであって 絶対神の信仰とは別だと捉えられるのではないでしょうか。 教養あり修養を積んでおり人情に篤く人徳厚く社会に貢献しているということが たとえば乞食人生と何ら価値も何もかもも違わないという意味だと思います。つまりこの場合には 判断の基準が何もないという情況です。(その仲間内では あるでしょうが)。 抽象的になりましたが 以上のように受け取り考えました。
- 1000827313
- ベストアンサー率30% (7/23)
ヴァリス(Valis)は、1981年にフィリップ・K・ディックが発表した長編小説なのですが、この文庫本の訳者後記にグノーシスの基本となる考え方が書いてあります。自分以外には唯一者は居ないと思っているデミウルゴス、父を知りたがったソフィアからの流出、云々です。自分が光を見て「知恵」を得ると言うのは本文の方にあります。なかなか読みずらいかもしれませんが、一読されては如何でしょうか。 お役に立つかどうか・・・ http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0883.html
お礼
1000827313さん こんにちは。そして おしえていただきありがとうございます。 いま取りあえず おしえてもらったウェブサイトの文章について ご報告申し上げます。そこでは 大滝啓裕訳者解説はわかりませんので それについては 時間をいただいて そののちにお応えさせてください。(上の補足欄にて)。 残念ながら そして失礼になるかも知れませんが 松岡という方の文章については わたしは信頼を寄せておりません。それは アウグスティヌス《三位一体論》の批評を読んで 結論づけたものです。 今回の《ヴァリス》批評も けっきょく同じ性格・同じ傾向の批評内容(形式)だと知りました。 三位一体が何であると言っているか・それをどう自分は捉えたのか これを何にも述べていないのと同じように ヴァリスが言おうとしたもの・そしてその中にグノーシスがあるとするなら それは何であるか これについて一切わかるようには述べていません。しかるべき知恵・必須の知識の周りを回っているだけだと思います。 たしかに 情況証拠を挙げるだけでも 批評になると思いますが 何についての情況であるかは分かりません。言おうとしていません。重要なグノーシスとは何か。これについて 自らが《プラスマテに近いことをアヌやらヌースやら般若やら六現観といった別の言葉で言いあらわ》すことができると解説するように せいぜいが別の言葉に置き替えているだけのようです。定義すらしていないようです。 失礼な言い方になるのかも知れませんが グノーシス主義について読んでわたしに分かったことは 《世の中には 善と悪がある / 心と体がある》と言っているようだというだけです。心を大切にするというのは 日本人の百人が百人とも そう言うと思います。つまり その限りで 日本人はグノーシス主義者であるとなります。その程度としか今のところ捉えることができません。 訳者後記は読んでみます。こんなお応えで申し訳ないのですが。
補足
大滝啓裕後記=《 Adversaria 》より〈グノーシス主義〉の項目を検討してみます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・旧約の神がねたむ神 怒りの神・・・であるとして グノーシス主義は旧約の創造神(イスラエルの神)と至高神を区別する。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 神を このように《区別》するのは 絶対者を 人間の想像の世界に引きずり下ろしたことになります。創造主なる神が経験思考による被想像物となり 被造物なる人間が創造主のごとき想像主体となります。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ すなわちグノーシス主義とは 人間の本来的自己は至高神と同質のものを備えているが 上からの啓示と下からの働きかけによってはじめて アグノーシアの状態にある本来的自己がグノーシス(霊的認識)され 霊的なアイオーン界にいたれるという説である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《本来的自己は至高神と同質のものを備えている》の同質の程度が知りたいところです。 《下からの働きかけ》 これは 信仰一般にとっても――信仰が 非経験とのかかわりにおいて しかも 経験行為として持たれるからには―― 共通のものだと理解されます。けれども その上でですが 《上からの啓示》 これは 何を言うのか 説明が欲しいところです。というよりも 啓示じたいは一般に分かりますから 問題は 《下からの働きかけ》としての《信じる あるいは 受け容れる》のは 啓示なのか それとも たとえば神の名なのか この区別にあると考えます。つまり 先行するものは 啓示か それとも 神の名を――キリスト・イエスならそれとして――受け容れたことか これです。 わたくしの立ち場は 啓示はなくても 信仰にとって 何ら差し支えないというものです。たとえ啓示があったとしても そしてその啓示の内容として言葉による表現があったとした場合 それでも その意味表示することがらや概念を わたしたちは 信じるのではないからです。絶対者としての神を信じるというのが――つまり そのような無根拠性が―― ゆるがせにできない大前提であるはづです。言葉になると 経験思考の対象であることにもなるからです。 その他の用語は 表現の問題として納めればよいと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この本来的自己はユング風の集合的無意識に通底し・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《無意識》は あくまで経験領域に属するということは 指摘するだけでよいとして そのとき 大事なことは この《本来的自己》が《至高神と同質のものを備えている》という中核を忘れてはならないことでしょう。ですから つづいて ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 本来的自己の認識は ユングのいう個性化 意識と集合的無意識の統合にも受けとれる。したがって グノーシス主義における《神の国》は変成された意識の状態にほかならず・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ というときにも この《神の国》は とうぜんのごとく 《至高神と同質のものを備えている》ゆえの主張だということが大事だと思います。《変成された意識の状態にほかならず》という表現を聞けば もはや 経験領域での倫理や学問の独占的な課題であるかに錯覚してしまうように感じられます。 そのあと グノーシスなる認識の《霊的な発達の段階》が詳しく述べられています。ご指摘の事項を含むことがらだと思うのですが そして それならそれとして 自己の内省にとっての糧とすることもできるかと思われるのですが 一つの代替案として わたしなら――えらそうに――次のように一言で言い表わしておしまいとするところです。 《時の充満(プレーローマ)に至ったとき 神からの神が派遣され ナザレのイエスなる男となった。》 これです。ソフィアもグノーシスも 或る日或る時 どういう風の吹き回しなのか 信仰が与えられたその時点から その事件を基礎として 新しく着せ替えられた新しき人のもとに 持たれ活用されていきます。経験思考によってではなく――その意味で《我考えるゆえに》ではなく―― 我信じた ゆえに 語ったという日々がつづくことになります。 そうでない場合は 絶対者の問題ではないということを その思想の看板にはっきりと書くくらいに明らかにしている必要があると思われるのです。 小説のほうは 《秘密教典書》を先に読み あとの本文が残っています。SF小説が こんなことを扱っているとは知りませんでした。そう言えば エヴァンゲリオンというのが 聖書を取り上げているとか聞きましたが。
補足
nacamさん おしえていただきありがとうございます。 クルト・ルドルフ 『グノーシス――古代末期の一宗教の本質と歴史』 をひも解いても 読み継ぐことも難しいほど頭に入りませんでした。諸派の具体的な事情については まだでした。 (1)今回 考え方じたいは ありうるという意味で わかる内容であって しかも その思想を 《同志》たちが 歴史的に《実践》したという事態に まづ 発見がありました。 ですが 結論としましては やはり良さはないと言えるのではないでしょうか。せいぜいが ふつうの倫理学であるように受け取ったのですが。 (2)たとえば 超絶対者のもとに 互いに対立する二人の絶対者があるという点については 後者が 維持と破壊という経験事象にかかわっているという限りでは その二人は 《絶対者》ではないと見ざるを得ません。自然現象の擬人化(神格化)だと見ます。 超絶対者が これら二つの経験現象を統括しているとみるのでしたら まだ いちおう一元論としてあって わかるように思いますが。統括して どういう関係を 人間やこの世に 持つと捉えるのか ここに良さは出てくるのではないかと見ます。 つまりたとえば 破壊は 否が応でも必要であり そのとき 犠牲が出ても それは 致し方のないことだと言うのか / そうではなく どうにか人間がすれば どうにかなると言うのか / あるいは そんなことは どうでもよいと見ているのか・・・などです。 (3)自然科学および形而上学の芽生えのようには 受け取られますが。 ということは 総じて言って 歴史的な価値があると意味になるでしょうか。 (4)サタナエルというのでしょうか この神(神の子の一人)が 《あたかも自分自身が真の神であるかのごとく振舞った》という時点で これは 絶対者ではないと言わざるを得ません。アダムとエワが例の善悪を知る木から実を採って食べたという経験行為のことを言っていると考えられるからです。知恵や考えに時間的な変化があるのは 絶対者とは言えないはづです。(もしくは よほど納得しうるかたちで一貫した説明が必要です。もしくは まったく説明など必要ないという絶対者であるかです。) たとえば キリスト・イエスが つまり一人の人間が 人びとに神を指し示したというのは おそらく神の業だと見られます。《人々の誤った考え方を修正させた》というのは 倫理の問題であり 経験行為であり まったくのかたちにおいて 人間の問題です。 もし 偽る神 悪の神 死の神があるとして しかもそれが 絶対者でなかったり もしくは そうなのだが ほかにも絶対者がいたりするというのでは それは 相対の世界です。経験科学の芽生えなのかも知れませんが。 (5)《光(精神)》を一方において それ対して《闇(物質)をつかさどる神》 このような想定じたいが 絶対者の問題として述べるかぎり 神の議論としては成り立たず せいぜいが道徳論を始めたいと言っているに過ぎないのではないでしょうか。 具体的に部分的な何かをつかさどることが 人間に 分かるというのは すでに 経験事態の問題として 捉えています。(神秘体験という場合が 考えられますが ここでは そういう生活の一齣ではなく すでに そもそもの神学が 神の中味を人間が知った上で 始められています。時空間を超えた絶対者を数量で分けて捉えることができるというのなら その知解は 人間が絶対者と同じ次元で得ていることになります)。 この物質のほうの神が 《人間(生物)という牢獄を創り、精神をその中に閉じ込めてしま》ったというのは すでに 経験領域の問題になっています。経験行為について 絶対論を言えるとすれば そのように言える存在が 絶対者であると言っていることにもなります。 そのような観念の帝国を 自らが 作り上げたということだと思われます。絶対者は どこにもいません。人間が相対の世界にあって有限な存在であるという限りで 想定した観念の神が絶対者であるように映るだけだと思うのです。 (6)《絶対的二元論》 これは あい対立する二元なのでしたら あきらかに矛盾するように思うのですが。善と悪とでしたら その矛盾からは けっきょく この世で人間は 飲めや歌えやの人生をおくるものと思います。言いかえると 何ごとも うまくやったが勝ちです。 善悪の二元なる絶対者を想定するのなら 善悪の判断基準は何もないも同然です。悪も善だと言えば良く――言いくるめられるなら良く―― 善に対しては それは悪だと言い続ければ良いはづです。 などなどと考えました・・・。