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分子と三角形の存在の種類は同じか違うか?
一般に、目の前のリンゴは実際に「存在」していると考えられますが、三角形は実際に「存在」しているのではなく、概念として「存在」していると考えられていると思います。 では、分子は実際に「存在」しているのでしょうか、それとも、概念として「存在」しているのでしょうか? もし、分子が実際に「存在」していると考えるとすると、その根拠は何でしょうか? 三角形との違いは何なんでしょうか?
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#1です >そうなると、「一般的な水の分子」というものも存在しているとは言えず、2007年7月15日の今この時点の私の左目の中に存在しているある特定の具体的な一個の水の分子なら存在しているというような意味でしょうか? そういうことだと思います。 ただし、電子顕微鏡レベルの目(あるいは機材)を 持っていない、実際にソレが見えない人にとっては、 確かに存在するけど、概念的なんでしょうね。 月が空に見えるけど、行ったことない人にとっては 本当にあるのかどうか証明できないようなものです。 でも、ある(存在する)ハズですよね(笑) その意味でいうと「三角形」というのは 概念というよりも共通の「認識」という 表現のほうがしっくりきそうですね。
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kaitara1ですが、あなたのご質問は絵に描いたリンゴと本物のリンゴでは存在すると存在のしかたが違うということにもなりますか。始めの形だと目の前の三角定規は実際に「存在」していると考えられますが、三角形は実際に「存在」しているのではなく、概念として・・・ということになると思うのですが。分子は実際はリンゴでも三角定規でも分子からできていると考えられるという意味で典型的な記号です。あるいは具体的な分子ではなく分子という言葉を問題にしておられるわけでもないと思いますが・・・
お礼
ご回答ありがとうございました。 >絵に描いたリンゴと本物のリンゴでは存在すると存在のしかたが違うということにもなりますか 両方とも五感で直接その存在を確認できるという意味で、存在の仕方は同じだと思います。 >始めの形だ.... この後の文の主旨がよくわかりませんでした。すみません。 >分子は実際はリンゴでも三角定規でも分子からできていると考えられるという意味で典型的な記号です。 これも、あまりよくわかりませんでした。「分子」が他の名詞(例えば、電車とかリンゴとか)と比べて、特に典型的な記号である理由は何でしょうか?名詞は全て記号ではないのでしょうか? 私の疑問は、記号としての分子ではなく、具体的実体(もし、あれば、の話ですが)としての分子に関してです。
- cafatabaco
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哲学板としては非常に面白くない回答なのですが 見るというメカニズムは対象に光を当てて跳ね返ってきた光を目で受信して結果「見る」わけです。これと同じように原子を見ることが出来ればりんごと同じレベルで存在を認識できるんですよね? それと赤外線カメラとかってありますよね?あれは光の変わりに赤外線を放射してそれを受信し映像にするわけなんですが、テレビとかでその映像をみたことがあるかと思います。赤外線で見た真っ暗闇の場所のリンゴの存在は存在していると質問者さんも認識しますよね? 実は電子顕微鏡もこれと同じメカニズムなんです・・・。 ものすごく乱暴に言います。 普通の顕微鏡でも原子見えます。原子が小さすぎて見えないんじゃないんです。原子サイズまでアップで見れるんですが見える画像がつぶれちゃって見えない。なぜかというと光は電磁波の一種で波のようにうねってます。 リンゴの場合、リンゴに当たった光が赤い色の光になって眼に入ってきてくる。そのときリンゴの端のほうに当たった光は赤になって帰ってきますがリンゴにぎりぎり当たらなかった光は返ってこない、もしくはリンゴの後ろのほうの何かに跳ね返ってきて違う色の光になって帰ってくる。だからリンゴとそれ以外の境界線を認識できる、つまりリンゴの輪郭をみることが出来るんです。 しかし上記で言ったように光は波のようにうねってます。そのうねりの幅がリンゴにたいしてものすごく小さいため、リンゴの輪郭をきれいに我々に見せてくれます。 では原子相手ではどうでしょうか? 原子はあまりに小さすぎて光の波の幅より小さいんです。 これじゃまともに跳ね返らない。だって波の幅のより小さいんですからちょっとずらして光を照射しても当たりまくり、もしくはうまいこと波がよけちゃう・・・。結果、原子の輪郭はむちゃくちゃに見えるし隣の原子のむちゃくちゃに見えるから映像がつぶれまくり、滲みまくりですね。 ではどうやって原子をみるか? 波が光(可視光)より小さい波を当ててやればいいんですよ。もちろん原子より小さい幅の波を。 それが電子銃ですね。電子銃によって打ち出された電子は波の幅がとっても小さいため原子にうまいこと跳ね返り、原子の輪郭も見ることが出来たってことです。 ですので、 ビデオカメラでとったリンゴを見てその存在を信じる 赤外線カメラで取ったリンゴを見てその存在を信じる 顕微鏡で見たミジンコを見てその存在を信じる 電子顕微鏡で見た原子を見てその存在を信じる どうでしょう?
お礼
ご回答ありがとうございました。 >電子顕微鏡で見た原子を見てその存在を信じる 「電子顕微鏡で見た原子」というのは、原子の何を見ているのでしょうか? 原子の輪郭ですか? もし、原子の輪郭だとしたら、その原子を構成している原子核、あるいは、その原子核を構成している素粒子は、どのように見えるのでしょうか? そもそも原子に輪郭があるのでしょうか?
No.14です。さらに知りたいと思って 投稿させていただきます。 分子H2Oなる数学モデルないし理論から 水素や酸素が 感覚によって分かるように 取り出されるとすれば どうなのでしょう? 原子爆弾や核エネルギーとして 実感しうるかたちが 理論から導き出されるなど そのあたりのことは いかがお考えなのでしょう? 感覚の延長としての範囲を 一たん超えて ふたたび実際の世界に戻って来たような気がします。 ニュートリノが 宇宙を飛び交っていて それが通ったという跡を観察し得れば 可感的な《もの》として 存在すると言っているのでしょうか?もはや わかりません。お手上げです。 こんな回答がゆるされるとしますならば・・・。
補足
ご回答ありがとうございます。 >分子H2Oなる数学モデルないし理論から 水素や酸素が 感覚によって分かるように 取り出されるとすれば どうなのでしょう? 仮に、水素や酸素の分子が目の前に超拡大されて登場したら、それが、どんな形をしているか具体的に描けると思いますか? これが「技術的にではなく原理的に決して描き得ない」というのが、肉の眼の延長をはるかに超越してしまった現代科学の結論だと思います。水の分子として、丸い水素原子2個と丸い酸素原子1個をくっ付けたような図をよく見かけますが、分子や原子が、あのような実体を持った球体であるというのは、全くの大嘘です。あれは、単なる観念模型です。 >原子爆弾や核エネルギーとして 実感しうるかたちが 理論から導き出されるなど そのあたりのことは いかがお考えなのでしょう? 私は、原子や分子が存在しないと考えているわけではなく、原子や分子の存在の仕方が、リンゴの存在の仕方とは異なり、交通規則の存在の仕方と同じではないかと考えているわけです。交通規則は物理的実体ではないにも関わらず、明らかに「現実的力」であるように、「自然規則」である、原子や分子も、原子爆弾という「現実的力」を持つのではないかと思います。 >ニュートリノが 宇宙を飛び交っていて それが通ったという跡を観察し得れば 可感的な《もの》として 存在すると言っているのでしょうか? 「それが通ったという跡」は、ニュートリノが原因となって引き起こされた結果であって、ニュートリノそのものではないと考えることができると思います。でも、一般には、次のように考えるでしょう。 確かに、「それが通ったという跡」はニュートリノそのもではないが、でも、「それが通ったという跡」がある以上、その原因であるニュートリノがあるはずだと。 それに対して、私の考えは、以下の通りです。 確かに、「それが通ったという跡」を引き起こすニュートリノは存在するかも知れませんが、それは、ニュートリノという「実体」があるのではなく、ニュートリノという「規則」があるのではないかということです。例えば、直進不可・右折のみ可の交差点で、全ての車が交差点の中心を避けるように迂回して運動するのを見て、この交差点の中心には「目に見えない何か物理的実体があるのだ」と考える人はいないと思いますが、それと同じことだと思います。
kaitara1ですが、私の言いたかった事に対する反論ではないのですが対象を記号化するという操作(という概念)は大切だと思うのであなたが挙げた反証に即して書いてみます。 <(4)、(5)、(6)の場合は、概念に対応する具体物が存在しないように思います。 (4)概念「分子」に対する具体物 あらゆる物質 (5)概念「国境」に対する具体物 国境付近の風景 (6)概念「民主主義」に対する具体物 議論を行なう建物などでこれがすなわち記号と対象の関係です。記号として存在するか対象として存在するかというのはあまり意味がないことが分かります。本当は具体物というのはあなたが私のパソコンの画面に示した文字そのものです。このようなものが存在するというのは正に対象として存在しているわけですから具体的な記号として存在すると同時にその記号に対する対象も同じように存在しているということになります。
お礼
ご回答ありがとうございました。 おっしゃっているのは、記号「リンゴ」に対して、対象「リンゴ」が存在するように、記号「分子」に対して、対象「分子」が存在するだけのこと。という意味でしょうか? そうだとすると、全く、おっしゃるとおりです。 ただ、私の質問は、その共に存在している対象「リンゴ」と対象「分子」の”存在の仕方”が全く違うのではないかということです。すなわち、対象「リンゴ」は具体的に存在しているのに対して、対象「分子」は、具体的に存在しているわけではなく、概念としてしか存在していないのではないかということです。
- tenntennsevengoo
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NO.11さんの補足を見てなんとなくわかりました。 つまり漠然としているものに対して存在と言えるか? ということですね。 数学の公式を見て図形が書けるか?といういうようなことだと 思います。ですが存在していると考えて良いと思います。存在 しているという定義はあるものを作ったときにそれが変化すれ ば存在があると言うことだと思います。たとえば紙で塔を作っ たとしましょうそしたらなぜか塔が倒れていたとしましょう。 そうすると塔が倒れていた理由は塔を倒す何かが存在している からに他ならないでしょう。勿論塔を倒す何かでは曖昧で漠然と しています(マクロな存在)しかし曖昧が存在しない訳ではない また三角形との違いと言えばマクロ的な度合いの差ではないでしょうか?
お礼
ご回答ありがとうございました。 私の疑問は、質問のタイトルに書かせていただいたように、「分子」と「三角形」の”存在の仕方、あるいは、存在の種類”は同じか違うかということです。 存在しているかいないかと言う意味では、三角形も分子もリンゴも、あるいは、ぼんやりした影もみな存在していると思います。
観想という空想の徒であって 哲学・論理学については 嫌いではないですが それを究めようというつもりのない者です。とお断わりして 次のように考えます。 存在と聞いて それを考えるのは おそらくわれわれ人間だけだと思います。つまり 存在であるものがその存在を考えるというおこないがです。 ここから拡げて この世の《もの》は一般に《存在する》と言うのだと思います。 さらには わたしという者は存在するし わたしの考えるという《こと》も存在し わたしのたとえば暑苦しさという《さま》も存在するというふうに表現するのだと思われます。 ただし この世のものの中でも たとえば物の怪といった想像上のものは 架空のものとして存在すると言うか もしくは 単なる空想であって存在しないと表現するかだと見られます。 これを分けるのは 肉の眼ないし五感で捉えることができるかでしょう。そして その延長として経験科学の眼(その手段としての能力)で捉えることができるかだと思われます。 こころの眼で捉えるものごとは 上の基準で実際に存在すると確認したものごととつながっている場合は 一般にその存在することが 強く主張されます。(強くというのは 逆に 根拠が弱いゆえだと理解してよいと思われます)。たとえば道真の霊とそのたたりとまた賜物としての学力は 想像上で あたかもその存在が主張されるがごとくです。 お尋ねの《りんご》は 感覚でその存在が確かめられ 《三角形》も 図形として確認され得ます。《分子》も 科学の眼でその存在が確認されるというふうに われわれは理解しているのではないでしょうか。素粒子や基本粒子となると わたしは よくわかりません。それは もはや あたかも物の怪のごとくなのでしょうか。専門知識にお詳しかったら おしえてください。 〔ちなみに 《物質》というのは この世のもの(質料)ではなく この経験領域を超えたところに想定するものだと習ったのですが。存在するとも・しないとも 分からないものとして想定するのだと。 つまり 想像上の架空のものなのではなく あくまで想像(思考)を超えたところに 想定するものだと。つまり 経験領域において存在することを超えている。つまり 想定じょう むしろ存在の原理であるかも知れないし ないかも知れない。つまり 物質については 科学の眼をも超えているので その存在(ひょっとすると存在の原理?)について――想像するや考えるやとは関係なく――《信じる あるいは 信じない》という態度を われわれ人間は採るのだと。 これを 哲学としては――経験科学たる学問として―― どう究明していくのか 悩んでいたものですから ちなみにとして付け加えさせていただきました。〕
お礼
ご回答ありがとうございました。 ご回答いただいた言葉で考えると、結局、「肉の眼ないし五感」に対して、「科学の眼」は人類の認識に何をもたらしたのかということだと思います。「科学の眼」が「肉の眼ないし五感」の延長と考えられる範囲に留まっていれば、認識の形式に大きな違いはなかったと思いますが、実際には、現代科学は、既に、「肉の眼ないし五感」の延長/拡大の範囲をはるかに超えてしまっているように思います。 例えば、昔は肉眼で見ることのできなかった細菌を光学顕微鏡で見たり、あるいは、月の表面を天体望遠鏡で見たりしているうちは、「肉の眼ないし五感」の延長の範囲内だと思いますが、一旦、科学が数学を使って、この世界をモデル化し始めた段階で、「肉の眼ないし五感」の延長の範囲を越えてしまったのではないかと思います。 その結果、「科学の眼」は、”実際には存在しないもの”を見るようになったのではないかと考えます。例えば、「分子」がその例ではないかと。「分子」は「リンゴ」が存在するような意味で存在しているのではなく、むしろ、「都道府県」が存在するような意味で存在しているのではないかと思うのです。何故なら、「分子」(あるいは、それを構成する素粒子と言ったほうが良いかも知れませんが)は、数学モデルという「自然の制度」に基づいて定義されたものであり、いかなる、「実体」でもないと思われるからです。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
#9です。 もちろん存在を否定しているわけじゃありません。 気持ちはよく分かりますが、やはり概念が先じゃないでしょうか。例えば、子供の頃、キリン、ゾウ、カバをはじめて知ったのは絵本じゃないでしょうか。そして動物園に行ってあれはキリンだ、と言うのではないでしょうか。 私たちにとって概念と存在は等価であり、存在していようがいまいが、概念で私たちは考えるのではないでしょうか。
お礼
なるほど、おっしゃっている意味がわかったような気がします。 「分子」については、おっしゃられる通りかもしれません。確かに、人間が、「分子」という概念を定義した結果として、「分子」が生み出されたと見ることができます。 ただ、リンゴ(あるいは、キリン、ゾウなども含めて)については、人間が定義しようがしまいが存在するように思います。これは、言語が先か、物が先かの話だと思いますが、立派な学者は、言語が先と考えているようですが、私は、立派な学者ではないので、物が先だと思っています。 ご回答ありがとうございます。
- fishbowl66
- ベストアンサー率29% (36/121)
具体化と抽象化という言葉では、表わせないので、 べつの表現に挑戦してみました。 それだけのことです。 それと、三角形の概念の客観性と、林檎の概念に忍び込む、主観性 くれぐれも、病気に気をつけましょう。 失礼しました。
お礼
ご回答ありがとうございました。
記号として存在しているかどうかの問題ではないでしょうか。記号抜きで分子が存在しているとすれば三角形の形のもの(分子でもよいと思います)が存在していることに対応するのではないでしょうか。つまり飲む対象としての水に対応するのは例えば三角の形をした何か具体的な物体に対応するということではないでしょうか。概念としての三角形はH2Oとして表される水に対応するのではないかと思います。違いがあるとすればリンゴは記号抜きで食べる事が多いが分子や三角形は記号として扱う事が多いという違いではないかと思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。 例を挙げて考えてみると、以下の(1)、(2)、(3)の場合は、おっしゃることがよくわかりますが、(4)、(5)、(6)の場合は、概念に対応する具体物が存在しないように思います。 (1)概念「三角形」<--->具体物「三角定規」 (2)概念「水(H2O)」<--->具体物「コップに入った水」 (3)概念「リンゴ」<--->具体物「今、食べているリンゴ」 (4)概念「分子」<--->具体物「???」 (5)概念「国境」<--->具体物「???」 (6)概念「民主主義」<--->具体物「???」
- tenntennsevengoo
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補足に回答します。 >この話になると、科学的事実の問題になるので、専門家でない私とし>ては、判断が難しいのですが、電子顕微鏡は分子そのものを見ている>わけではないように思います。分子があると仮定されている場所で起>こる電子の屈折現象を見ているのではないかと思います。だから、電>子の屈折現象は実在すると言えても、分子が実在すると言えるかどう>かは疑問のような気がします。 ということでしたが そんなこといってしまうとリンゴだって光の屈折をわれわれが見ているだけであってリンゴそのものを見ているわけではないです。たしかに電子顕微鏡ですと光の情報はありませんが電子が屈折したという確固たる実在が存在しますので電子が屈折するという情報で分子を見ているのではないかと思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。 >そんなこといってしまうとリンゴだって光の屈折をわれわれが見ているだけであってリンゴそのものを見ているわけではないです。 全く、おっしゃるとおりだと思います。ただ、私が疑問に思うのは、常識との食い違いです。リンゴの場合、リンゴが目の前に見えるからと言って、リンゴの真の姿が「まさに、その目の前に見えたとおりもの」であるとは限らないわけですが、それにも関わらず、常識的には、それが、リンゴの真の姿だと信じることができます(何故、信じられるかも疑問ですが、ここでは、とり合えず、不問いにします)。 ところが、電子顕微鏡で見た分子の場合は、どうでしょうか? 状況が全く違うように思います。 何かモヤモヤした丸い雲のような形のものが写っていたとしても、それが、分子の真の姿でないことは明らかです。そもそも、分子は原子と電子で構成され、原子は、また、複数の素粒子で構成され、しかも、それらの素粒子は、空間の性質があるだけで、リンゴのような、いわゆる「実体」はないわけです。すなわち、分子は、謂わば、そのような実体のない空間の一定領域に付けられた名前のようなものではないかと思います。 ある意味では、分子は、国境線と似たような存在ではないでしょうか? リンゴと分子の間には、富士山と国境線のような「存在の範疇」の違いがあるように思います。
お礼
あっ、もう一つ、別の論理展開があったんですね。 「ブラジルに行ったことがない人にとってはブラジルは実際に存在しているわけではなく、概念としてしか存在していない」という論理展開ですね。 この論理展開は、分子の場合は必ずしも当てはまらないような気がします。と言うのは、ブラジルの場合は、実際にそこへ行って直接、見たり触ったりして確認できるわけですが、分子の場合は、直接見たり触ったりはできないという違いがあるように思います。 確かに電子顕微鏡というものがありますが、あれは、分子そのものを直接見ているというより、分子があるとされる場所での電子の屈折現象を見ているように思います(専門でないので、間違っているかもしれませんが)。だから、「分子そのもの」は、目の前のリンゴやブラジルのような意味での具体的存在ではなく、電子屈折現象を説明するための(三角形と同じような意味での)概念モデルではないのでしょうか? ご回答ありがとうございました。