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今川義元の尾張侵攻の目的

1560年の今川義元による尾張侵攻。 その目的は何だと思いますか? ちなみに私は大高城、鳴海城救援を含む威力偵察のような意図があったのではないかと思います。

みんなの回答

  • nobuake
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回答No.5

 質問者様の考えでほとんど良いと思います。  多くの人は織田信長のドラマの見過ぎで、桶狭間の戦いをより  劇的にするように、今川義元が上洛・・といいますが、現在は否定されています。  京への途中の六角氏や斉藤氏に働きかけがないこと、  また、京にのぼるなら兵站をどうするか?という問題もあります。  京にのぼるわけがありません。  尾張と三河の間は、織田・今川の紛争地帯でした。三河の安祥城が  織田の領地だったこともあります。第一次、第二次小豆坂の合戦や  安祥合戦も5次(4次という説もありますが)戦われています。  今川義元の尾張侵攻もその流れの一つということではないでしょうか?  織田信秀のころは安祥城まで、領有していましたが、晩年は今川に  押され気味でした。信秀が死んで、信長から離れる人も多く  大高、鳴海城は今川方になってしまいました。  信長としてもほおっておけないので、丸根・鷲津砦を築いて圧力を加えました。  丸根・鷲津砦は地図で見ればすぐわかりますが、大高城の東側にあります。  そのままだったら、大高や鳴海城は織田方によって分断されて孤立します。  せっかく織田方から寝返ってくれたのに、救援しなければ今川義元のメンツに  関わります。以後、織田方の切崩しにも影響がでるでしょう。  今川義元の侵攻は、織田が作った砦によって分断された、大高城・鳴海城の  救援ということじゃないでしょうか。それ以外はありえないと思います。    

  • Yelm
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回答No.4

現在の歴史研究では京都への上洛説はほぼ否定されています。 と言うのも京都に上るには尾張はもちろんその先の浅井家や六角家などにも外交的な働きかけをせねばならないにも関わらずそのような痕跡が何も残っていないからです。 最近では当時、東海地方の経済の大動脈の一つであった伊勢湾の海運を掌握する足がかりとして、知多半島や渥美半島を支配しようとしたのではないかとする説もあります。

  • hekiyu
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回答No.3

通過点でしょう。 天下を征する為京へ上ろうと して、その途中に尾張があった というだけだと思われます。

回答No.2

 威力偵察も兼ねた補給でしょう。  自陣になびいたところをほっておく訳にもいかないので、とりあえず補給路を確保し、そののち尾張侵攻のための橋頭堡にする。

noname#177763
noname#177763
回答No.1

今川義元が尾張に入ったのは、ただの通過点にすぎません。 義元は京の足利将軍を撃つべく上洛しようとしていたのです。 尾張は京への通過点にすぎなかったのです。