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「快」と「幸福感」と「不快」について

哲学のカテゴリーとどちらに書くべきか迷ったのですが、こちらに書かせていただきます。 ・「快」と「幸福感」は同じものなのでしょうか ・「快」と「不快」を感じるシステムは別物なのでしょうか(同じシステムの+と-なのか、違うシステムが両立しているのか) ・「快」という感覚は長続きしないものだと認識していますが、そうなのでしょうか。また長続きしないものだとしたらなぜでしょうか。 ・「快」「不快」のシステムについて分かりやすいお勧めの本があったら教えてください。

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  • ruehas
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回答No.2

こんにちは。 >・「快」と「不快」を感じるシステムは別物なのでしょうか(同じシステムの+と-なのか、違うシステムが両立しているのか) 基本的には、我々の脳内では「快」と「不快」が複数の異なるシステムによって別々に取り扱われるということはありません。 例えば、「痛覚」といいますのは感覚神経系の中では「不快」を専門に扱う受容器と言えるかも知れません。ならば、痛覚神経もまた不快専用の伝達経路ということになりますよね。ですが、ここで「不快」という判定が下されるためには、刺激入力は必ずや定められた一定の閾値を超える必要があります。ですから、それが閾値を超えない場合は「不利益・不快」とは判定されないわけですから、逆に入力がない場合は「利益・快」という判定が下されているということになりますよね。 さてこのように、「快・不快」といいますのは知覚情報の入力に対する中枢系の「価値判断」によって決定されるものです。 「生命中枢」や「大脳辺縁系」など、直接の知覚入力に対して情報処理を行う中枢系には知覚情報として入力される身体内外の環境の変化に対して「利益・不利益の価値判断」を行い、与えられた状況に対応した適切な反応を発生させるための「選択的な反応基準」というものが獲得されています。「快・不快」といいますのは、この中枢系の反応規準に従って「+・-」「YES・NO」のどちらかに判定の下された結果です。ですから、まずこの判定が異なるシステムによって別々に行われるということは、原則的にあり得ないわけです。 但し、ひとたび「快・不快」の判定が下されますならば、我々の脳は直ちにその結果に対応する身体反応を発生させなければならないわけですから、当然のことながら、そこから先の信号伝達や分岐経路といいますのは、「快」と「不快」では多くのものが異なります。では、我々の脳内では、「快・不快」の反応結果というのはどのように分岐・伝達されてゆくのでしょうか。ご質問に沿い、現在までに判明している情報に基づいて「幸福感」と「絶望感」の分岐経路に就いて簡単にご説明させて頂きます。 >・「快」と「幸福感」は同じものなのでしょうか 「幸福感」といいますのは「大脳辺縁系」に発生する「快情動」によって生み出されるものです。そして当然のことながら、「絶望感」とは「不快情動」に基づくものです。 「幸福感」や「絶望感」は感情の一種に分類されるものですが、さて「感情」といいますのは、大脳辺縁系の情動反応に伴って身体に発生する「情動性身体反応」の表出パターンが喜怒哀楽など、特定のタイプとして分類の可能になった状態を言います。 たいへん廻りくどい言い方で申し訳ないのですが、例えば、顔を真っ赤にして頭から湯気を出していれば、仮に本人が気付いていなかったとしましても、誰が見たってそのひとは怒っていると分かりますよね。「分類の可能な状態」といいますのは、取りも直さずそれを特定の感情として分類することができるということです。そして、実際に頭から湯気が昇るかどうかは経験がありませんが、「顔を真っ赤にする」するというのは、これは「情動性自律反応」の身体表出です。これは「自律反応」でありますから、本人が自覚していないなんてことは幾らでもあるわけなんですが、周りから見れば一目瞭然ですよね。つまり、我々が感情を分類するということは、大脳辺縁系の情動反応に伴って身体に発生した様々な「情動性身体反応」の結果を分類するということなんです。 では、我々が自分に発生した感情を自覚するというのはどういうことなのでしょうか。そのためには、まず自分の身体に発生している情動性身体反応が「内臓感覚」として大脳皮質に知覚されなければなりません。大脳皮質はこの内臓感覚に対して認知・分類を行い、それがどのようなタイプの感情であるかを特定します。同時に、現在に与えられている状況を分析することによって、自分がいったい何に対してその感情を発生させているのかというのを自覚することができるわけですが、これを大脳皮質における「情動の原因帰結」と言います。 ここで最も重要なことは、感情といいますのは大脳皮質に発生するものではないということです。大脳皮質は感情の発生を自覚することができますので、あたかもそれは大脳皮質で発生しているもののように思われますが、只今ご説明致しました通り、感情とは大脳辺縁系の情動反応が分類の可能になった状態を言います。大脳皮質は反応の結果に対して認知・分類を行い、単にそれを自覚しているだけであり、「幸福感」も「絶望感」も、それはどちらも大脳皮質の中に発生するものではありません。 さて、分類・弁別が可能であるということは、「幸福感」と「絶望感」では身体反応の表出結果が異なり、「快情動」と「不快情動」ではその伝達経路が違うということです。 申し上げるまでもなく、最初の分岐点は「大脳辺縁系」であります。大脳辺縁系には身体内外のありとあらゆる知覚情報が入力されており、ここではそれに対して「利益・不利益の価値判断」を行い、「快情動」か「不快情動」のどちらかを発生させます。この情動反応の結果が自律神経系に出力されたものを「情動性自律反応」、運動神経系に働くものを「情動性行動」といいます。双方をひっくるめて「情動性身体反応」でありまして、感情とは、これを通して分類可能な状態に形作られてゆきます。さて、これがどういうことかと申しますと、つまり、我々の感情といいますのは知覚入力に対して発生しているということです。従いまして、環境からの知覚入力に対して「利益・不利益/快・不快」の判定を下し、情動反応を発生させるというのが大脳辺縁系の役割であり、ここが最初の分岐点ということになるわけです。 そして、更にもうひとつ付け加えておきますならば、大脳辺縁系に情動反応が発生しますと、我々はそれに従って「情動行動」を選択することが可能になります。では、大脳辺縁系の情動反応といいますのは環境からの知覚入力に対して「利益・不利益/快・不快」の価値判断を行うことによって発生します。ならば、我々動物にとって「快・不快」といいますのは、与えられた状況に応じた適切な行動を選択するために発生するものであるということになります。 「幸福感」といいますのは「中脳・腹側皮蓋野A10DA(ドーパミン)含有核」から「大脳皮質・前頭前野」という、「DA(ドーパミン)投射経路」が活性化することによって発生すると考えられています。この投射経路は俗に「報酬回路(幸福回路)」などと呼ばれていますが、「腹側皮蓋野A10DA核」に信号を送り、前頭前野に対するDA投射を活性化させるのが大脳辺縁系です。そして、このA10は「不快情動」に対しては反応しません。従いまして、「幸福感」といいますのは大脳辺縁系に「報酬刺激」が入力され、「快情動」と判定されたときにだけ発生する情動性身体反応の表出結果ということになります。 これに対しまして、「絶望感」といいますのは大脳辺縁系の「不快情動」が「中脳・中心灰白質」に出力された結果と考えられます。「中脳・中心灰白質」には「攻撃行動」と「回避行動」を選択する機能のあることが古くから確かめられています。「回避行動」といいますのは基本的には「不快情動」に基づくものであり、「攻撃行動」とは問題解決のための「能動的な回避行動」に当たります。このため、最近では大脳辺縁系の情動反応との関係がたいへん注目されています。 「中脳・中心灰白質」がどのような規準で「攻撃行動」と「回避行動」の判定を下すのかという説明は省略させて頂きますが、大脳辺縁系に「不快情動」が発生したとき、その入力を受けた「中脳・中心灰白質」が攻撃行動を選択する状態にあった場合、その感情は「怒り」として発生するはずです。ですが、そうでなかった場合には、選択肢は「悲しみ」や「諦め」、即ち「絶望感」しかないということになります。つまり、大脳辺縁系で不快情動と判定された知覚入力は「中脳・中心灰白質」に伝達されることによって「憤り」の系統か「絶望」の系統かに分岐してゆくというわけですね。 このように、感情といいますのは大脳辺縁系の情動反応によって発生するものですが、それを分岐点とし、快情動と不快情動では伝達経路が違います。このため、「幸福感」と「絶望感」では身体反応の結果が異なるわけですが、これにより、我々の大脳皮質はその結果の違いを認知・分類し、「幸福感」や「絶望感」を自覚することができるわけです。ですが、大脳皮質はそれを自覚しているというだけであり、くれぐれも、幸福感や絶望感は大脳皮質の中に発生しているということではありません。 言い訳:幸福感を司る「腹側皮蓋野A10報酬回路」の活性化には情動反応だけではなく、「β―エンドルフィン」の分泌も強く作用していることが知られていますが、これに就いて説明に自信がありませんので、ちょっとパスさせて下さい。 >・「快」という感覚は長続きしないものだと認識していますが、そうなのでしょうか。また長続きしないものだとしたらなぜでしょうか。 それは、「快」というのは絶対に長続きしてはならないものだからではないでしょうか。 「快」と「不快」というのは、いったい何のために存在するのでしょうか。先にも触れましたが、それは知覚入力に対する「利益・不利益の価値判断」によって決定されるものであり、我々動物はこれを基に、与えられた状況に対応した適切な行動を選択しています。ですから、「快・不快」といいますのは我々動物が行動を選択するために発生しているわけですよね。 「利益・快」と判定される知覚入力を「報酬刺激(接近刺激)」といい、「不利益・不快」と判定されるものは「嫌悪刺激(回避刺激)」といいます。中枢系においてこの判断が下されることにより、我々は初めて「報酬行動(接近行動)」か「回避行動」かのどちらかを選択することが可能になります。 「食欲」や「性欲」に伴うものはまず全ての動物で「報酬刺激」として受け入れられ、「苦痛」や「危険」は「嫌悪刺激」と判定され、「回避行動」は間違いなく選択されなければなりません。そして、どちらともいえない「無報酬刺激」といいますのは「利益がない」、即ち「不利益・不快」として処理され、「回避行動」の方が選択されます。 このようなものは生命中枢の中にプログラムされた「無条件反射」ですが、如何に単純な「本能行動」といえども、それは必ずや二つ以上複数の反応が発生しなければ実行されることはありません。これは、無条件反射として待った無しで発生してしまう本能行動を状況に応じてコントロールするためです。 「摂食行動」は「餌」という知覚刺激と「空腹」という生理状態が組み合わされなければ実行されることはありません。当たり前ですけれども、どうしてでしょうか。それは、「満腹」という上限がなければ動物は摂食行動を終了させることができないからです。 「快・不快」といいますのは、動物が行動を選択するためにあります。「食欲」といいますのは知覚入力を「利益・快」と判定して接近行動を選択させるものです。では、もしこの「快」が永遠に持続したとしますならばどうなるでしょうか。動物は休む暇なく食べ続け、生殖行動を行うこともなく、子孫を残さずに死んでしまいます。もちろん、通常は食べ過ぎればそれは「苦痛・不快」になりますし、やがては「満腹」という欲求の達成を迎え、その時点では「無報酬刺激」として回避行動が選択されることになります。 では、「満腹」というのは「快感」なんでしょうか。それは、生物学的には恐らく違うと思います。何故ならば、「快」というのが接近行動を選択するためにあるのでしたら、「満腹」によって回避行動が執られるというのはどう考えても原理に反するからです。ならば、それを「快・報酬」として使おうとするならば、それには学習が必要です。ひとたび学習が成されるならば、次の行動においてはそれが「快・報酬」として働きます。ところが、本能行動を司る生命中枢には、その学習機能というものがありません。ですから、学習によって実現する接近行動や回避行動というのは本能行動には存在しないわけです。ならば、本能行動において「満腹」とは回避行動を選択するためのものであり、それは「快感」ではないということになります。 では「快感」とは何かといいますならば、それは接近行動を選択するためのものであり、目的が達成されたならば必ずや消滅しなければなりません。さもなくば、我々は他の一切の行動を選択することができなくなってしまい、自らの生命活動を全うできる保証もありません。従いまして、我々動物にとってより長く継続し、よしんば「終わりのない快感や幸福感」などというものは、それは絶対にあってはならないものなんです。 過去の体験や日常を振り返ってみて下さい。終わりのない快感などというものが果たして存在するでしょうか。もしあるとするならば、それは「暴走システム」です。我々の脳には、そのようなものは絶対に存在しません。そして、それを実現しようとするならば、脳を破壊するか、麻薬を使用する以外に手段はないはずです。

kita33dr
質問者

お礼

すばらしい回答、ありがとうございました。 快・不快の働きを非常に詳しく説明していただいたおかげで、システムがよく分かりました。 「本能行動を司る生命中枢には、その学習機能というものがない」 これが一番の驚きでした。 そして「快」におぼれると、「快」から抜け出すことをしなくなり、自ら生きるための行動をもとらなくなってしまう。 だからこそ、「快」は短い時間しか感じることがないということですね。 とても詳しい説明ありがとうございました。 これだけの記載は大変だったと思います。厚くお礼申し上げます。

その他の回答 (1)

noname#33452
noname#33452
回答No.1

素人なのですが、回答が呼び水になればと思い回答しています。 不快というのは、やはり海馬関係でしょうか。 快というのは、脳内の辺縁系かなー。 それぞれ別の場所で処理される場合もあるので、システムとしてはやはり、別系統なのでしょう。 不快に関しては、記憶処理なので、とどめておくことに意味がある。 快は、ホルモン系なので、出し続けることが出来にくく(負担もあるため)、なれてしまうので、快は続かないのでしょう。 素人で、まゆつばでお聞き流しください。

kita33dr
質問者

お礼

ありがとうございます。 「快」を生み出すのはドーパミンでしたっけ? 報酬系だったか、そういう経路があったような、lovethegamさんの回答を見てうっすらと思い出しました。 ドーパミンがでまくり過ぎると統合失調症の陽性状態になるとかいう話も聞いたような気がします。

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