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対華21か条
明治政府が中華民国に対して行った、対華21か条はどういう意図と意味があったのでしょうか? また作案者は誰が中心ですか? 中曽根元首相は、ここから日本が覇権主義へつっぱしっていったと言っていた記憶がありますが、半植民地化を狙ったんでしょうか。 他の政治家はどう評価しているんでしょう。
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noname#201556
回答No.1
1914年、第一次世界大戦が始まるとヨーロッパ諸国は アジア(特に中国)に目を向ける余裕を無くしました。 この機会に中国大陸に出遅れていた日本は中国大陸への 進出を積極的に進めました。また日英同盟で大戦に参戦して 太平洋のドイツ領南洋諸島を占領して太平洋への進出の足がかりをも 得ました。 軍部なしでは出来ない事ですが、この頃はまだ議会制度が一応 機能していましたので当時の大隅内閣の名のもとに作案されたと 思いますが作案者は分かりません。 余談ですが 明治天皇は1912年に崩御されています。 この「対華21か条要求」は1915年1月に出されていますので 時代は大正時代で、「大正政府」だと思います。
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noname#3602
回答No.2
対華21ヶ条の要求は、欧米が第一次世界大戦で欧州に目がいってる時に、自分達の領土を増やそうとしてだしたものです。戦争に勝ったからいい気なもんで、もしのまなかったら、戦争になっていたでしょう。 中国にしてみれば屈辱的な内容です。この要求はベルサイユ条約でもすべてというわけではないが認められ、これが後々の反日運動の原点だったといえるでしょう。
質問者
お礼
なるほど!ありがとうございます!
お礼
ああ・・・・確かに大正時代でしたね(^^;