- 締切済み
対華21か条要求が出された理由と背景
対華21か条要求が大隈内閣から袁世凱内閣に1915年(第一次世界大戦中)に出されましたが、この出された理由と背景がよくわかりません。おそらく帝国陸軍内の誰かとそのグループが中心になって、推進したと思いますが、具体的に、誰がどのような狙いで、やったのでしょうか。また、大隈さんを初めとする政治家などの考えはどうだったのでしょうか。また、新聞などの反応はどうだったのでしょうか。 袁世凱との密約があったなどという話もありますが、この要求の結末は、当時の日本自身にとってもあまり好ましいものでなかったように思います。つまり、大して得るものが無かったにもかかわらず、国際社会においては、孤立化、対中関係においては、激しい反日感情(五四運動)、を引き起こしたと思うのです。 当時の日本の指導者たちが、なぜ、唐突な感じで、このような要求を突きつけたのか、少し調べましたが、まだ満足できる説明に巡り合っていません。どなたか詳しい方が居られましたらお教え願います。宜しくお願いします。
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
お礼
時代の趨勢であった「帝国主義的な国際協調主義」(領土的利権よりも経済的利権を追求)に、日本は、その国力の経済的な脆弱さゆえに、西欧列強を追随することが出来なかった。そして、従来の領土的利権追求型の後発帝国主義の道を突き進むことになった。対華21か条要求は、その象徴的な出来事であったと理解します。 この頃から、軍、政、官、民(新聞)が、後発帝国主義国家、大日本帝国、として、まとまり上がり、その後、満州事変、日中戦争、日独伊三国軍事同盟、大東亜戦争へと、突き進んで行ったように思います。 それはともかく、伊藤博文や阿部守太郎など当時の政治家や官僚は命がけでした。今の日本の指導者たちにも、そのような気概を持ってもらいたいものです。 日本の難しい時代を深く冷静に研究されているご様子に感銘を受けます。非常に参考になりました。ありがとうございました。