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対華21か条要求が出された理由と背景
対華21か条要求が大隈内閣から袁世凱内閣に1915年(第一次世界大戦中)に出されましたが、この出された理由と背景がよくわかりません。おそらく帝国陸軍内の誰かとそのグループが中心になって、推進したと思いますが、具体的に、誰がどのような狙いで、やったのでしょうか。また、大隈さんを初めとする政治家などの考えはどうだったのでしょうか。また、新聞などの反応はどうだったのでしょうか。 袁世凱との密約があったなどという話もありますが、この要求の結末は、当時の日本自身にとってもあまり好ましいものでなかったように思います。つまり、大して得るものが無かったにもかかわらず、国際社会においては、孤立化、対中関係においては、激しい反日感情(五四運動)、を引き起こしたと思うのです。 当時の日本の指導者たちが、なぜ、唐突な感じで、このような要求を突きつけたのか、少し調べましたが、まだ満足できる説明に巡り合っていません。どなたか詳しい方が居られましたらお教え願います。宜しくお願いします。
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- fumkum
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NO1です。さらに追加をさせていただきます。前回の内容を変更した部分もあります。 さて、要求提出の理由の最大のものは、関東州の租借期限が大正12年(1923)に期限を迎えること、南満州鉄道および安奉線の敷設経営権の満期が近いこと=中国に返還することとなっていたことだと思います。 最大の推進者は加藤高明外相。加藤は外務官僚出身で、岩崎弥太郎の娘婿、当時は立憲同志会(後に憲政会)の総裁で、大隈内閣の副総理格の外務大臣でした。加藤高明は大正2年(1913)にイギリスの外相に、「好機をつかまえて、租借および安奉線の期限延長を交渉するつもり」との話をしていて、加藤高明にとっての懸案事項でした。これは方法・手段はともかくとして、為政者層には共通の認識であったと思いますが、加藤高明が突出して要求を引っ張っていたことは確かで、元老の余計な口出しを阻むために、外交文書を元老に回さず、元老から吊るし上げを食ったりしています。第1次世界大戦の参戦決定から既定方針であったと思います。大隈首相も対華強硬派に近く、また、長州閥(特に井上馨)とも近く、二個師団増設の実現を目指すなど、行動的には中国情勢への不干渉派であった前内閣とは趣を異にしています。加藤外相の独走を許したり、第1次世界大戦への参戦、対華要求、最後通牒などの閣議等では加藤外相擁護しています。 さて、大正3年8月に行軍中の日本軍に中国警察が射撃され、負傷者がでた鄭家屯事件が起こり、関東都督から、満州の居留地外にいる邦人の居住権、不動産所有権、鉱山採掘権等の既得権益の明文化を中国政府と交渉すべきであるとの要求が出ていますが、加藤高明外相は拒絶しています。関東州の長官である陸軍出身の関東都督の要求は、この段階では既得権益の明文化であり、租借権等の延長には踏み込んでいないことは注目されると思います。 なお、満州の経営について、陸軍と外務省はその主導権を巡って競合関係にあり、外務大臣は政務に関しては関東都督を監督する権限を持っていたこと。関東府の性格上、中国政府(特に満州地区の官憲)などとの交渉権限を巡り、在地の日本領事の権限強化を目論む外務省と、都督府に権限を集中したい陸軍とのせめぎあいがあります。 対華21か条要求については外務官僚出身の加藤高明の功名心が大きくリードしたのものと考えられます。しかし、外務省の中にも別の考え方もあり、対中国外交につて、山本第1次内閣の外務省政務局長の阿部守太郎は、満蒙への武力拡大の反対。平和的な利権の拡大。領土的な野心を捨て、平和的な手段での利権の拡大。中国との親善、辛亥革命への不干渉の考えを持っていました。これは阿部個人の考え方ではなく、牧野伸顕外務大臣、山本権兵衛首相とも共通の考え方に立つと考えられますが、この系譜は暗殺された伊藤博文につながり、国際協調派とも目されます。これらの勢力は場合によって関東州等の租借地も返還してもよいとの考えを持っていたとされます。なお、阿部守太郎は大正2年(1913)に暗殺されています。 陸軍の第一仮想敵国はロシアで、ロシアの日露戦争の復讐戦に備えることが目標でした。そのために満蒙を固め、中国にも強固な地盤を築くことにより、後顧の憂いを取り除こうと考えていましたが、元老でもある山形有朋は日中提携論者で、日中が提携してロシアに当たるべきであるとの考えでしたので、第一次大戦への参戦、対華21か条要求にも批判的ではありました(最終的には許容する)。そのような勢力もあったにしても、陸軍は関東州および満鉄付属地に軍隊を派遣し、関東都督は陸軍の現役将官を派遣しているわけで、満蒙の利権拡大に奔走していました。辛亥革命が勃発すると、中国の民族意識の高揚と権益回復の機運。反日気運の高まり。軍閥の割拠などの情勢(さらに韓国併合による朝鮮の反発)から2個師団増設を要求します(これには山県は賛成)。また、満蒙の独立を裏で働きかけるなどの謀略を仕掛けたりします。陸軍は武力干渉による権益拡大派であったことは確かですが、対華21か条要求に関しては加藤外相に先んじられ、それに追随した感じです。 元老はどうかと言えば、山県は上記のように反対、井上馨はどちらかと言えば賛成であったことは分かっていますが、全体として参戦に対してはどちらが勝つかわからないので消極的。対華21か条要求については、事前に了解をしていますが、加藤外相への不満もあって、最後通牒の提出については英米仏などの干渉を懸念して内閣と激論となり、最後通牒から5号の中国政府への日本人顧問雇用要求等は除くこととなっています。 新聞や世論は政府以上に強硬。特に交渉を長引かせ、欧米列強の干渉を待つ中国の態度には反発が強く、強硬意見が多くみられます。また、政府・元老以外でも、政党の有志の衆議院議員などにより結成された国民外交同盟会は強硬で、火事場泥棒と非難されても第一次世界大戦の混乱を利用して、中国に多くの要求を飲ませるべきとの考えを早くから言い出していただけでなく、最後通牒(飲まなければ開戦)を政府に要求したりもしていました。このように広く強硬な意見があったために、対華21か条要求を提出する段になると、陸軍・産業界などから要望が寄せられ、本来の目的であった関東州の租借期限、満鉄・安奉線の敷設経営権の期限延長だけではなく、雑多な要求となった側面があります。 さて、辛亥革命の前後から中国への列強の進出は、経済的な進出へと変化しつつありました。日本・イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・ロシアは借款団を結成して共同で中国への借款を提供しましたが、資金力に乏しい日本は権益の獲得に失敗するのみならず、既得権益も危うくなる状況に置かれていました。その中には満州の鉄道利権(満鉄を除く)、大冶の鉄山なども含まれ、経済力に劣る日本には、欧米列強に経済力・資本力・資金力の面で伍して行くことは非常な困難な状況に追い込められていたとみられます。それを背伸びして権益の確保・拡大を目指したために、武力に頼らざるを得なかった側面があったようです。武力干渉による帝国主義的な政策の行き詰まり状況に陥っていたと思います。ある面で、国力以上に背伸びをしていた面があるとも思います。 最後になりますが、対華21か条要求は日本としてみれば租借権の延長問題を中心に唐突な要求ではなく、懸案事項でありました。また、対華21か条要求は、帝国主義的な要求としては極端な要求ではないとする考え方が有力ですが、時代的にこのような要求や手段は、過去のものとなってきており、経済的な手段によるようになってきたことや、中国の民族意識の高揚の中で、より侵略性が高いと非難されることとなったと思います。遅れて進出した帝国主義国家の悲運というところではないでしょうか。 大正時代は二個師団増設問題・護憲運動・大正政変という時代の始まりから諸勢力が複雑な動きをしているうえに、諸勢力内部も相反する動きがあり、本当に複雑怪奇です。対華要求にしてもいろいろと調べては見たのですが、租借期限にしても1923年説と22年説があるほどで(主力は23年)、研究者により意見が違い、錯綜している面はあったのですが、結論的には租借期限の延長と、加藤高明の主導という高校の授業の内容と同じでした。 今回の質問を調べる中で、阿部守太郎という人物を知ったり、辛亥革命の中で起こった南京事件があったことが分かったり私個人としても収穫がありました。ありがとうございました。
- fumkum
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対華21か条要求は、第一次世界大戦の勃発による欧米列強が東アジアから勢力を後退させる中、火事場泥棒的に要求したことですが、日露戦争の勝利後、韓国・南満州での権益の拡大、確実な確保から、満蒙、そして中国への権益拡大を目指す日本の指導部、そして、新聞・国民も同じような方向性を持っていたので、陸軍だけの独走ではないようです。この要求は日本が第一次世界大戦に参戦し、中国の山東半島にあるドイツの根拠地青島に出兵し、占領をした後に出されています。そのため、対華21か条要求は1~5号に分割されていますが、1号は山東省にあるドイツ権益の譲渡。2号は満州・内蒙古の権益。3号が漢陽の製鉄所、大冶の鉄山、萍郷の炭鉱を持つ漢冶萍公司への合弁要求。4号が中国沿岸の不割譲要求。5号は希望条項として、中国政府そのものを日本の影響下に置くための諸要求となっています。1号を除き、2~5号は順に日本の中国進出の予定表に沿った内容になっていると考えられます。陸軍の関与であるならば、寺内内閣の時に行われた西原借款の方が、陸軍の独走と言える行動だったと思います。 下に、第一次世界大戦の勃発時の元老井上馨と、外相加藤高明の意見を載せていますが、大戦を「天佑」とし、「東洋に対する日本の利権を確立」・「支邦の統一者を懐柔」・「欧米の趨勢を、根底より一掃せしめ」・「独逸の根拠地を東洋から一掃して国際上に一段と地位を高める」という、対華21か条要求と共通する考え方を見ることができると思います。対華21か条要求はこれらの考え方の具体的な行動であり、日本の国策に沿った行動であったと思います。 ですから、欧米の反発はある程度覚悟したものの、反響の大きさに驚いた面もあったと思います。そのために大戦中からロシアと第4次日露協約を締結、英国とは覚書の締結、最大の批判国のアメリカとは石井・ランシング協定を結ぶなどの外交策をとっています。しかし、アメリカとの対立は基本的には解消されず、日本の針路に大きな影を落とします。さらに、中国・朝鮮では民族意識の高揚、抵抗が高まります。このような流れの中で、日本国内では中国進出、対華21か条要求に対する批判はほとんどおこらず、石橋湛山の「アジア大陸に領土を拡張すべからず、満州も宜しく早きにおよんでこれを放棄すべし、とは吾輩の宿論なり。-略-青島割取は実に不抜の怨恨を支邦人に結び、欧米列強に危険視せられ、決して東洋の平和を増進する所以にあらずして、かえって形勢を切迫に道(ママ)くものにあらずや。」(青島の領有について)くらいのものであったようです。 井上馨の意見書 「今回の欧州の大禍乱(第一次世界大戦)は、日本国運の発展に対する大正新時代の天佑にして、日本国は直に挙国一致の団結を以て、此天佑を享受せざるべからず。此天佑を全うせんが為に、内に於ては比年囂々たりし廃減税等の党論を中止し、財政の基礎を強固にし、一切の党争を排し、国論を世界の大勢に随伴せしむる様指導し、以て外交の方針を確立せざるべからず。此の戦局と共に、英・仏・露の団結一致は更に強固になると共に、日本は右三国と一致団結して、茲に東洋に対する日本の利権を確立せざるべからず。-略-以上英・仏・露と誠実なる連合的団結をなし、此基礎を以て、日本は支邦の統一者を懐柔せざるべからず。-略-世界的大禍乱の時局に決し、欧米強国とヘイ行提携し、世界的問題より日本を度外すること能はざらしむるの基礎を確立し、以て近年動もすれば日本を孤立せしめんとする欧米の趨勢を、根底より一掃せしめざるべからず。」 外相加藤高明の演説 「斯かる次第で,日本は今日同盟条約の義務に依って参戦せねばならぬ立場には居ない。条文の規定が日本の参戦を命令するような事態は今日の所では未だ発生しては居ない。たゞ一は英国からの依頼に基く同盟の情誼と,一は帝国が此機会に独逸の根拠地を東洋から一掃して国際上に一段と地位を高めるの利益と,この二点から参戦を断行するのが機宜の良策と信ずる。」
お礼
日露戦争から10年。当時の日本は、第一次世界大戦の勃発を天佑と考え、政治家も国民もイケイケドンドンの雰囲気に包まれていたのでしょうか。軍部は、むしろ、「勝って冑の緒を締めよ」で未だ謙虚だったのかもしれませんね。詳しくご説明していただき、だいぶクリアーになりました。ありがとうございました。
お礼
時代の趨勢であった「帝国主義的な国際協調主義」(領土的利権よりも経済的利権を追求)に、日本は、その国力の経済的な脆弱さゆえに、西欧列強を追随することが出来なかった。そして、従来の領土的利権追求型の後発帝国主義の道を突き進むことになった。対華21か条要求は、その象徴的な出来事であったと理解します。 この頃から、軍、政、官、民(新聞)が、後発帝国主義国家、大日本帝国、として、まとまり上がり、その後、満州事変、日中戦争、日独伊三国軍事同盟、大東亜戦争へと、突き進んで行ったように思います。 それはともかく、伊藤博文や阿部守太郎など当時の政治家や官僚は命がけでした。今の日本の指導者たちにも、そのような気概を持ってもらいたいものです。 日本の難しい時代を深く冷静に研究されているご様子に感銘を受けます。非常に参考になりました。ありがとうございました。