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哲学の落とし穴

私は哲学は何も知らない一般人です。 ちょっと知りたい事があり検索をしていたら、私の知りたい事は無意味な事で答えを出そうとすると落とし穴に陥りやすいものだという事がわかりました。 その私の知りたい“問い”というのは哲学を勉強したことのない一般人の私でも容易に答えの書けるものです。 明確な答えの無いものであるが、容易に答えの出せるもの‥、 それが落とし穴に陥る事だと理解しました。(私の理解力も疑わしいですが) このような理解であっていますか? 落とし穴とは何ですか? “落とし穴に落ちる”とはどういう意味ですか? 何でもよいので暇がありましたらご意見お聞かせください。 ※私の知りたい“問い”については解決済みですの省いて下さい。

みんなの回答

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.6

#5です。 補足ありがとうございました。 わたしなりに考えてみました。 哲学的な回答ではありませんがご了承ください。 例えば、生きるとは何かという問いに対してたくさんの答えがありますが、重要なのは答えではなく、その問いをなぜ発したのかではないでしょうか。その問いをした人は、何か子供の頃からやりたい夢のようなものがあったとして、現在はそれとは無縁の生活を送っている。 自分の人生を生ききれていないという鬱積した気持ちが”人生とは何か”という問いを発したかもしれません。そうなると、恐らく哲学的な回答はこの人にとって的外れになると思います。元々の問いが的外れ或いはピントが合っていないためです。 また、どうして自分のやりたい道に進まなかったのかといえば、単に安定した生活を求めてしまったかもしれません。そういう自分の心理についての自覚が無ければあらゆる答えは落とし穴になってしまうのではないでしょうか。上記の例を言い換えれば、 落とし穴=安定した生活を求める願望が出す答え 落とし穴に落ちる=本来の願いとはいえない気持ちに振り回されること となるでしょうか。 哲学を心理と切り離すことはできないだろうと私は思います。心理的な問いに対して、哲学的な答えで満足した気になってしまうとすれば、それが哲学の落とし穴といえるかもしれません。

noname#35512
質問者

お礼

>落とし穴=安定した生活を求める願望が出す答え >落とし穴に落ちる=本来の願いとはいえない気持ちに振り回されること 回答ありがとうございます。 心理学的な問いとは思いもよりませんでした。でもそう言われてみたらそのような気がしてきました。私の知りたかった問いは、アインシュタインがすんなり答えています。でもその答えはストンと腹に落ちる感じがしません。それもそのはずですね。私のは独善的なものから発した問いだったと気付きました。 ANo.6の回答者様の書き込みを読んで、哲学の問いというのがなんとなーくですが分かりました。とりあえず、哲学で問うてみる前に独善的ではないか点検してみようと思いました。 落とし穴は誰かのオリジナル表現で、別に崖に落ちるでもガムを踏みつけるでも良かったんですが、落とし穴が一番分かりやすいと思ったので落とし穴で聞いてみました。ANo.1~6番の回答者様の回答がそれぞれみんな違いますが、どれも正解だと思いました。ありがとうございました。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.5

回答している方もいるのに何なんですが、 >落とし穴に陥りやすいものだという事がわかりました。 >落とし穴とは何ですか? 矛盾していませんか?或いはそれを察して回答してほしいという事でしょうか。 私の理解が足りないのでしたらゴメンなさい。

noname#35512
質問者

お礼

書き込みありがとうございます。 どうして矛盾していると思われたのか、しばらく分からなくてずっと考えていました。 どうしてなのかやっと分かりました。 “私の知りたい事は無意味な事で答えを出そうとすると落とし穴に陥りやすいものだという事がわかりました。” この文章の “無意味な事で答えを出そうとすると落とし穴に陥りやすいものだ” の部分は私の言葉ではないのです。 誰かが言った言葉なのです。 私が言った言葉のように書いてしまったため矛盾してしまったんですね。 私が答えを知りたくて調べていた問いは、誰かが「無意味な~省略~。」と発言していたので、「そうなのか。」と思い、つまり「こういうことなのか。」と思いましたが、そういう理解でいいんでしょうか?みなさんはどのように解釈しますか? と、いうことでした。 >或いはそれを察して回答してほしいという事でしょうか。 なんとかこの下手な文章から私の言おうとしている事を察して回答して欲しいという期待が密かにありました。 >私の理解が足りないのでしたらゴメンなさい。 いえいえ、一声掛けてくださってありがとうございます。 今後の文を書く際の参考にさせてもらいます。

  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.4

「明確な答えの無いものであるが、容易に答えの出せるもの」 つまり、これが絶対という正解を持たないが、いろいろな形で答えることができるもの、ということですね。 無数の答を出しうるのに、すべての答を見る前にひとつの答で満足してしまっている。 この見過ごしを「落とし穴」と言うのだと思います。 完璧な結論が出ないものについて、ある選択肢を結論として選ぶことが落とし穴である、というところでしょうか。

noname#35512
質問者

お礼

ありがとうございます。遅くなり申し訳ありません。 >無数の答を出しうるのに、すべての答を見る前にひとつの答で満足してしまっている。 他の回答を見過ごしたまま満足してしまう、というのが落とし穴と考えるのですね。言葉を借りて言うならば、私の知りたかった問いに対して危うく「>ある選択肢を結論として選ぶ」ところだったということになりますね。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

目的を持って遠く彼方の町へ旅をする旅人にはいくつかのタイプがあります。 1.旅の途中でいろいろ楽しいことがあり、その楽しいことにかまけて目的を忘れ、たどり着けない人。 2.旅の途中で人にいろいろ言われ、そうかなと思って旅をあきらめる人。 3.ただひたすらに黙々と目的地を目指し、目的地にたどりつく人。 1.と2が哲学の落とし穴に落ちた人ですね。

noname#35512
質問者

お礼

ありがとうございます。 哲学する人を旅人に例えてのわかりやすい回答ありがとうございます。 私が知りたかった問いは、目的地の無いものだという事がわかりました。 あてもなく旅をしてしまったために1と2が目的地だと勘違いする危険があると勝手に想像してみました。

  • kita33dr
  • ベストアンサー率32% (86/268)
回答No.2

ある問いの答を出したとして、それが「正解」であるかどうか。 現代では正解であるとしても、将来は間違っているかもしれないのです。 もしくは同じ時を生きていても、場所・人種によって正解が違うかもしれません。 これが正解だ、と決め付けて思考停止することが落とし穴に落ちる、ということなのかなと素人ながら推察しました。

noname#35512
質問者

お礼

ありがとうございます。 もし答えを出すとしたら、現代はどうか?将来はどうか?場所が違ったらどうか?人種が違ったらどうか?と、他の条件に当てはめていろいろ考えてみないで答えを出せば落とし穴に落ちるということなんですね。

回答No.1

居心地のいい落とし穴に住んじゃうことでしょうか。 落とし穴程度の広さであれば、ちょっとやれば全てを理解できるでしょうし、落とし穴の中では自分は王様です。苦労して落とし穴から這い上がるとその広い世界では自分の価値は塵ほどになってしまいますから、苦労して這い上がった結果絶望しかないのなら、なんでわざわざ這い上がるのかってことです。 例えば、人っていっても、今現在60億過去に存在した人も含めると膨大な数の中、何人知っているかと分析すれば、軽々しく人はなんて言えませんが、自分のイメージする「人」という概念なら、その人にとって明確ですし、明らかです。でも、人が人をイメージする時はその人の知っていることでしかイメージできないので、自分のイメージする人という概念が一般的だと思いがちです。 そして、違いを意識せずにそれが普遍的な概念って思ってしまう危険性でしょう。また、そう思わないと自分の中での理論が破綻するなんて時は、多少変とは思っても、自分の方を選んでしまいます。 人だと難しいかもしれません。例えば、地雷なんかがいいでしょうか。日本人のイメージする地雷と地雷原の中で生活している人のイメージする地雷は違うでしょう。ましてや親を地雷で無くした人のイメージする地雷は私には理解できませんが、地雷の本当の意味をちゃんと理解しているのはどちらだといえば、後者の方でしょう。でも、地雷原に住まないと地雷という言葉を使ってはいけないかというと、それもないでしょう。 こういった気持ちは地雷に限らず全ての言葉に対して持つべきだと思いますが、この気持ちが強いと不安定ですし、安心に程遠い状況ですから、つい、この気持ちを忘れがちになってしまいます。 忘れたほうが気持ちいいですし、同じように忘れている人もたくさんいますから、お仲間も見つけられます。 昔ガリレオが望遠鏡を発明して発表してた時、集まった科学者は遠くのものが大きく見えることに驚嘆し賞賛しかけたのですが、月を見てクレーターが見えた途端、評価を下げました。彼らの先端科学では天界にある月は完璧であるはずで、鏡の様に光っていなくてはいけないのです。太陽の光を反射しているのですから。その月にクレーターの如きアバタがあってはいけないのです。なので、ほどほどの遠さのものは大きくできるが、遠くにありすぎるものは、その形を歪めて映すものと理解し、評価を下げました。 こんな危険があるってことです。 ホンのちょっと前も、生物が存在するには水と空気が必須であるなんてしたり顔で学者は語っていましたし、こんなことは、少なくても100年後に現代を見れば、たくさん出てくることでしょう。 理論優先で、事実のほうを曲げてしまう危険ってことでしょう。 科学の実験結果なんかにはその危険が指摘されますが、哲学ともなると実験による反証ができない分野ですから、その人が受け入れないと思えばそれまでですから、いっそうの注意が必要ってことです。

noname#35512
質問者

お礼

ありがとうございます。 日常生活を送る分には落とし穴に入っていた方が居心地がいいかもしれませんね。答えがあった方がすっきりするし心地よいです。 >違いを意識せずにそれが普遍的な概念って思ってしまう危険性でしょう。 居心地いいものも、一変して、哲学する人にとっては危険性があるということですね。 「人」「地雷」「ガリレオの望遠鏡」のお話を通してわかった事は、事実を見なくても語る事は出来るが、事実を本当に理解しているだろうか?という気持ちを忘れないようにしたい。ガリレオの望遠鏡のように事実を見ずに語った事が、事実より正しいというおかしなことにならないように注意したい、という事ですね。 丁寧な回答をありがとうございました。

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