アメリカに38年半住んでいる者です。 私なりに書かせてくださいね。
>よく「英語は論理的な言語」といわれますが、
と言う事は別にそれが正しいと言う事ではなく、そういう人が多いように見えると言う「だけのこと」だと思いますよ。今度これを言う人に聞いてみてください。 論理的とはどういう意味ですか?、と、なぜそうだと言えるのですか?と。
私にはどうみてもこの表現は「他の人が言っているから正しいだろう、だから私も言おうっと」と思いながら言っているだけのことでこれを言っている人が本当に心底から言えるだけの実用的知識があるとは思いません。
学校文法にがんじがらめになって、分類作業によって「法則」が作られているのをみて、法則がしっかりしているから論理的という「論理を基に作られた感想ではなく、表面だけの理解と感情によって作られたコメント」としか私には思えない、と言う事です。
どの言葉でも、特に近代言語と言われる言葉で意思の疎通が出来ないものは全くありません。 そして全て論理的に(学校文法などに頼らずに)説明できます。
論理的とは何か、という問いに答えられる人がどれだけいるでしょう。 私も上で使いましたが、ほとんど全く意味を持たせずに使いました。 なぜなら私もこの表現のはっきりした意味合いを知らないからです。
つまり、私は「英語は論理的な言語」といわれることに対し、英語の表現や社会文法の中で論理的なところは何だろう、なんていかにもこのコメントを正当化するための事柄を羅列しても意味がないことを知っていると信じているからです。
たとえ英語の中で論理的要素を見つけてもそれと同じ量の論理的要素を日本語でも見つけられるはずだと思うからです。
一つや二つの論理的要素を示しても、その言語が論理的だといえるはずはないのです。 そのコメントこそ、論理的ではありません。
日本語の表現があいまいだと言っても、それにもかかわらず相手はほとんどわかってくれる、と言う事自体、何か論理的要素が日本語の社会文法では論理的に成り立っているはず、だと思いませんか?
否定形が最後に来るからと言って、最後の最後までその否定のフィーリングを感じない、と言う事が本当に起こっているとでもいうのでしょうか。 状況やその人の性格、そして、その文章のイントネーションなどで、否定を言うな、と言う感じは「~ない」が来るまでに感じ取っていると思います。 私は感じています。 最後の最後まで~ないが来るまで分からないのは、その人が肯定文としてのイントネーションなどで話していて最後にからかう感じで「~ない」を言うからだと思っています。
貴方なしでは生きられない、と言った人が本当に論理的なことを言っているとは思えませんね。 もっと奥の深いことを言っている、と論理的に感じてはいませんか?
そして、更に、どうですか、この二つの論理的という表現の意味合いが違うのに気がつきましたか?
I can't live without youだって全く同じなのです。 logicalと言うフィーリングからは全くはなれた表現ですね。 しかし、日本語と同じように、emotionがこの表現を作っているんだ(つまり、フィーリングが作っているんだ)と理解していると言う非常に論理的な理解からこの文章をExpression of Loveとlogicalに理解するわけです。 (言われて困る人もいるし喜ぶ人もいるわけです)
これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。
人が言うから自分も論理的だ、と言う事ではなく、自分にはその論理的だという人の考えに間違いがあるに違いない、と私は見ると言う事です。 それを感じさせるだけの英語力と日本語力を持っていると独りよがりしています。
お礼
詳しい説明ありがとうございました。