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言語と論理的思考
言語はコミュニケーショのためのツールだけではなく論理的思考に欠かせないものだと思います。 より複雑な思考をするためには複雑、多種な語彙、発音が必要ですよね? 日本語はその発音の少なさ語彙で補っている気がします。 では、少ない語彙、発音しかもたない民族は複雑な論理的思考は出来ないと考えて良いのでしょうか? どこか間違っています?
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言語の面から回答します。言語について回答することは、その言語の使用者について論じる事とほとんど同じだからです。 人間は言語(ラング)によって世界を認識しています。言語が現実世界をすっぽりと覆い、その網目のひとつひとつを私たちはモノや概念を表す記号として捉えているのです。当然この網目の細かさや形は文化によって異なります。例えば同じ虹を見ても日本のように7色に分解する言語もあれば、わずか2色にしか見ない言語もあるわけです。 こういうことを総じて「文化」と呼んでいるのですが、大事なことは7色であれ2色であれ、それぞれの世界の認識において言語が果たしている役割は全く同じである、ということです。逆に言えば、言語が対応する現実と切り離して、単純に言語の複雑さを論じても意味がないのです。 10万の語彙を持つ言語は、1万の言語に比べて10倍発達しているわけではありませんし、使用者が10倍優れていいるわけでもありません。仮に1万語の言語でも、それで十分に機能していてそれ以上の語彙を必要としないのであれば、それは10万の語彙の言語がその社会において機能しているのと同じ程度に機能している、と言うべきなのです。論理性についても同じことが言えます。 例えば、太平洋の島で話されるある言語を用いてロケット開発の議論をしたり、ヘーゲル哲学の書物が翻訳できないということは、それは今現在そういう表現や論理が要求されていない、ということを別の言い方で言ったに過ぎません。ましてやそれを使用者の能力に帰結させてはならないと思います。 言語の複雑さ、単純さの程度や語彙の多寡の相違は、表現しようとする現実がそれを要求するかどうか、ということから生まれるのであって、言語が単純であるから認識のレベルが単純どまりで複雑な思考ができないのだ、といった議論は因果関係を間違えています。 論理性ひとつとっても、いわゆる“未開部族”には彼らなりの因果関係や論理の体系が厳然と存在するのであって、一見我々の目に不合理や非常識と映るに過ぎないのです。こういうことは文化相対主義の立場に立つ文化人類学や民族学の知見が多く明らかにしているところです。 言語に大事なことは、静的な問題より、むしろ変化に対応する動的な能力といっていいでしょう。要するに、対応する現実が複雑になり必要になった時に莫大な数の新造語を作るなり、膨大な数の外来語を借用するなりして需要を満たし得る能力があるかどうかということだと思います。そうやってその言語が変化を遂げることができれば、その言語は存続していけるわけです。 昔からよく「借用は言語の最大の力のひとつ」と言われます。英語で使用頻度の高い1万語のうち、ゲルマン系の単語は3割強に過ぎず、フランス語系が4割、ラテン語が2割近くを占めるという統計があります(フィッシャー、1993)。裏を返せば、外来語を持たない“純粋な英語”はそれだけの表現力しかもっていなかったということの証左でもあります。 日本語でも漢字や外来語を柔軟に吸収し(時には換骨奪胎して)認識のレベルを複雑化する世界の現実と釣り合わせてきた歴史があります。今現在、限られた音しか持たない私たちが漢字を使わずに、果たして大和ことばだけでどれだけのことを表現し得るかを考えて見れば、その歴史の意味はわかるでしょう。 確かに未開言語というような捉え方があって、いろいろな特徴が議論されてきた歴史があったのも事実です。多くは西洋言語の特質をもっぱら進んだものとして捉え、その使用者がより“高度な存在”であることを理屈づけようという動機に満ちたものでした。 例えば、「多義性」の単語が多い言語はより未開言語である、とか、屈折的タイプの言語がより発達している、といった議論がかつて根強く吹聴されたのです。 しかし、例えば「私は昨日行く。今日行く。明日行く」という表現をする言語に対して、動詞を未来形にしたり過去形にしたり、主語の格や単数・複数の区別を要求される言語のほうがより高度であり論理的である、という根拠は何もありません。要は、言語外の現実を言語に捉える時の、それぞれの言語の(つまり使用者の)捉え方の枠の違いに過ぎないのです。
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日本語は語彙が多いと思っていらっしゃるようですが,本当にそうでしょうか。自然科学関係の語彙は極めて貧困です。生物に投稿されておりますので,生物的にお答えします。 日本語は生物的には,語彙の面では極めて貧弱な言語です。クルミやクリのような堅い実を英語ではナッツといいます。日本語では後で堅果と名付けました。 また,イチゴなどの柔らかい実を英語ではストロベリーといいます。日本語はありませんが,後に液果と名付けました。 また,日本人ではマスとサケの区別は付かないのではないでしょうか。英語ではトラウトとサーモンと区別しています。日本人が秋ジャケと言って食しているものもサケではなくマスです。 以上のように,日本語は自然科学に関しては語彙の少ない言語です。しかし,日本人が決して自然科学に向いていないとは思いません。田中さんのようなお世辞にも語彙が豊富とも思えない楽しい方がノーベル賞をもらえるのですから。
お礼
回答ありがとうございました。 広い観点のお答え勉強になりました。
- cellorist
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>少ない語彙、発音しかもたない民族は複雑な論理的思考は出来ないと考えて良いのでしょうか? この問題に正解があるのかどうか知りませんが 私はま違っていると思います。 少ない語彙、発音しかもたない民族では 複雑な理論を表現するのは多様な語彙、発音を持つ民族に説明するには確かに難しいでしょう。 だから少ない語彙、発音しかもたない民族が論理的な思考をできない(する能力が無い)と言い切れるのでしょうか? 言葉や発明は必要に応じて表現方法とともに増えてくるものではないでしょうか。 言葉より思考が先にあってそれを表現する手段として新しい言葉が生まれるのではありませんか? 論理は永い人類の経験と実践がDNAにインプットされている何かから湧き出てくるので 今突然出てくる(様に見えても)物では無い気がするのですが。
お礼
回答ありがとうございました。 大変参考になりました。
- Largo_sp
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>より複雑な思考をするためには複雑、多種な語彙、発音が必要ですよね? その考え方が正しいとしたら、 0と1でしか表現しないコンピューターは、 論理的思考ができないということになりますよね... 充分な語彙があれば、発音自身は少なくても問題はないと言うことです。 どれだけの短い間にその発音を聞き取れるかが問題になるだけです。 少なくとも語彙が少ない場合、論理的な表現がしにくくなりますね。 しかし、「できない」わけでなく、情報を伝えるのに充分な語彙があれば (恐らく1000語程度)「非常に長い表現になる」だけということです。 数学の論理情報を考えれば、記号は100もない程度で殆どのことを現しています。 語彙がそれだけで論理的な表現はできるということです。 後は物を示す単語ですね...これは物の数だけ必要ですから....
お礼
回答ありがとうございました。 勉強になります。
お礼
大変納得のいく回答です。 ありがとうございます。