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受領名や百官名の基準
こんにちは。 室町以降広まったと言われる受領名や百官名といったものは、名乗るだけで実務を伴わないのですから何を選んでもいいような気がするのですが、何か選ぶ際に基準や決まりのようなものはあったのでしょうか。それとも純粋に好みであったりするのでしょうか。 主君が授ける場合も同様に何か基準のようなものがあったのでしょうか。 自分や祖先の所縁の地から受領名を選んだり武家に相応しい官職を選ぶというようなものであればわかり易いのですが、そんな場合でも四等官のどれにするなどというようなことはどうなっていたのか疑問です。 ご存知の方お教え頂ければ幸いです。
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質問者が選んだベストアンサー
とても良いご質問ですね。 戦国時代は、自分で好き勝手に付けていたという#1さんのご回答で良いと思います。 五位諸太夫になったときの受領名は自由に選べたという、山本博文さんの本を読んだばかりです。江戸時代には、紛らわしいので老中の受領名は避けた、との事ですが、ある受領名はある大名家の独占であったそうです。三田村翁の最後の弟子であった小川恭一(だったかな?)さんの本に書かれてました。 同じ五位諸太夫でも、格があるんじゃないかと思っていますが、数多くの事例を丹念に追わないと、判りませんよね。 戦国時代は、実力主義ですから、現代で言えば「○○コーポレーションCEO、何野誰兵衛」と名乗っても実績がなければ相手にされない。 そんなもんじゃないかと思います。
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質問者さんの方がお詳しいかも知れませんので、回答ではなく雑談的感想ということで。 江戸時代に入ると武家官位は別立てで整理し、幕府はそれなりに管理して、大名の統制のために上手に利用していたように思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%AE%98%E4%BD%8D 戦国期のことはよくわかりませんですね。 ナントカ公方(古河公方など)のような人が、お金を取って出すとかのようなことがあったんじゃないでしょうか。出来星大名がこのようなそれらしき人に、自分の、あるいは家来の官位官職を頼んだら、それなりのもっともなものが交付?されると思います。 その昔でも卜部家(吉田家)が神主さんに本物の官位ではない、よく似た名前のものを乱発したという話があります。 江戸時代でも、内膳司濱島家家が百姓町人に官人のマネをさせています。↓ http://www-cc.gakushuin.ac.jp/~hist-soc/taikai/taikai2002-1.htm 戦国期にはまるで何の根拠もなく名乗った場合もあるでしょうが、そういう場合はえてして非常識な名前になりかねません。 また、何の根拠もなく名乗るのは意外と難しいもので、それらしき人に頼み、それらしき人が朝廷に断りもなく発行した例が多いのじゃないかなと想像します。 今の世でもこんなものがあります。↓ http://nnaahona.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_1a0f.html 少し前に日本でも、適当な論文のようなものを書き、それとお金を差し出せば希望の博士号を授与してくれるところがありました(大学ではありません)。
お礼
>質問者さんの方がお詳しいかも知れませんので、回答ではなく雑談的感想ということで。 何を仰いますか。私のほうが知識が浅いことは傍から見ても明らかだと思いますが、万一そうでない場合があったとしても質問させて頂いた以上はどのようなお話でも大歓迎ですし、心して承る所存です。 江戸時代でも下層のほうではそのようなことが罷り通っていたのですね。お百姓さんでもそのようなものを欲しがるというのは意外でしたが、やはり狭い共同体の中でも少しでも優位に立ちたいという心理が働くのでしょうか。 そうなると戦国時代などは何をかいわんやですね。有名無実なものである筈なのに「それなり」のものでないと周囲に認知されないというのも考えてみるとおかしな感じですが、やはり「よりどころ」あってこその看板ということなんでしょうね。 貴重なお話どうもありがとうございました。 余談ですが意見を述べる場を与えて下さったこと感謝致しております(あちらで書き忘れてしまったので)。
- a-koshino
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今川家のように、武勇の誉れ高い先祖、足利義兼にならい、代々の当主が一度は上総介を名乗る、という家もありました。 信長が勝手に上総介を名乗った時には、さぞかし今川義元は腹を立てたでしょう。今川への挑発のために信長が名乗ったのかは、わかりませんが。
お礼
なるほど、逆にいうと「上総介」を名乗ってこそ今川家の当主ということにもなる訳ですね。それが信長のねらいの一つだとしたら面白いですね。 やはりそういう慣例があるようなものだとわかり易いですが、下っ端になればなるほど何故それを選んだのか理由がわからないようなものも多くなる気がします。受領名でもこの国が良いとか悪いとかそんなこともあったのでしょうか。 ご回答どうもありがとうございました。
- tanuki4u
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基本的には、それぞれ名乗る方の、勝手、ご都合主義の固まりです。なので、基準などありません。 ただ、名乗っても呼んでもらえないと意味がないので、周りの人が呼んでくれるような、それなりの謂われは主張しているようです。 信長は上総守を名乗りました。 自称平氏、平氏で有名は千葉氏で上総の介。 というところです。 ※ 上総守を名乗ったのは、無知から来るのですが、まぁその程度の知識でOKということでしょう。
お礼
なるほど、自分の都合で決めてしまっていいのですね。それでも周囲の人間をある程度納得させるようなものが好ましいという訳ですか。すると周囲から「おい、それはあんまり大風呂敷を広げすぎ(?)なんじゃないか」などという反応があって改めるなんていうことも有り得たのでしょうか。 ご回答どうもありがとうございました。
お礼
>とても良いご質問ですね。 恐れ入ります。伺ってみたいことは沢山あるのですが、素朴なことであればあるほど「こんなことを質問して大丈夫だろうか」とつい躊躇しがちなので、そう言って頂けると救われます。 なるほど、やはり江戸時代に入るとそれなりにルールも出来てきたのですね。大岡忠相が越前守であった時には他にも二人ほど越前守がいたと聞きましたが、受領名は国の数しかない訳ですから下のほうでダブるのは仕方なかったんでしょうね。そういえば「守」でなく「介」以下といいうのは(親王任国の「介」以外は)あまり聞きませんね。次官以下ではあまり意味がないということでしょうか。 ご回答どうもありがとうございました。勉強になりました。