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インターネット時代の人間性

インターネット時代(現在)は、その特徴として、先進国では、膨大な消費性と情報性があふれかえっていると言えるでしょう。このことは、ものの価値を吟味する余裕もなく、あらゆるものが指の間から零れ落ちてしまうように、くだびれるだけで何も残らないと言う傾向に陥りやすいのではないでしょうか。そのことは人間にとって、物質性豊かさの光に対する影のような不毛な要素だと思います。これらの不毛性を生みつつある現代社会は、肯定的に捕らえられるのでしょうか。 EX.教えてグーでもなかなか回答質問を吟味してやろうとしません。情報処理の時間勝負になっている例が多い気がします。

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  • sinfonia
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回答No.7

仰る通りに思います。 また、そのように感じておられる方も増えてきているのではないか と考えております。 少し大げさに言ってしまえば、今まで人類が感じたことの無い 大規模な不毛さといえるのではないかと思います。 一つ一つのものの価値が「圧倒的な量」と「秒進分歩」の威力に 消され、無力化され、破壊されるようなイメージすら抱きます。 ただ、この不毛性を感じることが次への進歩に繋がるとも捕らえて おります。 「物質性豊かさの光に対する影」という考え方は豊かになって初めて 生まれてくるものではないかと思うのですが、ネットの利便性は 驚くほど巨大なため我々はまだその裏の巨大な影に慣れていないと 考えるのです。 (ブログの炎上や、フィッシング等の実問題から検索エンジンを  使った膨大な情報からの取捨選択という方法論的な問題まで) しかしながらその巨大な影による「不毛さ」もまた人間のニーズで あると個人的に思っております。 スローな生活(LOHAS的、というのでしょうか?)を求める欲も 持ち合わせている限り、ネットの質も少なからず見直されていくと 考えます。 mixiでのやりとり疲れを起こす人や、廃墟となったブログは利便性 だけを求められているのではないことの証明だと思います。 空虚感の漂うこの辺りに私は逆に新たな光を感じている次第です。 長文失礼しました。

noname#32495
質問者

お礼

はたしてこの不毛性が進歩に通じるのでしょうか。世の中の民主化と一定イカと思いますが、このネット社会や大量消費安物ちゃらちゃらの時代から、本当に何か生まれるのか、疑問です。人間はもっと全体的にまとまらなければ堕落していくだけなのではと。 ブログ「炎上」って何でしょうね?

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  • haya122
  • ベストアンサー率50% (1/2)
回答No.9

肯定的な面を無理やりひねり出したので、質問と回答がずれてしまってごめんなさい。と、まず謝っておきます。 何かで聞いたのですが、オンデマンド移動図書館というものがあります。 著作権が切れた本をデータ化してデータベースに収めます。衛星からデータを受信できるパラボラと印刷機や製本機が載せられている車があります。 その車で、主に子供達ですが、本を希望する人達の所に車で出かけて行って、カタログから欲しい本を選んでパラボラを通じたデータによって本を印刷する。本の部品を用意して、本が欲しい人が自ら本に仕上げて行く。 というような活動を聞いた事があります。あやふやな記憶ではインドと中東とアフリカで活動しているとの事でした。 本をデジタル化して保存するだけではなく、もう一度紙に印刷して使用する。 これは例ですが、このような行ったり来たりで不毛性を何とかできないでしょうか? 難しいと思いますが…

noname#32495
質問者

お礼

いいですね!やはり「本」と言う形になっていることは大事だと思いますよ。どうせまた回顧的なこういう動きが流行するのでしょうね。ただ主流はますます空虚な民主化に向かうでしょう。

回答No.8

>これらの不毛性を生みつつある現代社会は、肯定的に捕らえられるのでしょうか。 そうだと思います。ある一定時間内に取捨できる情報量が、一人の人間の取り扱える限界量を超えている現実に振り回されてる結果、様々な齟齬を生じているのが現状だと思います。 このことについては過去の情報革命を振り返ってみれば容易に首肯できるでしょう。例えば、グーテンベルクの活版印刷、ラジオ・テレビの放送、ITの進捗などが引き起こした混乱とルール作り。それまで一部の特権的な人々が独占していた「情報」が万人(といってもPCを持てる層)に、有用・無用も含めて総て「等価値」なものとして投げ出されています。そのこと自体は多分「いいこと」なのだと思います。 簡単に言えば、万巻の書を収める「バベルの図書館」の開架を前にして、歓喜と絶望を感じるのに似ているのでは。情報を利用できるかどうかは利用者の能力の問題であり、情報リテラシーの熟練度の有無が「有用」「不毛」を画するのでは、ということでしょう。 おそらくあまりの情報量過多のために、Wikipediaのように情報をまとめ交通整理する「情報のための情報」が重宝されるのでしょう。 問題は、そういった「不毛さ」に浸蝕され振り回されて「自分を見失う」あるいは「現実を見失う」ことです。インターネットはあくまで道具的存在です。便利であるか否か、です。 「教えてgoo」では言って期間を過ぎた質問については「早く締めるように」という連絡が来ますね。それはそういったルールを設定しているだけで、もっと時間をかけて回答吟味するといった「本格的な運用→能率の悪さ」を運営者側が嫌っているからに過ぎないのでしょう。曰く、要求する場が違う、です。 質問者さんへの回答にもどります。たとえ話になります。 自動車は便利です。でも自動車事故で毎年何千人も命をなくしています。これは自動車の「不毛」な面です。自動車の「不毛性」について、 「これらの不毛性を生みつつある現代社会は、肯定的に捕らえられるのでしょうか」

noname#32495
質問者

お礼

昔の情報と今の情報の質が違うのではないかと思ってしまいます。Wikipediaにしても、素人が書いているわけですから、やはり拡張とか重みはないでしょう。そういうもんが世の中にあふれる時代になってきたことはどう考えればいいのか。 ある程度格調高いものと付き合えれば、それが誤謬に満ちていても、なにか得るものはあります。しかし、広範囲な民主化(ネット社会)における、重み内容の希薄な量社会はどういう利点があるのだろうかと。 自動車にしても、必要量を超えているのではと思います。ネット社会も何事も調度いい塩梅はあるもので、それが結局統制できないならないほうがいいのではと。

  • frau
  • ベストアンサー率28% (56/199)
回答No.6

某文献からの抜粋なのですが、 「ITがもたらす変化は研究されていて独自の現象(社会的規範に反する行動、意見の極端な方向へのシフト、フレーミングと呼ばれる他者への攻撃的な表現の頻発、社会的ステータスを超えた発言の平等化など)が発生すると考えた」 これはクロートという研究者の調査によるのですが、「インターネットの利用が多くなればなるほど、家族や近隣のコミュニケーションが減り、孤独感が深まり、抑鬱傾向が高まるというように、対人関係・真理的傾向のいずれにおいてもネガティブな結果が見られた」そうですが、その後の調査では逆に「インターネットを活発に利用する人は、日常の社会ネットワークも広くなっている(「活発な人はさらに活発になる」)現象が見られることがわかった)」そうです。 >ものの価値を吟味する余裕もなく そうでしょうか?有史以来の人間の英知の宝庫だとは思いませんか?ネットは巨大な辞書のようなものだと思っています。図書館などよりも数も豊富でスーペースも紙の資源も節約できるし、閲覧(検索)も便利です。買い物に不便な田舎でも、近くに郵便局さえあればヤフオクはできるし、クロネコが運んできてくれる(笑)。 たとえば当方も利用しているヤフオクは電子空間を借りたフリマです。資源を消費するのではなく循環しているわけです。着古した服を気に入ってくれる人がいる。逆に探していた服を見つけることができる。廃盤になったCDや本を手に入れることができる(探しているときがいちばん幸せです♪)だから単に消費だけとは限らないでしょう。 >ものの価値を吟味する余裕もなく でも現に質問者さんもこうやってものごとを吟味(哲学)なさっているじゃあないですか(笑)(bossambaさんはこのサイトでいつも真摯な質疑応答をされていますよね)。考えるというのも相対的なもので、質問されるから答えたくなる、答えが欲しい場合匿名性を借りて気楽に質問できる。 私がここを利用しているのは考えをまとめるノートのようなものにしているからです。日記は一人称で閉ざされた空間のようなものですけれど、二人称という刺激は、自由連想を促されるような気がします。そのレスに対してまた色々と考えさせられる。同じ場所(質問)に寄せられた他の回答者さんの回答もすごく勉強になります。 だから最近このサイトでレスしない人は確かに増えたのは少し残念な気がします。でもそれって腹を立てるようなことでしょうか?それについてわざわざトピを立てる人もいますけれどね。「>情報処理の時間勝負」の時間に負けている人だと思います。だから自分にとって有効な質疑応答の場所を吟味すればよいだけでしょう。自分と他者との境界が曖昧なネット環境という性質を考えれば、スルーしてもよい問題だと思います。それはサイト側の問題ですから。(必ず「お礼」しなさい、喧嘩や議論はだめ、という強制的なシステムがあれば自分はそのマナーを守っていれば「住人」の安全は守られるわけです) そこに人と人とのコミュニケーションを求めるときそれはまた違った問題になってくると思います。上の調査結果はポジティブな結論ですが、犯罪も関わってくるしで。 掲示板という場所は自分の問題を他者と同一視しやすいのでしょうか。当然相手と自分は違うのですが、受け取った卑小な情報を錯誤し、過大視し、思い込みはそのままで、相手からの反撃をさらに私腹とするような人もいます。となれば酔っ払いが電柱に対して日頃の怒りをぶつけているようなもので第三者から見れば滑稽ですが。 「社会的ステータスを超えた発言の平等化」というのは、ポジティブに捉えることもできます。相手との社会的立場や力関係などで制限や阻害、誤解されるような意志伝達を、「平等化」された空間で伝え合うというができる。それこそネットからの恩恵だと思います。ですが上のような例に見られる「影」も浮き彫りにされやすい。だから電子的空間といってもすごく人間くさい。 そういう私も以前はこのバーチャル空間の中でいちいち腹を立てたり気にしたりしたのですけれど、他者の怒りに巻き込まれる筋合いはないと気がついたとき、私ってなんてバカだったんだろうと気がついた。もっともそれを気づかせてくれたのは他でもない同じ「住人」なのですから、これは電子的空間におけるポジティブな結果をもたらした、ということになりはしないでしょうか?(少し大人になった(笑))。 >物質性豊かさの光に対する影のような不毛な要素だと思います。 これは「物質的=豊かさ=光」「ネット=影」という意味でよいのでしょうか?消費されてゆくしか道が与えられていない物質こそ不毛であり、ネットという実体性のないところでも、物質なり精神なりが循環、還元されてゆくのなら不毛であるとはいえないのではないでしょうか?また物質に光が当たれば影も生じるように、上で述べたように、ネットという環境も影もあれば光もあるわけです。

noname#32495
質問者

お礼

ネット社会にしろ、通販や安売り大量商品流通など、市民化の極度に進んだものと思います。大学の乱立もそうです。要するに「本物」が世の中の隅のほうに追いやられている。 本物でないものばかりあふれて、どうでもいい、時間つぶしにしかならないようなものばかりが身近です。 インターネットやって疲れるというのは、どうも無駄が多すぎる、意見の相違というよりも、人間のモラルや教養が最善の結果を生むのには低すぎるということです。結局ハードのほうは便利なのに、内容がないものが多すぎると言う事です。 それが現代社会の特質のように思います。普通に手に取ると、あるいはそれしか手に取る選択の余地がなく、それはまず間違いないもの、重みのあるもの、存在感のあるものというような社会であれば、不便さは若干あるにしろよっぽど精神的によいでしょう。

noname#25449
noname#25449
回答No.5

bossmbaさんは議題に関してかなり思考を展開させているようですね。 しかし、思うのですが、物質的豊かさ=膨大な消費性・情報性→何も残らない、という不毛さ自体をまずは練ってみる必要がありそうだ、と私はまず思いました。 情報というものが目に見えないがために、手に入ったという感覚を実感しにくい、あるいは消費することのうちの「失ってしまう」という感覚に注目しすぎたために、不毛であると思っているのでは…。 今の時代情報化社会と言われます。それはつまり、「情報を知ることがもっとも役に立つからこそ情報にシフトしている」ということだと考えられます。実際に誰も知らない専門領域について造詣を深めることで、私達は専門家・プロフェッショナルとして生計を立てたりしています。逆に誰でもできるような仕事は給料も安いと思います。給料というわかりやすい形で比べてしまいましたが、情報は実感しにくいとはいえ、確かにそれらは私達の手に入れたものリストに並んでいるのです。 では消費性はどうでしょうか…。消費性ある社会では人々はたくさん消費しているわけですが(強迫的なくらいに)、これは消費することでお金が回るから、ではないでしょうか? 今もそうかもしれませんが、不況がもっともひどかった時に誰もお金を使おうとせずに地域振興券などが発行されたように思います。(あの経済的効果を私は詳しく知らないのですが)それで売れるためには価格を下げるしかないとなって、余計にお金が回らない、デフレスパイラルになったのでは、と私はかんがえているのですが、どうなのでしょうか…。 主婦がおかずのために使い、それらを加工する工場や農家の人の給料が増える、という図式が一番シンプルです。洋服に使い、デザイナーの手に。パソコンを買い、プログラマーや機械工業の業者に…。エステのために使い、エステティシャンの手に…。 基本的に私達は消費すると同時に何かを得ているわけですよね。それが情報やサービスなど実感しにくいものであっても。 あるいは、不毛と考える理由にもうひとつ考えられるでしょう。物質が豊かであると、人は最初から何でも手に入る状態にある、といえます。だからこそ、新しく手に入るものへの充実感が薄れ、代償に失うものへの喪失感が高まる…。そういったことではないかと思います。月に一回豪華な食事をとると、月一回に手に入れた~となるかもしれませんが、週6で豪華な食事だと、残りの週1がわびしく感じるかも知れません。 「飽食の時代」というやつでしょう。 最後の教えてグーに関して。 bossambaさんも教えてグーに登録なさっているのならば、自身回答や質問をなさっていると思います。 そのような時に、質問した時に「早く答えが欲しい」と大抵の人が思うはずです。早く答えを知って、胸を撫で下ろしたいと。それを察した人は「早く答えを送ってあげよう」となるのでは…? あるいは、いつも質の高い質問を返してくれるのに、室の低い質問しかこない…、と思ったのならば、bossambaさんが質の高い質問に慣れすぎて、低レベルな質問をないがしろにしているとも考えられます。つまり、bossambaさん自ら今度は「量」ではないものの、「質の情報性」にとらわれて、低レベルな質問なんて不毛だ、と感じていることになります。 また、教えて進路にだけ人は時間を割くのではないですし、ちょろっと覗いて答えられるものにその場でできる最大限の答えを送る、というやり方もあります。また専門に関して全てを詳しくしっている人もまた少数だと思います。完璧ならざる人間がお互いに補完しあっているからこそ、「吟味してるとは思えないような」回答があるのだと思いますよ。あなたの回答を見てみてください。質問に対して、完璧な(高質の)回答が一体いくつあるでしょうか? もちろん、私もまた完璧な回答は作れないのですが。

noname#32495
質問者

お礼

情報や商品の流通量が、人間の消費限度を超えているのではないか、それが占いストレスや不毛性を生んでいるのではあるまいかという疑問があったのです。はたして「好景気」というものが必須なのだろうかと。 物事や文献視聴覚資料などを味わい吸収するためには、その対象にじっくりと向き合わなければなりません。CDなら5回くらい聴かないと印象に残らないし、中身も分からない。でもこうも情報過多な時代にそんな悠長さはあまりない。それがどんな分野にも多かれ少なかれいえます。「飽食」の不毛性。 教えてGOOも、このジャンルは別として、質問しても意味なかったような答えしかなかった、あるいは何十個かのうちに1つくらいいいものがあったというような、無内容の氾濫みたいなものが、ネット情報には多い。これを同種主選択するかで疲れてしまう。そんな事なら、百科事典でも開いて、分からなかったらだめもとで聞いてみるくらいがいい。 要するに世の中無駄が多すぎです。

回答No.4

ご質問の本質は、現代社会一般について言えることで、 とりわけインターネット特有の問題ではありませんね。 たとえば、100円ショップで便利に結構良いものが買えるがゆえに、多くの職人技が残念ながら消えてしまったり。 選択肢が増えたときに、一般に必ずしも人は最善の選択をするとは限りません。 もし、情報が十分に与えられていなかったら、 最善でない選択肢を選んでしまう可能性もあるからです。 インターネットの情報も、吟味するべきものを、そうでない文化行動傾向で、見逃してしまうことも、場合によってはあるかもしれません。 しかし、長期的には、選択肢が増えて、便利な世の中になっていくのは、良いことであると信じたいですね。 あとは、個性に任せればよい。 納得づくで、情報を浪費しているんだったら、それはその人の主体的選択です。既出の回答にもありますが、そうでない人々も多いってことです(私も浪費型ではありませんね)。

noname#32495
質問者

お礼

現代社会には光と影がありますね。光をうまく利用できればいいです。 便利な世の中情報豊かな世の中は、対極よりも比較の上ではよいと言えるでしょう。ただ、問題が多い事も確かです。

回答No.3

『もっと選べる世の中は きっと素敵な世の中です』 10年ほど前、就職活動をしていたときに、 リクルートのパンフレットにこんなコピーがありました。 私は、ほんとうにそうだなーと思います。 田舎にいたころ、私には選択肢がありませんでした。 個性的な性格だったので、話の合うともだちがおらず 水を得てない魚のように、息苦しい日々でした。 図書館や本屋の雑誌やエッセイを見て、東京に憧れました。 大学で東京に来て初めて、のびのびと手足を伸ばせた気になりました。 さまざまなアートやファッション、意外と緑が多いこと、 自分の生を模索している友人達に出会って、夢のようでした。 今の子たちはネットで人とも情報とも色々繋がることができ、恵まれていると思います。 感性を磨くにはどうすればいいかと思うと、 深く関わりあうこともひとつですが、 浴びるように美しい音楽を聴き、 浴びるように美しい絵や写真、その他のいろんなアートに触れ びっくりするほど繊細だったり鋭い感性の意見に出会うことや バーチャルでも何かを表現・創造することにも素晴らしい力があると思います。 「膨大な量」は「質へのこだわり」を凌駕する場合も多いと思います。 >EX.教えてグーでもなかなか回答質問を吟味してやろうとしません。情報処理の時間勝負になっている例が多い気がします。 何故そう決め付けてしまうのでしょう? 私はひとつの回答のために一週間以上考えたり、机に何時間も向かっているときもあります。 で、回答としては数行だったりします。 非常に吟味された表現の、素晴らしい回答にもよく出会います。 「知識や情報のシェア」を目的とする質疑応答は>情報処理の時間勝負 になっているかもしれませんが、 「意見や感想のシェア」を目的とする質疑応答は、必ずしもそうはいえない面が多いと感じます。 おっしゃる意味もよく分かりますよ。 悪貨が溢れて良貨が押しのけられている昨今です。 でもそれでも、求める人に可能性が開かれているということの価値は 素晴らしいと思うのです。

noname#32495
質問者

お礼

情報量が多い事は選択幅があり好みのものに当たれるということの反面、それを味わい吟味するまでの余裕がなくなってしまうという感覚があります。この「選択幅がある」と「情報量を余裕を持って味わう」こと両立できればいいんですが、人間の能力で難しくありませんか。 不要なものが多すぎる気がします。もっと身近なものを吟味すればなかなか面白いのに。どんどんどんどん新しいもの先へ先へ行こうとしてしまうんです。 >私はひとつの回答のために一週間以上考えたり、机に何時間も向かっているときもあります。 これはすばらしい姿勢ですね。わたしにはなかなかできません。 たしかにhir_o_miさんのいうような、いい面に注目できれば楽観できる問題かもしれないですね。

  • tikubiru
  • ベストアンサー率18% (13/69)
回答No.2

私はどちらかといえばネット社会にどっぷりつかっている者です。 質問者様の質問内容、言い回しが堅苦しいですが、非常に興味深かったです。 言われている趣旨は、まさにその通りだと思います。 情報という洗練されたデータのみを吸収することのメリットとデメリット やはりこの両方を考えないといけない時代になってきたと思います。 なんか食物と似てませんか? 現代食はどんどん柔らかくなり、咀嚼する回数、強さも変わってきてます。 それによってアゴの骨の形も変わってきている。 情報も「咀嚼」がいらないようになってきてますよね。 もうすでに洗練された必要最低限の情報が与えられて 自力で想像・創造しなくても良いように。 でも、情報処理の効率が上がることで、新たな発見や創造にも繋がるはずです。 と、信じていたい…

noname#32495
質問者

お礼

私もどうしても、紙の本で研究したいと主ってもこちらで時間をとってしまいますね。一種の毒素があるのだと思います。食虫植物のような。 情報を生かしきる以前に、情報そのものが必要なんだろうかと。 もちろんあったほうがいいことは確かですが、生かしきれないものをなまじ持っていることのデメリットも無視できないです。

  • xKURO-69x
  • ベストアンサー率27% (112/406)
回答No.1

じゃあ前時代的な統制のもとに、目的や生きがいを押し付けられる社会がいいんでしょうか? 情報過多の現在ですが、それが正しいかどうかなんてのは誰もわからず、 人間は、快適さを追求していく事しか出来ないのでは。 一方でネットとか必要ないっすよ。畑で暮らしたいっすよ。 っていう若者がいるという話も聞きます。それも一種の快適さを求めた考えですよね。 吟味するというのがよくわかりませんが、 長けりゃいいってもんでもないし、短いからだめって事も無い。 いいこと言う人は、一瞬の問答でさえも冴えてると思いますけどねえ。 あ、私は駄目なほうですけどね。もちろん。

noname#32495
質問者

お礼

どちらも問題があります。 選択に幅があることは確かに貴重な事です。しかしほんとうにそのメリットを生かしきれるのだろうか? ども個人的になかなかインターネット社会はうまく付き合えないです